見出し画像

夢の職業 03.美校出たひとがペンを持つってのは、戦争の絵を描かくってこと。


ここ数年、「好きなことを仕事にしよう、好きなことで生きていこう」って風潮がすごいですね。

生活をしていくための手段から、生きる目的として仕事を捉えるようになってきたのかなと思っていますが。そんないま、みなさんはどうやって職業を選びましたか?いまとは全く違った時代に生きたVi男子のみなさんは、いったいどんな風に職業を選んだのか。それからもし戻れるとしたら、なりたい職業について聞いてみました。これからを考えるひとの参考になれば嬉しいです。全6回よろしくお願いします。

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#28GIJIROKU

モノガタリテラー 
だいこんの会 
永遠のギタリスト ナギー(75歳)
ガチな美術マスター 上さま(85歳)
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん(78歳)
言葉のファンタジスタ スーさん(80歳) 
精巧な折り紙職人 ぐっさん(77歳)

ナビゲーター

アトリエクロック
いまちゃん(36歳)
さそんさん(仮45歳)

・ ・ ・

03 
美校出たひとがペンを持つってのは、
戦争の絵を描くってこと。



ぐっさん
やっぱり、うちも長男は親父が自分の仕事の後継がせて、で、ぼくは次男坊だから、士官学校とか、そういうとこ入れてっていうことだったんだろうね。昔は、長男がだいたいうちを継ぐっていうのがあるじゃない、ねえ。

いまちゃん
そうですねぇ、ほかに長男の方いらっしゃいます?ああ、かとちゃんなんかはどうですか、そのあたり。

かとちゃん
わたしは、特に長男だからってのはなかったです。小さい頃から片親だったんで、自分も!だから、父親っていう存在、あんまりないんですよ!どういう親だったのか、はっきり分かんないんです。

いまちゃん
ああ、そうなんですか。

かとちゃん
お袋は三代、神田っ子ね!でぇ、わたしの本籍が神田須田町なんですよ。

ナギー
それでこんなシャキシャキなんだね。

かとちゃん
神田に居た小さい頃は、親戚も近くに居たから、親父がラジオ屋をやってたっていう話は聞いたんだけどね!だから、その頃はなんかあると、そういう話も聞けたけど、いまはそのひとも、昔のこと知ってるひとも、居なくなちゃったから。だから、それぐらいしか知らないんで、父親の影響とか、長男だからってのはなかったです。

ただしね、お墓。お墓は赤坂に代々あるんですよ。それで、正面から見て左側に、わたしの名前が彫ってある。亡くなった方は右側に彫ってあって、赤い字になってて。いまは、もう、赤い字ではなくなちゃってるけど、それがまだ赤くなってて、そこ見ながら、「お前が長男だから、お前がこの墓を守らなくちゃいけないんだよ」って、親戚のひとに言われたのはありました。

いまちゃん
職業とは違いますけど、そのう、家系とかお墓を守るっていう役割ですか。

かとちゃん
だからいまも、うち、本家じゃないけど、わたしの所にお墓からいろいろ案内が来るんですよ!だから、大事にしたいと思ってね。女房もちゃんとそれを分かってくれてるから、いいんだけど。

いまちゃん
職業はどうやって選んだんですか?なりたかった職業とかはありました?

かとちゃん
わたし、運転手にはなりたいとは思ったね。

いまちゃん
運転手?

かとちゃん
あの頃、SL、蒸気機関車があって、そういう運転手に憧れてたんだよね。そしたら、なるにはある程度学校行かなくちゃいけないってことで、いま、上野にある岩倉高校って、あれが鉄道学校だったんですよ。

スーさん
ああ、鉄道学校だよね。

かとちゃん
家庭の事情もあるから、そんなこと行けないし、けっきょく諦めました。

いまちゃん
そうだったんですねぇ。ナギーさんはどうですか?

ナギー
いま、長男の話してたけど、わたしは8人兄弟の一番バッチなんですよ。だから何してもどこ行っても良いという感じ(笑)。

一同
(笑)

スーさん
昔は、いっぱい居ましたよね。6人ぐらいふつうだったから。

上さま
田舎いくと8人10人でしたもんね。

いまちゃん
1人だけ男だったんですか?

ナギー
1女7男。

上さま
じゃあ、可愛がってもらったんじゃない?

ナギー
いやぁ、そうでもないですねえ。兄弟が多くて、えらいイジメられた思いもあるし(笑)。相手にもしてくんないから、もう。

スーさん
どこですか、場所?

ナギー
新潟の三条。

かとちゃん
ああ、いいとこですねぇ。

ナギー
だから何も、「あれやれ、これやれ」ってのはなかったです。まあ、しいて自分でやりたいなっていったら、「投資で株でも買って、昼寝しながら金儲かりゃ良いかな」なんて思ってたけど。それも結構勉強しなきゃ金儲けできなさそうだから、諦めて(笑)。「しょうがない、なんかやんなくちゃなんないかな」って(笑)、それで電気学校行って。

スーさん
電気学校だったんですか。

ナギー
そうそうそう。それでラジオとか作って遊んでた覚えありますけどね。

スーさん
鉱石ラジオ?

ナギー
あ、鉱石ラジオから始めたね。

上さま
あれ、戦争中だよね?

ナギー
戦後ですね。

スーさん
あのう、その頃は雑誌の付録で、ラジオが付いてくる時代だった。

いまちゃん
え、雑誌の付録でラジオ?

スーさん
そうそうそう。ね、大抵のひとは非ロープだよね。

ナギー
石が1つあれば作れるんだから。

スーさん
ラジオってね、当時、すっごい文化的だったの!そこから全て知識が入ってくるわけ。だから、家じゅうにラジオ置いてね、ちゃぶ台の前に座って、じぃーっと、ラジオ聴いてたんだよ。

上さま
だけど、田舎行くとねぇ、だいたい20軒ぐらいの部落に疎開して行ったとき、ラジオがあるってうちは1軒しかなかったですよ。

スーさん
ああ、そうですか。

上さま
でね、うちにあったのが途中で壊れちゃってさぁ、ほか1軒きりしかなかったから、下校のとき見かけると羨ましかったねぇ、当時は。昭和20年前後の話。その後テレビも同じようなことになるんだけど。

スーさん
わたしはちょうど終戦のとき山形に行ってってね、ラジオのあるうちにみんな集まって、玉音放送聴いたんですよ。まあ、晴れた暑い日でね〜。

上さま
みんな集まって聴いてたね、あの日。

スーさん
でね、わたしはまだ1年生に入ってなかったの、敗戦の翌年の4月に1年生だったから。だから、子どもで聴いてても分かんないんだよ、まだ言ってることが。そしたらぁ、姉が突然泣き出してね・・・・、ボロボロ泣き出して。

上さま
俺も「良かったなぁ」と思ったよ、「やっと終わったんだ」ってねえ、子どもでもねぇ。だって、その前にね、「原子爆弾が落ちた」っていうのをさ、東京からきてる文化人っていうか、そういう人から聞いてたから。

朝日新聞だったけかな、ぼくが小学校4年のとき「新型爆弾落つ、広島に落つ」ってね、小ちゃく書いてあるのは見てたんだけど。それで「どんな爆弾だ」、「新型ってなんだろう」って思って、それから3日経ったら「長崎にも新型爆弾落つ」って書いてあって。気になったからさ、あとで大人のひとに聞いたら、「すごい破壊力だし、こんな恐ろしいものなんて」って言ってたから。

だから、「終戦になった」つったから、子どもながらにホッとした。

ぐっさん
アメリカも最初、原子爆弾って言わなかったんでしょ。新型爆弾つってね。

上さま
うん、新聞には新型爆弾って書いてあった。

スーさん
アトミックなんとかってね。

ぐっさん
だから、隠してたんじゃないんですか、かなり。

スーさん
だけど、相当、日本も開発してたんだよね。

上さま
だから、知ってるひとは、もう全部知ってたんだよね。

スーさん
だけど、結果的にはね、あの2発のために戦争がそれ以上深くならずに済んだわけでしょ。広島と長崎の被爆受けた方には大変申し訳ないと思ってるよ。けど、それでもう戦争を続けるのがなくなったわけだよね。あっと言う間に8月15日降伏だもん。

いまちゃん
そうですよねぇ。

ぐっさん
いろんな、沢山の、犠牲をはらった終戦で。

スーさん
だってさぁ、竹槍持って訓練してたんだからさ。

ぐっさん
いま考えりゃ、ほんと、バカみたいなね。そんなんでB29だっけ?あんなもの落とせるわけないって思うんだけど、みんな信じてやってたらしいからね。

スーさん
米兵が上陸してきたらこうしようってことを、おんな、子どもまでね。

ぐっさん
実際、僕も、不時着したB29とかそういうのが多々あって、それに「竹槍持ってみんな行った」っていう話、聞きましたよ。

上さま
久が原のこの辺にも落っこたんだよ。呑川んとこ落っこったの。それで、みんな竹槍持って行ったってね。

ぐっさん
「鬼畜米英が来たぞ」とか、なんとか言って、ねえ。

上さま
結局、みんな竹槍持って行ったけど、止められたって。捕虜にしたりするからなのかな。

スーさん
殺しちゃダメなんだよね、情報源として。

ぐっさん
ジュネーブ条約とかああいうので決めてんでしょ?

スーさん
そういうことじゃなくて、ようするに情報が欲しいから。

ぐっさん
でも、日本は、なんかすごい残酷なこともしたんでしょ?中国とかああいうとこでね。

スーさん
いやぁ、分かんないよぉ、それはね。

上さま
もう、どうしようもないよね、ほんとの話は分かんない。

ぐっさん
まあ、どこの国でもそうだろうけどねえ。

上さま
でもね、おれ東京から疎開する時に、ニュース映画を観に行ってさ。ニュース映画って、みなさん分かる?

ぐっさん
分かる、分かる。

上さま
当時、ニュース映画だけやってる日劇ってあったじゃない、日劇ってむかしの・・・・。

スーさん
有楽町の丸い建物の。

上さま
そう!あそこ。戦後は女性が裸になってなんだかって、そういう場所になっちゃったけど。

スーさん
ああ、そうそうそう。ミュージックホール。

上さま
だけどね、終戦前はそこが、ニュース映画劇場だったの。地下入ったとこで。

スーさん
年中ニュース流してたの。ニュースしか流れない。

上さま
ねえ。

だから、そこ行くとね、いつもニュースを1時間くらい観られるの。オヤジが、博物館とか行く時もそこ寄って、よく観に連れてってくれたの覚えてるよ。

で、昭和18年のとき、そこで観てて「もう日本はダメだな」って、子どもながらに分かったよ。

いまちゃん
へぇ〜。

上さま
あのう・・・・
ラバールっていうところがね、最後の戦場になるんだけども。そのころ、飛行機が飛んでても、飛行機の力がもう全然違ってて。

勝ってるときは、加藤隼戦闘隊とかって、ラングーンっていまのミャンマーのあの辺ですごく爆撃して。最初の1年の勝ち戦はすごかったけどね。

でも、それから結局、4年続いたのか。中盤ぐらいから「日本これじゃあ」って思ったよ。だって、全然対抗できてないんだもんね。

ただ、報道が酷いからさ、新聞見ると「敵の空母三艦撃沈、五艦撃沈」ってあるんだよ。轟沈(ごうちん)っていう言葉もあったよね。

スーさん
轟沈とかってねぇ。

上さま
難しい字で、轟沈、撃沈、大破、中破、小破ってあって。

そうすると、毎日、「敵艦空母3隻、戦艦5隻沈めた」って、新聞に出てくるんだけど、そんなに何万トンもある船がさ、あるとは思えないけど、そういう過大なのがいつも新聞の冒頭に出てくるわけ。どんどん負け戦になってきててもね。

そういう記事を見たりしてるから、報道がいかに過大なもんなんだっていうこと、それはもう、随分身に染みたね。

ぐっさん
結局、政府からも、統制されてたわけでしょ。そういう報道しないと、新聞社にも紙とか、そういうのくれないんだってね。

スーさん
そうそう、紙も配給でね。各企業に紙はどのくらいだとかさ、全部統制されてたから。

ぐっさん
だから、そうすると、どうしても政府に都合の良いこと書かないといけなくなっちゃうよね。

上さま
絵でもなんでもさ、画家だって、みんな戦争の絵を描かないと戦場にやられちゃったんだよ。

だから、昔は芸大のことを美術学校で、美校って言ったんだけど、美校出てるひとたちがどっちを選ぶか。ようするに、ペンを持つか銃を持つかっていうことね。それでじゃあ、ペンを持ったり、筆を持つって、選ぶってのはさ、戦争の絵を描かないといけないってことなんだよ。

スーさん
まだ、カラー写真がなかったから、絵をいっぱい描いて印刷してね。

・ ・ ・

2019-10-03-THU
(つづくよ)

聞いてくれてありがとうございます。いかがでしたか?気に入っていただけたら、ぜひスキ(♡)やフォローをお待ちしています。励みになります。感想やヴィダンシ(ヴィンテージ男子)へのコメント、聞きたい話題などもいただけたら、嬉しいです。頂いたコメントは、ヴィダンシにもちゃんとお届けします。今後の会議の参考にもさせてもらいます。よろしくお願いします!

いただいたサポートは、身近なひとの声を拾い届ける活動、他のクリエーターさんのために使わせてもらいます!