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夢の職業 02.軍人になるのが成功のね、ひとつの道かもしれないって。そう思ってましたよ。


ここ数年、「好きなことを仕事にしよう、好きなことで生きていこう」って風潮がすごいですね。

生活をしていくための手段から、生きる目的として仕事を捉えるようになってきたのかなと思っていますが。そんないま、みなさんはどうやって職業を選びましたか?いまとは全く違った時代に生きたVi男子のみなさんは、いったいどんな風に職業を選んだのか。それからもし戻れるとしたら、なりたい職業について聞いてみました。これからを考えるひとの参考になれば嬉しいです。全6回よろしくお願いします。

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#28GIJIROKU

モノガタリテラー 
だいこんの会 
永遠のギタリスト ナギー(75歳)
ガチな美術マスター 上さま(85歳)
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん(78歳)
言葉のファンタジスタ スーさん(80歳) 
精巧な折り紙職人 ぐっさん(77歳)

ナビゲーター

アトリエクロック
いまちゃん(36歳)
さそんさん(仮45歳)

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02
軍人になるのが成功のね、ひとつの道かもしれないって。そう思ってましたよ。



いまちゃん
あっ、上さまなにかあります?どうぞ。

上さま
あのう、職業のお話でってことになると、小学生になったり中学生になったり高校生になってから変わっていくよね、どんどん。

ぐっさん
うん、変わっていきますよね。どんどんね。

上さま
だから、ぼくが生まれた時はさぁ、戦争中でしょ。池上辺りでも長靴履いた軍人さんが闊歩するわけだよ。でね、襟章があって階級があるわけだよ。いま、皆さん方は分かんないだろうけど、大将、中将、少将、あと佐官ね、大佐、中佐、尉官があって。

でぇ、そういうの目の前でいつも見てるし、現実にぼくらが学校行った時は、学校にも配属将校なんてのが居たりしてるじゃない。だからさ、母親がね、ぼくがが七五三の時の写真見るとさ、敬礼してるんだよ。それでぶら下げてるんだよ、軍刀を。こっちはまだ七五三なんて意識もない歳なのにさ。

でぇ、親もそうだし、戦争を煽る時代じゃない。だから良いも悪いも、外いきゃあそういう雰囲気だし。だから、「軍人なるわけにはいかないのかなぁ」っていう気持ちはありましたけどね。なんでかよく分からないけど、そういう環境だったからね。その時そこまで考えないけど、でも、そういう風に親が仕立ててきたっていうか、親もそういう時代だから(笑)。

ただ、その頃ぼくね、靖国神社に行ったんですよ。いまもあるんだけど、神社の隣になんちゅうかな・・・・なんとか館って言って・・・・

かとちゃん
昭和館みたいのあったよね。

上さま
あるでしょ。

かとちゃん
ええ、あります。

上さま
あれ、昔っからあるんですよ。ぼくが行ったんだから昭和10年代にはあったんだけども、入ってって見たらね、日の丸があってさ、そこに爆弾三勇士が突っ込んでくの。

突っ込んでくと、その日の丸がぱーっと割れて、「バンザーイ、天皇陛下バンザーイ」ってやるわけ。そういう映像が流れてるわけ。要するに戦争を啓蒙するね。それで母親にね、「なんで飛び込んでって、死んじゃうのにバンザイするのか」って、母親は困ってたと思うんだけど、子どもの疑問で聞いたくらい。そういう時代よ。だから、ぼく、あれからもう、そこは「5銭くらいで戦争煽るところだなぁ」と思ったから。

ようするに、小学校の頃、昭和12年に支那事変つって中華民国との戦争がはじまって、それから昭和16年12月8日から、大東亜戦争戦争になった。そういう時代に育ったから良いも悪いも周りもそうだし、親もそうだし、意味はよく分かんないけど「軍人になれないかな」って、そういう気持ちがまずありました(笑)。

で、それから小学校、中学校と卒業して、終戦になって、正常になってくると、またいろんな考えがあった。けど、そんなねえ、「こうなろう。ああなろう」っていうことは、やっぱし、決められない状況だったよ。ただ、親がなってた仕事は憧れるというのかな、そういうのはあったかなぁ。そういうひとも多いんじゃないかな。

いまちゃん
身近なひとの姿をみて。

上さま
親の後を継ぐっていうかね。例えば、百姓なら百姓、公務員なら公務員、医者なら医者とかね、親がなってる仕事にさ。

そういう意味でぼくが覚えてるのはね、父親が丸の内に行ってたんですよ。

あん時は野村銀行って言ったっけ、いまは野村証券系だけどね。そこから、父親が出征したんですよ、それで支那事変にいくことになって。そうすると、会社でもって、テープをいっぱい貼って送り出してくれてさ。ぼくも心配したけど、母親はもっと心配したと思うよね。無事に帰って来られたから、よかったんだけど。亡くなった方もいっぱい居るからね。

だから、なんて言うのかな、父親の勤めてた会社がうんと印象的で、それもなんでか分かんないけど自分もいつかはそういうところへ、「丸の内に自分も勤めるようになりたいなぁ」っていうのもあったね。父親の後をやっぱし追うっていうかね。

あとはさ、面白いもんで、戦争でめちゃくちゃになっちゃって、それからどうなんのか分かんない時代に農業やっててさ、いま、改めて農業して思うのはさ、「農業ぐらい楽しくて素晴らしいものないなぁ」と思うよ。だから食べていけるんだったら、生活できんだったら、農業は夢ですよねぇ。

いまちゃん
ああ、そうですか。

上さま
それから、ぼくは現役の頃は学芸員をやってたんだけども、中学のときね、絵を描いてそれが表彰されたことがあったの。卒業式のとき、特別賞で絵画賞って、もらったんですよ。

嬉しかったしね、もっとやってみたい気もあったんだけど、農業で忙しい、家庭で手伝わなきゃいけないことがあるしで、いまは高校入って部活動でやれるんだろうけど、ぼくはそれどころじゃなくて、やれなかったんだよね。

それがね、公務員になってから美術館に入って、学芸員になっちゃった。だから、そういう意味でねぇ、いろんな必然性っていうのかな、「繋がってんだなぁ」ってことを思うけどね。

ぐっさん
時代によって随分と変わってくるんでしょうね。

ぼくなんか昭和17年生まれでしょ。でも、男の子だから、ぼくが生まれたとき父親は、「軍人にしたい」なんて言ってたらしいですよ。母親から聞いた話で全然覚えはないんだけど。

上さま
ああ、そうでしょうねぇ。

ぐっさん
なんか「士官学校行かして」どうのとかって。そのあとすぐ、終戦になちゃったけどねぇ。でも、その頃はもう、イケイケドンドンの、日本はそういう状態だからね。まあ、新聞報道とかああいうのも、いけなかったんだけどね。もう負け戦なのにさぁ、新聞は煽ってたわけでしょ。

上さま
どんどん煽ってたわけだよね。でぇ、あの頃は大学進学するのにね、例えば、一高か三高に行くか、陸軍大学、海軍大学、いわゆる士官学校行くのとあったわけよ。士官学校って兵学校だよね。

それで海軍の学校は広島にあったんだけど、そっちに行くのにみんな憧れたよね。海軍の学生なんか、みんな格好いいんだよ。海軍ってなんかこう、すーっとスマートでさ。いま、テレビなんか出てくるのに憧れるのと同じように、あれにみんな憧れた時代があったよね。でぇ、みんな戦争行って。

戦争なんて行ったらもうほとんど、半分なりなんなり、みんな亡くなっちゃってんだけどさぁ。でも、とにかく天皇陛下のために生きるわけで、自分は、自分のためじゃなくて、みんなのため、お国のためにやらなくちゃいけないってね。お父さんがさ、そういうことを考えててさ、社会全体もそういう環境だったら、まあそうなるよね。

いまちゃん
そうかもしれないですね。

上さま
それが成功のね、ひとつの道かもしれないって。そう思ってましたよ。

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2019-10-02-WED
(つづきます。明日は、『美校出たひとがペンを持つってのは、戦争の絵を描かくってこと。』)

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