気づいたら精子になっていた話
2021年2月12日(金) 旧暦の元旦
朝起きたときから、身体が疲れていて、
心もしぼんでいることを感じていた。
それは、ある人との関係で、
一緒に過ごしていたときに感じていた
相互への尊敬や、信頼の念が、
わたしの中にはそのまま継続していたが、
相手にとっては、もう終わったこととして、
すっかり興味すら持たれていないと感じる
出来事を観察したとき
(これは、あくまでわたしの中のストーリーであって、想像であって、事実は異なるかも知れないが)
ふいに「使い捨てカイロ」という
言葉がわいてきた。
「あぁ、わたしの心からの信頼と尊敬、
そして、相手からも向けられていると信じていた
信頼と尊敬は、使い捨てカイロのように消費されてしまった感じがして、大切なものが自分の中から流れ出てしまったかのような、エネルギーの喪失を覚える」と。
そして、なんとか身支度を整えて、
今日の目的地へ向かうために電車に乗った。
心とカラダを今ココに到着させるために、
目を閉じて瞑想していると…
いつの間にか、自分は精子になっていた。
そうか、わたしは、
母親の胎内で細胞分裂をはじめる前に、
精子であって、同時に卵子でもあった。
精子としてのわたしは、
何も迷うことなく、
全身が卵子に向かうことだけを使命としていた。
きっと、とんでもなく険しい道のりで、
わけわからん確率のなかで、
一見、困難の連続なのに、
わたし(精子)の心は落ち着いていて、涼しかった。
あぁ、そうか、
わたしは、こんなにすごいことを経て、
誕生した いのち なのだ。
いまも、一見、大変そうな状況にあって、
でも実は、今もわたしは、
あの頃の精子と変わらぬ わたしであると。
つまり、
様々な困難を、通り抜けたくて仕方ないのだ。
精子自体が、それらを体験することを望んでいて、
そして、迷いなく、涼しげなのだ。
それは、まだ明確には見えぬけれども、
確実にある、卵子のような存在に向かって。
なんだか、朝から、異次元の自分から
メッセージを受け取った感じがして、
ありがたい。
こんな経験をしつつも、
イタイ ものは イタイ のだけど、
これもまた、
わたしの いのち が望んでいる経験かも知れない。
さて、今日は自分を整えにいく。
表参道の、聖地巡礼の日。
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