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卒業式のない国で知った ”自分”の正体

小学校、中学校、高校...。イギリスの学校は卒業式がない。
卒業式がないことが、普通。
スッ、と学校生活が終わる。
セレモニーもなく、”祝”でもない。

※卒業式がない理由が簡単にわかりやすく書かれているのはコチラ↓のブログかなと思います。


当たり前が当たり前でない


その事実を教えてくれたのは、イギリス人とフランス人のハーフの英語の先生だ。
5年前、夫の海外赴任で初めて海外に暮らし始め、現地ですぐに申し込んだ英語レッスン。駐在した日本人家族がまず最初に申し込むというような有名な学校で、日本人に慣れているその先生にとって、私が驚く姿はきっと見慣れたものだったろうと思う。

映画観賞が趣味の私は、小学校の頃から、欧米の学校イメージがあった。
でも実際は、ハリウッド映画などほぼアメリカ映画で形作られたイメージだから、高校の卒業式といえば、プロム(と呼ばれるダンスパーティー)でドレスを着て踊るものだと思っていた。

英語の先生が、イギリスの卒業式について教えてくれた時も、私が、「イギリスも卒業式はダンスを踊るの?」と聞いたのが発端だったような気がする。それも、踊るという回答を前提に、本当はどうやってダンスを覚えるのかに興味があったのだ。

卒業式はないと言われた時の衝撃は今も記憶に鮮明で、日本の当たり前が当たり前でないことを痛烈に感じたシーンとして、くっきり脳みそに刻まれた。

そして、同時に、私のグローバルスイッチが入った。

日本の、いや、”私の”コモンセンスをオフにし、グローバルスイッチをオンにした、そんなイメージ。

脳での情報処理の仕様変更、世界標準にアップデート。
”常識”、”普通”というカテゴリで、「これはこう」と処理していたものを、全て、”私にとっては、これはこう”と、書き換えた。

「して、あなたはどうなの?」

と、相手の考えや感覚、感情を聞く時も、かつて所有していた常識や普通という脳内データは参照せずに(というか上記の通り書き換えたので、もうその常識フォルダはないのだ)、まっさらな状態で聞く。
聞いたことは、全て、個人レベルとして聞く。
フォルダ名も、個人名でネーミングされ、そこに収納する。

前に、note記事で書いたが、ロンドンで暮らすようになった1日目から、私の一挙一動が ”日本人” 代表のような気分であったこととは、まるで裏腹な感覚でもある。


”これが普通”がないと、目の前の人をよく見る


ロンドンという街は、電車に乗っても、英語が聞こえてこないというくらい様々な人種の人が、世界の言語でおしゃべりをしていて、旅行者も永住者も駐在者も移民の人たちも、全く区別がつかない。

そういう中で暮らす私にとってのグローバル感覚とは、完全に、その価値観、その行動、その服装、その考え方といった、人間を構成する全てのことを、”YOU あなたの話、あなたの感覚” と受け止めることだった。
これが普通という感覚は、ただの決めつけでしかないからだ。

そういえば、同じ場所で、同じ日、同じ時間に、タンクトップ姿で歩く人と、長Tの人、革ジャンの人、コートの人がいる。同じ人間でも体感ってこんなに違うんだと驚くことがよくあった。いつもそういう光景を見ていると、”ひとはひと”って、心底思った。温度に対する標準の服装もない。

”当たり前などない” というスタンスは、目の前のその人を、自分の目でしっかり見て、耳もしっかり傾けて、全身でコミュニケーションを取る感覚だ。
どんな色メガネも掛けず、肉眼で見て、肌でその人を感じ取る。

”出身”とか”国籍”とかが同じ人同士、共通項が垣間見えると、”〇〇人ってこんな感じなのかな”、と国ごとの特徴分類もしたくなるが、正直、イギリスで育ったのか、両親はどこの国でどんな人生を歩んだのかが異なる人たちを、〇〇人と安易にカテゴリ分けするのは意味のないことだと感じていた。

とはいえ、親や先祖の歩んだ歴史(例えば故郷はかつて植民地だったというようなことは)、ファミリーヒストリーとして確実に、”今、私の目の前にいるその人”に影響を与えていると感じるから、”お国”はやはりその人を構成する重要なファクターであり無視できない、と思ってはいる。

沢山の”他”を知ることが、”自分”を知ることに繋がる。

結局、自分を構成している価値観、常識、良識、美意識、思想というモノは、国や社会といった環境と、家庭環境の中で生きて行く過程で、一つ一つの物事や出来事に対して、”これはこう”という考え方、感じ方が蓄積されたのが今の自分なのだと思い知る。

日本で育った私が、日本という国がどういう国かを知らないということは、自分が”日本で育ったからこそ受けている影響”が何で、どんなものかを解明することは、難しい。

卒業式一つとっても、背景には開国後以降に作られた教育制度があり、みんな綺麗めなスーツを着るという美意識や価値観があり、それが叶う経済的基盤があり、単一民族であるという国の成り立ちがあってこそ、今の習慣がある。全てのことに理由がある。割と、説明ができる程に理由があるのだ。

”井の中の蛙、大海を知らず” の状態であれば、”井の中”での当たり前しかなく、考え方も狭くなる。それはそれで幸せな状態かも知れないし、問題にもならないかもしれない。

だが、”井の中”が”家庭”だけだったり、自分が属する”会社や学校や地域”などの社会だけでは、あまりにも狭く、苦しい思いをする可能性が高い。

なぜなら、そこ以外の世界を、携帯を通して、24時間知ることができるからだ。

何かに意味がない、意義がない、おかしいと思う感覚は、そうでない世界を知っているからこそ、湧いてくる感情だ。

こんな常識はここだけの話か、
”こうあるべき”とはこの人の考え方で自分にとっての正解ではない、
とか、そういう目で物事を見れるようになったら強い。
視野が広がったとき、自分は進化する。

自分を形作っているものが、どんな過程で、どういう影響を受けて出来上がったものなのか、誰の影響かなどを知ることは簡単ではない。

まず、他者に目を向けて、“違い”に気が付いて初めて自分が浮き彫りになる。
他者のことを知らない限り、自分らしさを認識するのは難しい。
自分特有の考えや譲れないことが見つかったとして、その自分で勝負したいなら、他人に理解してもらうために伝えることが重要になる。
同時に、自分のその特有さを受け入れて欲しかったら、相手の特有さも認めるのが道理となって、互いに認め合う風潮が生まれるはずだ。

そういえば、こんな体験をした。

良い例えではないかもしれないが、海外で住んで、なるほどと心から納得したことがある。
私の、「世界を知って、日本を知った」体験の一つだ。

四季について。
日本には四季がある。と、小さい頃から耳にした。
常夏の国の存在は知っていたけど、例えば、ヨーロッパだって、暑い夏と雪の降るような寒い冬があるんだから、その間の気温もあって、春と秋だってあるだろう。何故、日本ばかり四季があるような言い方をするんだろうと。
30℃の夏から1℃の冬に、急激に変化するわけじゃないだろうにと

それで住んでみて理解した。

ロンドンに限って言えば、夏と言える程の半袖の期間はわずか10日〜2週間位か。その一瞬の夏を、例えば草木や虫が、夏らしい演出を見せるかというと、そんな大急ぎで草木は変化しないし、蝉も鳴かない。
夏から秋へと移行するとき、夜だけうっすら涼しい風が吹いて、秋の気配を感じたり、鈴虫が鳴いて、いよいよ秋だと季節が変わったことを教えてくれたりすることもない、少し寂しい余韻みたいなものもなかったのだ。

何とも、“知らない”とはこういうことかと、納得した。
イギリスで一年間を過ごしたからこそ、気候と気候が生み出す自然と生物の活動がわかり、日本らしさに気がついたということだ。
教科書では、地中海性気候だの、亜寒帯気候だの習ったけど、住んで、体感してわかる。

そして、更には、何百年とそこで暮らした人が描いたもの、つまり絵画を見ると、気候の違いも、社会の違いも、思想の違いも、描かれる美意識というものに表れているとわかる。

日本人が花見が好きな理由、そもそも桜が多く生えている理由、そういうことも、一年を通じて日本にいると、その心が理解されやすいだろう。

日本画にも古来、沢山の自然が描かれている。

日本の美意識そのものだ。
これも全て理由、社会的背景、歴史がある。

本来、”自分” なんていうものは、ゆるぎなく変わらないものではないと私は思う。環境や増えていく知識に応じて、どんどん進化し、変化するものだと思う。
今の自分を知るためには、過去にフォーカスすると見えてくる。
新しい価値観に触れて、自分の感情が揺さぶられたり、迷ったり、悩んだり、落ち込んだりするなら、自分の世界が広がっていくときだろうと思う。

自分のことを知るには他者を知る。

ここの常識を抜け出すには、他の常識を知る。
そうやって沢山の”他”を知ることが、”自分”を知ることに繋がる。


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