春日森の文化博物館 くらし館  言葉が見せる風景

岐阜県揖斐郡揖斐川町の森の文化博物館で、物置になっていたくらし館を、片づけている高橋学芸員のおかげもあり、当館くらし館で10月から個展をすることになった。当学芸員さんは、2年前、私の個展を開いてくれた方。

初めは、発表会のつもりだったが、なぜ、聞き取りなの?という問いに

答えるために、言葉が見せる世界を今回は表現してみたい。言葉なので、音もあります。


本当は写真を撮るために、聞き書きをしていた。でも、いまは、どちらかというと、言葉を見せることに主眼を置いている。写真という表現を愛するがゆえに写真をしているが、言葉は欠かせない。だから、今回は写真展とはつけません。

昨日は、瀬川先生と陶芸家の市橋美佳さんと内覧会(みたいなもの)。俳句と陶芸の本を出版している美佳さんから言葉と言葉との関係について説明をうけたあと、自分の写真集「聞き写し春日」の「夢にも出てこない」という言葉と、それに添えられた写真の関係が練られている(違う言葉だったが、そんな感じ)という感想をいただく。

この写真と言葉によって、生まれる関係ということを話された。


実は、「夢にも出てこない」は中山の聞き取りで聞いた言葉。古老には普通に聞き書きをしているが、「夢にも出てこない」を聞いたときは、じわりというより、うたれてたというか、感覚がゆらぎ、前の山がゆがんだような気がした。

配偶者が亡くなられた古老が、現実にもいないのに、どうして夢にも出てこないのだと、悲しみを話された時の言葉だ。

 現実には存在しないのだから、夢ならば存在するだろう。
 という話だったが、古老にとって夢こそが現実で、古老にとっては伴侶はまだ、生きているのだと解釈した。

 という話をしたところ、美佳さんの解釈は違ったようだ。
 「違いました?」
 「そういうところがおもしろいところですね」

 微妙な間があった。少し落胆されたのかもしれない。私たちは森の中を歩いていた。

 反対に「夢にも出てこない」の言葉にこの写真を選んだ理由は言える。
 この写真は現実には、山の神で配られる、小さな飯粒を見ている写真である。鳥居の前にひざまづき、小さな飯粒を古老が見ていた。手が美しいと思った。湯のみ茶碗が小さく、コンクリートを美しくした。
 この写真に小さな神様との言葉をつけてもよいが、それでは直截すぎる。

 「夢にも出てこない」に、この写真をなぜ選んだのか。
 「夢にも出てこない」に本当の喪失を感じるとともに、本当の喪失を知らなければ、このように、小さな粒をいつくしむことができない。と、そんな気持ちで、この言葉と写真を組み合わせた。といまではそう思う。そう思うことにしよう。

 写真と文章の組み合わせに時間をかけているが、本当の説明はできない。ただ、自分は時間をかけている。それは本当のところ。

 この機会を与えてくれた高橋学芸員、森の文化博物館館長ならびに、スタッフの方に深くお礼申し上げます。



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