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夢の職業(全篇)

ここ数年、「好きなことを仕事にしよう、好きなことをして生きていこう」って雰囲気がありますね。

生活をしていくための手段から、生きる目的として仕事を捉えるようになってきたのかなと思っていますが。そんないま、みなさんはどうやって職業を選びましたか?いまとは全く違った時代に生きたヴィンテージ男子のみなさんは、いったいどんな風に職業を選んだのか。それからもし戻れるとしたら、なりたい職業について聞いてみました。これからを考えるひとの参考になれば嬉しいです。(10.01-10.08に公開したものを全篇にしてみました!)

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#28GIJIROKU

モノガタリテラー
 
だいこんの会 
永遠のギタリスト ナギー(75歳)
ガチな美術マスター 上さま(85歳)
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん(78歳)
言葉のファンタジスタ スーさん(80歳) 
精巧な折り紙職人 ぐっさん(77歳)

ナビゲーター

アトリエクロック
いまちゃん(36歳)
さそんさん(仮45歳)

01 時計屋に進んでたら、どうなってたかな。



いまちゃん
あのう、まだ録音セットできてません(笑)。もう話が始まってるので、あとずっと回し続けたいなと思いますので。はい、よろしくお願いします。

スーさん
録音機、ここで声全部入るの?向こうのひとの入るの?

いまちゃん
入ります、こないだ、ここで入りましたので!

かとちゃん
テープじゃないからね、すごいね(笑)。

スーさん
テープだからね、おれたちは(笑)。でぇ、夢の職業って、その子どものね、年齢にもよると思うんだよ。例えば、将来何になりたいって時に、例えば仮面ライダーってのは、少し歳がいってなさすぎでしょ(笑)。

いまちゃん
たしかに。どのぐらいで将来意識するとよさそうですか?

スーさん
小学校卒業するくらいで、みんな先のこと考えてさ、やらねばならぬと。

いまちゃん
なるほど。では、中学生くらいの子どもたちに向けて、今日は「夢の職業」というお題で話しをしてもらえるといいですね。どんな風に仕事を選んでいったのか、そしてもし生まれ変わることができるなら、なりたい職業、やってみたい職業なんかも聞いてみたいです。

スーさん
じゃあ、まず飴舐めて(笑)。この塩レモン美味しいでしょ!

一同
そうだね、飴舐めて(笑)。

いまちゃん
ああ、自由ですねぇ・・・・(笑)。

ナギー
そんな、しょっぱくないやね!少しか入ってないから、塩(笑)。

いまちゃん
聞いてない!?

上さま
しょっぱいと思って食べればしょっぱいけど、甘酸っぱいね(笑)。

いまちゃん
糖分と塩分大事ですよね、熱中症対策。さすがです(笑)。

ぐっさん
じゃあいいですか?

いまちゃん
お、ぐっさん、ありがとうございます!!はい!どうぞ、どうぞ。

ぐっさん
子どもの頃にね、自分自身がなりたいとは思ってなかったんだけど、親とかからね、「お前は手先が起用だから、時計屋さんなりなさい」って言われたんですよ。

スーさん
ああ、やれたかもしれない。

ぐっさん
ぼくね、親戚にも時計屋さんがあって、友達にも時計屋の息子が居たんですよ。その時計屋の息子んとこに、しょっちゅう遊びに行ってて、そこで見てて「時計屋もいいなぁ」と思ってはいた。いま、テレビ東京なんかで、カンブリア宮殿とかいろいろやってるじゃない。なんだっけあの番組?あ、和風総本家!あれで時々ね、時計の話がでてくるんだよね。スイスで造ってる時計とか、日本でいうと諏訪のセイコー、あとエプソンとかあるでしょう。それで、部品を組み立ててる場面も出てくるじゃない。そういうの観てると、おれも親に言われて、あの頃50年60年くらい前か、時計屋やってたら、いま頃テレビで紹介されてたかも分かんないなあ・・・・(笑)・・・・なんて、そう思うこともあるの。

スーさん
その知り合いの時計屋さん、いまでもやってるの?

ぐっさん
親戚のうちも友達のうちも、もうやってない。当時はね、機械時計っちゅうのが、すごくみんなに人気があって、みんな学校へ入学した時とか、親から買ってもらったんだよね。その頃は、みんな機械時計だから、いまみたいな電波時計とかじゃなくてね。

上さま
いま、昔からやってる時計屋って言ったら、天然記念物みたいなもんだと思うんだけどさあ、時計屋さんってある?

スーさん
あのね、おれ機械式の時計いっぱい持ってんの。だけど修理してくれる人がほんと居ないんだよね。

ぐっさん
いないね。

上さま
昔は街の中に、時計屋ってしょっちゅうあったもんだよ。

スーさん
うん。

ぐっさん
昔はもう街の時計屋さんで、そういうのちゃんと修理したりなんかしてくれるひとが居たわけでしょ。いま街の時計屋さんって存在自体がもう無くなってるもんね。

上さま
だからタバコ屋さんほどじゃ無いけど、タバコ屋さんのように時計屋さんが結構あったもんね。タバコ屋さんところにもあったしね。どこの街ん中にもね。


ぐっさん
いまね、逆に、高級な手づくりの時計。あれが流行ってるみたいだね。

上さま
ああ、そうなの。

ぐっさん
ごく僅かだけどね、お金持ち相手の商売だよね、あれはね。

いまちゃん
そうなんですか。

ぐっさん
何百万ってする時計だよ。いまは電波とかああいうので制御してやってるけど、機械時計の方がそういう金持ちには人気があるみたい。だからそういう機械時計をつくる仕事に憧れてはいた・・・・。憧れてたっちゅうかさ、周りから「お前、手先器用だから」って言われてたけど、自分では全然思ってなかったんだよね!でも、なんか器用だったらしんだ、手先が(笑) 。

上さま
いまだって器用だよ。

ぐっさん
自分では分かんないけどさぁ、うん。

いまちゃん
ああ、この恐竜の折り紙も綺麗ですもんね、これもぐっさん作ったんですもんね!

ナギー
だから、いまに活きてるんじゃないんですか、手先が器用だから。

いまちゃん
ああー、折り紙にも。

ぐっさん
そう、だから親の勧めに従わないで、公務員になっちゃったけどさ、まあ時計屋のほうに進んでたら、いまどうなってんのかなっちゅう思いはありますよね、いまでもね!やっぱり興味はありますよ。テレビで機械式時計の修理とかそういうのが流れてくると自然と観ちゃうんだよね。

ナギー
時計屋じゃないけどね、蒲田でおもちゃの病院だったかな。

一同
おお〜。

ナギー
ボランティアでやってるんですけどね、そういうのがあるんですよ。そういうところでやったら、いまからでもできるんじゃないんですか?時計じゃないとダメですか(笑)?じゃなかったら、そういうの面白いんじゃないかなと思って。

いまちゃん
おお、たしかに。そうですね。へえー。

ナギー
あのう・・・・消費者センターで何曜日だったか、やってるんですよ。子供達がおもちゃいっぱい持ってくるわけですよ、でぇ、それを修理してあげると。

いまちゃん
ナギーさん、やられてらっしゃるんですか?

ナギー
ううん、やってない。知ってる人が結構やってるから知ってるの。

ぐっさん
おれ、うちにあるちょっとした物が壊れたりすると、簡単なもなんか、ちょちょっちょと自分で直しちゃうわけ。

いまちゃん
すごーい。なんか壊れたら、ぐっさんに電話した方がいいですね(笑) 。

ぐっさん
いやいや(笑)。電気系統とかそういうのは全然疎いからダメだけど、そうじゃなければちょっと壊れたとかっちゅうことぐらいならね、自分の手で直せちゃう。なんでもやっちゃう方だね。

ナギー
そこのおもちゃの病院は仲間が居るから、電気系統で分からなけれりゃ電気の専門が教えてくれたりね。機械で分かんなきゃ、その専門家が居るから。もし時間があったらやられたら面白いんじゃないかな。

いまちゃん
なんか一回見に行ってみるのもいいんかもしれないですよね!

ぐっさん
そうかもしれないねぇ。

.  .  .  .  .

02 軍人になるのが成功のね、ひとつの道かもしれないって。そう思ってましたよ。



いまちゃん
あっ、上さまなにかあります?どうぞ。

上さま
あのう、職業のお話でってことになると、小学生になったり中学生になったり高校生になってから変わっていくよね、どんどん。

ぐっさん
うん、変わっていきますよね。どんどんね。

上さま
だから、ぼくが生まれた時はさぁ、戦争中でしょ。池上辺りでも長靴履いた軍人さんが闊歩するわけだよ。でね、襟章があって階級があるわけだよ。いま、皆さん方は分かんないだろうけど、大将、中将、少将、あと佐官ね、大佐、中佐、尉官があって。

でぇ、そういうの目の前でいつも見てるし、現実にぼくらが学校行った時は、学校にも配属将校なんてのが居たりしてるじゃない。だからさ、母親がね、ぼくがが七五三の時の写真見るとさ、敬礼してるんだよ。それでぶら下げてるんだよ、軍刀を。こっちはまだ七五三なんて意識もない歳なのにさ。

でぇ、親もそうだし、戦争を煽る時代じゃない。だから良いも悪いも、外いきゃあそういう雰囲気だし。だから、「軍人なるわけにはいかないのかなぁ」っていう気持ちはありましたけどね。なんでかよく分からないけど、そういう環境だったからね。その時そこまで考えないけど、でも、そういう風に親が仕立ててきたっていうか、親もそういう時代だから(笑)。

ただ、その頃ぼくね、靖国神社に行ったんですよ。いまもあるんだけど、神社の隣になんちゅうかな・・・・なんとか館って言って・・・・

かとちゃん
昭和館みたいのあったよね。

上さま
あるでしょ。

かとちゃん
ええ、あります。

上さま
あれ、昔っからあるんですよ。ぼくが行ったんだから昭和10年代にはあったんだけども、入ってって見たらね、日の丸があってさ、そこに爆弾三勇士が突っ込んでくの。

突っ込んでくと、その日の丸がぱーっと割れて、「バンザーイ、天皇陛下バンザーイ」ってやるわけ。そういう映像が流れてるわけ。要するに戦争を啓蒙するね。それで母親にね、「なんで飛び込んでって、死んじゃうのにバンザイするのか」って、母親は困ってたと思うんだけど、子どもの疑問で聞いたくらい。そういう時代よ。だから、ぼく、あれからもう、そこは「5銭くらいで戦争煽るところだなぁ」と思ったから。

ようするに、小学校の頃、昭和12年に支那事変つって中華民国との戦争がはじまって、それから昭和16年12月8日から、大東亜戦争戦争になった。そういう時代に育ったから良いも悪いも周りもそうだし、親もそうだし、意味はよく分かんないけど「軍人になれないかな」って、そういう気持ちがまずありました(笑)。

で、それから小学校、中学校と卒業して、終戦になって、正常になってくると、またいろんな考えがあった。けど、そんなねえ、「こうなろう。ああなろう」っていうことは、やっぱし、決められない状況だったよ。ただ、親がなってた仕事は憧れるというのかな、そういうのはあったかなぁ。そういうひとも多いんじゃないかな。

いまちゃん
身近なひとの姿をみて。

上さま
親の後を継ぐっていうかね。例えば、百姓なら百姓、公務員なら公務員、医者なら医者とかね、親がなってる仕事にさ。

そういう意味でぼくが覚えてるのはね、父親が丸の内に行ってたんですよ。

あん時は野村銀行って言ったっけ、いまは野村証券系だけどね。そこから、父親が出征したんですよ、それで支那事変にいくことになって。そうすると、会社でもって、テープをいっぱい貼って送り出してくれてさ。ぼくも心配したけど、母親はもっと心配したと思うよね。無事に帰って来られたから、よかったんだけど。亡くなった方もいっぱい居るからね。

だから、なんて言うのかな、父親の勤めてた会社がうんと印象的で、それもなんでか分かんないけど自分もいつかはそういうところへ、「丸の内に自分も勤めるようになりたいなぁ」っていうのもあったね。父親の後をやっぱし追うっていうかね。

あとはさ、面白いもんで、戦争でめちゃくちゃになっちゃって、それからどうなんのか分かんない時代に農業やっててさ、いま、改めて農業して思うのはさ、「農業ぐらい楽しくて素晴らしいものないなぁ」と思うよ。だから食べていけるんだったら、生活できんだったら、農業は夢ですよねぇ。

いまちゃん
ああ、そうですか。

上さま
それから、ぼくは現役の頃は学芸員をやってたんだけども、中学のときね、絵を描いてそれが表彰されたことがあったの。卒業式のとき、特別賞で絵画賞って、もらったんですよ。

嬉しかったしね、もっとやってみたい気もあったんだけど、農業で忙しい、家庭で手伝わなきゃいけないことがあるしで、いまは高校入って部活動でやれるんだろうけど、ぼくはそれどころじゃなくて、やれなかったんだよね。

それがね、公務員になってから美術館に入って、学芸員になっちゃった。だから、そういう意味でねぇ、いろんな必然性っていうのかな、「繋がってんだなぁ」ってことを思うけどね。

ぐっさん
時代によって随分と変わってくるんでしょうね。

ぼくなんか昭和17年生まれでしょ。でも、男の子だから、ぼくが生まれたとき父親は、「軍人にしたい」なんて言ってたらしいですよ。母親から聞いた話で全然覚えはないんだけど。

上さま
ああ、そうでしょうねぇ。

ぐっさん
なんか「士官学校行かして」どうのとかって。そのあとすぐ、終戦になちゃったけどねぇ。でも、その頃はもう、イケイケドンドンの、日本はそういう状態だからね。まあ、新聞報道とかああいうのも、いけなかったんだけどね。もう負け戦なのにさぁ、新聞は煽ってたわけでしょ。

上さま
どんどん煽ってたわけだよね。でぇ、あの頃は大学進学するのにね、例えば、一高か三高に行くか、陸軍大学、海軍大学、いわゆる士官学校行くのとあったわけよ。士官学校って兵学校だよね。

それで海軍の学校は広島にあったんだけど、そっちに行くのにみんな憧れたよね。海軍の学生なんか、みんな格好いいんだよ。海軍ってなんかこう、すーっとスマートでさ。いま、テレビなんか出てくるのに憧れるのと同じように、あれにみんな憧れた時代があったよね。でぇ、みんな戦争行って。

戦争なんて行ったらもうほとんど、半分なりなんなり、みんな亡くなっちゃってんだけどさぁ。でも、とにかく天皇陛下のために生きるわけで、自分は、自分のためじゃなくて、みんなのため、お国のためにやらなくちゃいけないってね。お父さんがさ、そういうことを考えててさ、社会全体もそういう環境だったら、まあそうなるよね。

いまちゃん
そうかもしれないですね。

上さま
それが成功のね、ひとつの道かもしれないって。そう思ってましたよ。

.  .  .  .  .

03 美校出たひとがペンを持つってのは、戦争の絵を描くってこと。



ぐっさん
やっぱり、うちも長男は親父が自分の仕事の後継がせて、で、ぼくは次男坊だから、士官学校とか、そういうとこ入れてっていうことだったんだろうね。昔は、長男がだいたいうちを継ぐっていうのがあるじゃない、ねえ。

いまちゃん
そうですねぇ、ほかに長男の方いらっしゃいます?ああ、かとちゃんなんかはどうですか、そのあたり。

かとちゃん
わたしは、特に長男だからってのはなかったです。小さい頃から片親だったんで、自分も!だから、父親っていう存在、あんまりないんですよ!どういう親だったのか、はっきり分かんないんです。

いまちゃん
ああ、そうなんですか。

かとちゃん
お袋は三代、神田っ子ね!でぇ、わたしの本籍が神田須田町なんですよ。

ナギー
それでこんなシャキシャキなんだね。

かとちゃん
神田に居た小さい頃は、親戚も近くに居たから、親父がラジオ屋をやってたっていう話は聞いたんだけどね!だから、その頃はなんかあると、そういう話も聞けたけど、いまはそのひとも、昔のこと知ってるひとも、居なくなちゃったから。だから、それぐらいしか知らないんで、父親の影響とか、長男だからってのはなかったです。

ただしね、お墓。お墓は赤坂に代々あるんですよ。それで、正面から見て左側に、わたしの名前が彫ってある。亡くなった方は右側に彫ってあって、赤い字になってて。いまは、もう、赤い字ではなくなちゃってるけど、それがまだ赤くなってて、そこ見ながら、「お前が長男だから、お前がこの墓を守らなくちゃいけないんだよ」って、親戚のひとに言われたのはありました。

いまちゃん
職業とは違いますけど、そのう、家系とかお墓を守るっていう役割ですか。

かとちゃん
だからいまも、うち、本家じゃないけど、わたしの所にお墓からいろいろ案内が来るんですよ!だから、大事にしたいと思ってね。女房もちゃんとそれを分かってくれてるから、いいんだけど。

いまちゃん
職業はどうやって選んだんですか?なりたかった職業とかはありました?

かとちゃん
わたし、運転手にはなりたいとは思ったね。

いまちゃん
運転手?

かとちゃん
あの頃、SL、蒸気機関車があって、そういう運転手に憧れてたんだよね。そしたら、なるにはある程度学校行かなくちゃいけないってことで、いま、上野にある岩倉高校って、あれが鉄道学校だったんですよ。

スーさん
ああ、鉄道学校だよね。

かとちゃん
家庭の事情もあるから、そんなこと行けないし、けっきょく諦めました。

いまちゃん
そうだったんですねぇ。ナギーさんはどうですか?

ナギー
いま、長男の話してたけど、わたしは8人兄弟の一番バッチなんですよ。だから何してもどこ行っても良いという感じ(笑)。

一同
(笑)

スーさん
昔は、いっぱい居ましたよね。6人ぐらいふつうだったから。

上さま
田舎いくと8人10人でしたもんね。

いまちゃん
1人だけ男だったんですか?

ナギー
1女7男。

上さま
じゃあ、可愛がってもらったんじゃない?

ナギー
いやぁ、そうでもないですねえ。兄弟が多くて、えらいイジメられた思いもあるし(笑)。相手にもしてくんないから、もう。

スーさん
どこですか、場所?

ナギー
新潟の三条。

かとちゃん
ああ、いいとこですねぇ。

ナギー
だから何も、「あれやれ、これやれ」ってのはなかったです。まあ、しいて自分でやりたいなっていったら、「投資で株でも買って、昼寝しながら金儲かりゃ良いかな」なんて思ってたけど。それも結構勉強しなきゃ金儲けできなさそうだから、諦めて(笑)。「しょうがない、なんかやんなくちゃなんないかな」って(笑)、それで電気学校行って。

スーさん
電気学校だったんですか。

ナギー
そうそうそう。それでラジオとか作って遊んでた覚えありますけどね。

スーさん
鉱石ラジオ?

ナギー
あ、鉱石ラジオから始めたね。

上さま
あれ、戦争中だよね?

ナギー
戦後ですね。

スーさん
あのう、その頃は雑誌の付録で、ラジオが付いてくる時代だった。

いまちゃん
え、雑誌の付録でラジオ?

スーさん
そうそうそう。ね、大抵のひとは非ロープだよね。

ナギー
石が1つあれば作れるんだから。

スーさん
ラジオってね、当時、すっごい文化的だったの!そこから全て知識が入ってくるわけ。だから、家じゅうにラジオ置いてね、ちゃぶ台の前に座って、じぃーっと、ラジオ聴いてたんだよ。

上さま
だけど、田舎行くとねぇ、だいたい20軒ぐらいの部落に疎開して行ったとき、ラジオがあるってうちは1軒しかなかったですよ。

スーさん
ああ、そうですか。

上さま
でね、うちにあったのが途中で壊れちゃってさぁ、ほか1軒きりしかなかったから、下校のとき見かけると羨ましかったねぇ、当時は。昭和20年前後の話。その後テレビも同じようなことになるんだけど。

スーさん
わたしはちょうど終戦のとき山形に行ってってね、ラジオのあるうちにみんな集まって、玉音放送聴いたんですよ。まあ、晴れた暑い日でね〜。

上さま
みんな集まって聴いてたね、あの日。

スーさん
でね、わたしはまだ1年生に入ってなかったの、敗戦の翌年の4月に1年生だったから。だから、子どもで聴いてても分かんないんだよ、まだ言ってることが。そしたらぁ、姉が突然泣き出してね・・・・、ボロボロ泣き出して。

上さま
俺も「良かったなぁ」と思ったよ、「やっと終わったんだ」ってねえ、子どもでもねぇ。だって、その前にね、「原子爆弾が落ちた」っていうのをさ、東京からきてる文化人っていうか、そういう人から聞いてたから。

朝日新聞だったけかな、ぼくが小学校4年のとき「新型爆弾落つ、広島に落つ」ってね、小ちゃく書いてあるのは見てたんだけど。それで「どんな爆弾だ」、「新型ってなんだろう」って思って、それから3日経ったら「長崎にも新型爆弾落つ」って書いてあって。気になったからさ、あとで大人のひとに聞いたら、「すごい破壊力だし、こんな恐ろしいものなんて」って言ってたから。

だから、「終戦になった」つったから、子どもながらにホッとした。

ぐっさん
アメリカも最初、原子爆弾って言わなかったんでしょ。新型爆弾つってね。

上さま
うん、新聞には新型爆弾って書いてあった。

スーさん
アトミックなんとかってね。

ぐっさん
だから、隠してたんじゃないんですか、かなり。

スーさん
だけど、相当、日本も開発してたんだよね。

上さま
だから、知ってるひとは、もう全部知ってたんだよね。

スーさん
だけど、結果的にはね、あの2発のために戦争がそれ以上深くならずに済んだわけでしょ。広島と長崎の被爆受けた方には大変申し訳ないと思ってるよ。けど、それでもう戦争を続けるのがなくなったわけだよね。あっと言う間に8月15日降伏だもん。

いまちゃん
そうですよねぇ。

ぐっさん
いろんな、沢山の、犠牲をはらった終戦で。

スーさん
だってさぁ、竹槍持って訓練してたんだからさ。

ぐっさん
いま考えりゃ、ほんと、バカみたいなね。そんなんでB29だっけ?あんなもの落とせるわけないって思うんだけど、みんな信じてやってたらしいからね。

スーさん
米兵が上陸してきたらこうしようってことを、おんな、子どもまでね。

ぐっさん
実際、僕も、不時着したB29とかそういうのが多々あって、それに「竹槍持ってみんな行った」っていう話、聞きましたよ。

上さま
久が原のこの辺にも落っこたんだよ。呑川んとこ落っこったの。それで、みんな竹槍持って行ったってね。

ぐっさん
「鬼畜米英が来たぞ」とか、なんとか言って、ねえ。

上さま
結局、みんな竹槍持って行ったけど、止められたって。捕虜にしたりするからなのかな。

スーさん
殺しちゃダメなんだよね、情報源として。

ぐっさん
ジュネーブ条約とかああいうので決めてんでしょ?

スーさん
そういうことじゃなくて、ようするに情報が欲しいから。

ぐっさん
でも、日本は、なんかすごい残酷なこともしたんでしょ?中国とかああいうとこでね。

スーさん
いやぁ、分かんないよぉ、それはね。

上さま
もう、どうしようもないよね、ほんとの話は分かんない。

ぐっさん
まあ、どこの国でもそうだろうけどねえ。

上さま
でもね、おれ東京から疎開する時に、ニュース映画を観に行ってさ。ニュース映画って、みなさん分かる?

ぐっさん
分かる、分かる。

上さま
当時、ニュース映画だけやってる日劇ってあったじゃない、日劇ってむかしの・・・・。

スーさん
有楽町の丸い建物の。

上さま
そう!あそこ。戦後は女性が裸になってなんだかって、そういう場所になっちゃったけど。

スーさん
ああ、そうそうそう。ミュージックホール。

上さま
だけどね、終戦前はそこが、ニュース映画劇場だったの。地下入ったとこで。

スーさん
年中ニュース流してたの。ニュースしか流れない。

上さま
ねえ。

だから、そこ行くとね、いつもニュースを1時間くらい観られるの。オヤジが、博物館とか行く時もそこ寄って、よく観に連れてってくれたの覚えてるよ。

で、昭和18年のとき、そこで観てて「もう日本はダメだな」って、子どもながらに分かったよ。

いまちゃん
へぇ〜。

上さま
あのう・・・・
ラバールっていうところがね、最後の戦場になるんだけども。そのころ、飛行機が飛んでても、飛行機の力がもう全然違ってて。

勝ってるときは、加藤隼戦闘隊とかって、ラングーンっていまのミャンマーのあの辺ですごく爆撃して。最初の1年の勝ち戦はすごかったけどね。

でも、それから結局、4年続いたのか。中盤ぐらいから「日本これじゃあ」って思ったよ。だって、全然対抗できてないんだもんね。

ただ、報道が酷いからさ、新聞見ると「敵の空母三艦撃沈、五艦撃沈」ってあるんだよ。轟沈(ごうちん)っていう言葉もあったよね。

スーさん
轟沈とかってねぇ。

上さま
難しい字で、轟沈、撃沈、大破、中破、小破ってあって。

そうすると、毎日、「敵艦空母3隻、戦艦5隻沈めた」って、新聞に出てくるんだけど、そんなに何万トンもある船がさ、あるとは思えないけど、そういう過大なのがいつも新聞の冒頭に出てくるわけ。どんどん負け戦になってきててもね。

そういう記事を見たりしてるから、報道がいかに過大なもんなんだっていうこと、それはもう、随分身に染みたね。

ぐっさん
結局、政府からも、統制されてたわけでしょ。そういう報道しないと、新聞社にも紙とか、そういうのくれないんだってね。

スーさん
そうそう、紙も配給でね。各企業に紙はどのくらいだとかさ、全部統制されてたから。

ぐっさん
だから、そうすると、どうしても政府に都合の良いこと書かないといけなくなっちゃうよね。

上さま
絵でもなんでもさ、画家だって、みんな戦争の絵を描かないと戦場にやられちゃったんだよ。

だから、昔は芸大のことを美術学校で、美校って言ったんだけど、美校出てるひとたちがどっちを選ぶか。ようするに、ペンを持つか銃を持つかっていうことね。それでじゃあ、ペンを持ったり、筆を持つって、選ぶってのはさ、戦争の絵を描かないといけないってことなんだよ。

スーさん
まだ、カラー写真がなかったから、絵をいっぱい描いて印刷してね。

.  .  .  .  .

04 お祖父さんと親父はその3月10日の空襲で亡くなりました。



いまちゃん
どうしよっかなぁ、なんかたくさん戦争のお話が、そういうお話も聞いたことないので、このまま行きましょうか!

一同
(笑)

上さま
それは良いも悪いもさ、啓蒙してるから。例えばさ、もっと平和的な職業選びたいたって、選べないくらいな環境だったわけだよねぇ。

スーさん
あのね、じゃあ話戻すけど、なんつってもね、信じられないのが、手の平を返すように「アメリカさん、アメリカさん」になっちゃったの、日本は。

いまちゃん
戦争終わってから?

スーさん
もう翌日からだよ(笑)。ねぇ?

ナギー
マッカーサーと天皇陛下と並んでんだよ(笑)、並んで写真写って。

スーさん
こっち向いてふたりで並んでねぇ。それまでね、新聞に、ものすっっごいこと書いてあったのにね、翌日から一転して弱身。

それで、米兵が来たら、女のひとは彼らからどう見えるのかとか、そんな話ばっかだよ。「女もみんな丸坊主にしなきゃいかん」とかね(笑)。

いまちゃん
へえ〜。

上さま
あんときの写真見ても分かるように、東京全部焼け野原になって、なんにも無いじゃない。ぼくは田舎行っちゃってたけどさ、もう世の中どうなるのか、これから日本がどう復興してくのか、子どもながらには分かんなかったよね。

スーさん
分かんなかったよね。わたしも3月何日かな、焼けて、落合で焼け出されて、平屋みたいのが、だぁーっと無くなちゃったの。

一帯全部焼けたらね、翌日見たこともないような富士山が見えるでしょ。富士山見たら「あれなあに!?」みたいな(笑)。

上さま
特に墨田の本所深川なんて、あの辺はほんときれいにね。

ぐっさん
うちなんてまさに、本所深川町に住んでたから、もう自宅も工場も、全部焼けて。うちガラス工場やってたんですよ。そしたらお祖父さんと親父はその3月10日の空襲で亡くなりました。

いまちゃん
ああ、そうなんですか。

ぐっさん
だからぼくも父親の存在っていうのは、全然記憶にないですね。1歳ちょっとだから。

上さま
ああ、お父さんが!?辛いなぁ。

ぐっさん
ぼくたちはね、母親の実家に疎開してたから助かったんだけど。

スーさん
場所はどこ?どこに疎開した?

ぐっさん
うちのお袋は三重県なんですよ。だから三重県の四日市。

スーさん
ああ、あっちだってやられるでしょ?

ぐっさん
四日市もね、軍事工場とかあったからね。

上さま
爆撃あったんだよね?

ぐっさん
でもうちは中心街からちょっと離れたところだったから、そういう被害には合わなかったんだど。

スーさん
よくね、疎開してやられるひとって、いっぱい居たよね。

ぐっさん
そうそうそうそう。

いまちゃん
え、そうなんですか。

上さま
だけど本所深川はさ、3月10日だっけ?昭和20年の。あの時はもう10万人亡くなったんだもんね。

ぐっさん
あの辺全部やられたからね。

お祖父さんはね、うちの近くで亡くなった遺体が見つかったんだけど、オヤジはとうとうどうなったか分かんない。もう帰って来ないから、「ああ死んだんだろう」っちゅうことで。

上さま
ああ。

ぐっさん
お祖父さんと親父と、お婆さんと3人で残ってたんだけど、お婆さんだけ助かった。でぇ、男2人亡くなっちゃったから、ガラス工場はもう諦めてね、お婆さんは田舎へ引っ込んじゃって。

上さま
みんな隅田川に飛び込んだってね、火が吹いて熱いから。

スーさん
飛び込んでもさ、隅田川も熱かったんだよね。

ぐっさん
なんか、オヤジも消防団とかやってたらしいんだよ。でぇ、なんか焼夷弾が落ちたから、それを消すとかやって、それに巻き込まれて死んじゃったんじゃないかな。

スーさん
あれ、焼夷弾が落ちたら、みんな砂持ってね、掛けるの。焼夷弾は油みたいなもんがあるから、水じゃダメなの、水じゃ消えないの。

いまちゃん
へぇ〜。

上さま
油が入って、火がつくやつだ。だからバァーッン!と爆発するんじゃなくて、油の火が落ちてくるんだから。

ぐっさん
もう、雨あられと落ちてきたらしいんだよね。だから、結局、全然太刀打ちできないんだけどね。

上さま
この辺は、石川台のむこっかわが全部焼けたんだよ。商店街があったけど商店街がきれいに焼けて。おれは顔覚えてないんだけど、商店のひとは爆弾の直撃で亡くなったって聞いたね。

ぐっさん
そんな、爆弾直撃したらもうね、ひとたまりもないよね。

上さま
だからこの辺りも焼け野原になってたんだよ。でも地方だって、やられてるところはやられてんだもんね。

スーさん
財産持って行ったところでね、やられるってのは可哀想だよ。東京でもやられて、向こうでもやられてさ。もう運みたいなもんだよね、命だからね。

ぐっさん
逃げたところで亡くなっちゃうってのはねぇ・・・・。

スーさん
最悪だよなぁ。

うちは防空壕じゃなくてね、庭に大っきいを穴を3つ掘って物を残そうとしたんです。

上さま
焼けないために?

スーさん
財産で、ことに大変なものは焼けないようにって、出入りのひとたちがすっごい深い穴を掘ってね。でぇ、最後はあるだけの食料入れてさ、上にたくさん土のせて。

うち、幡屋さんだったから、反物卸してたの。だから、穴の中ひと山、反物だったんだけど、うちが焼けた後さ、みんな穴堀に来てくれたらね、お祖父ちゃんが震えてんだよ。

上から見たら助かってるようなんだけど、熱通っちゃってるから入れといた反物の生地がボロボロになっててね、「ここもダメ、あそこもダメ」って。絹織物だから、特に熱に弱いんだよね。それから骨董品もみんなダメで。

上さま
ああ〜。

ぐっさん
防空壕ん中で亡くなったひとも、いっぱい居たみたいですね。

スーさん
ああ、居た居た。

上さま
直撃受けたらさ、もうどうにもならない。あんな大きいもの落っこってくりゃあ、助かるかどうかなんて、ほんと運だよね。

スーさん
運だね。

ぐっさん
うちもお祖父さんか親父かどっちか、男ひとり残ってれば、また仕事も復興できたんだろうけども、男ふたりが亡くなっちゃったもんで諦めて。

ぼくは母親の実家に帰って、しばらくは子ども3人で過ごしてね。お婆さんも東京で生き残ったもんだから、お袋の実家の方に来て、しばらく田舎に居ましたよ。

スーさん
だけどその辺りからの復興はすごかったよ。

いまちゃん
ちょっと、復興のお話から職業の話も聞きたいんですけど、いかがでしょうか。復興中に沢山お仕事あったんじゃないかと想像するんですけど。

スーさん
うん、すごくあったよね。

上さま
子どもながらに、「どうやって復興して立ち上がっていくのかなぁ」、「どんな職業が生まれてくんだろうな」って、そういうのは思ってたけどね。

いまちゃん
どうだったんですか、みなさん。そのときはどんな仕事に就きたいって考えました?

スーさん
百姓はやりたくないと思ったよ、おれ(笑)。

東京の子がね、農家へ行くと、どれだけ農業が働くか、大変かってことが分かったわけ。ものすごいんだから、働く時間が。

それ見て「ああこりゃあ、おれできないな」って思ったよ、子ども心に。

上さま
あ、そう。ぼくはそういう農業の体験から、そうやんないと生きていけないって思ったから、逆に「農業いいなぁ」と思ったけど。

だって、お米の水源を作るじゃないですか。種蒔いて植えて、やっぱし良いもの作ろうっていろいろ手入れして、成長させて実ったあの秋のね、稲の穂に後光が射してる、その過程がねぇ〜。あんな美しい、あんな楽しい、成長させていく、喜びを感じさせてくれる農業の素晴らしさ。

ほかの麦でも穀物でも芋類でも野菜でも、それはやってみて、「素晴らしいもんだなぁ」と思ったけどねぇ。

スーさん
でもねぇ、あの雪深いところで春を待ってね、それで馬が肥料をまくんですよ、雪の上に。「なんで雪の上になんかまくんだろう」と思ったら、如何にして早く雪を溶かそうかっていうね。

早く溶かせば早く植えないといけない。

上さま
山形だからねぇ。

スーさん
「おれこんなことほんとにしたくない(笑)、寒いのにぃ〜」と思って見てたんだよ。寒いんだよ、ほんとに(笑)!

上さま
だけど、どうやって食べてたの?

スーさん
それがわけ分かんないんだけど、そこはお婆ちゃんの実家なんです。母親のお母さんの実家。

上さま
自分がさ、やらないとさ生きていけない時代なんだよ。だから、ちょっとそれだけ世代がおれよか若いんだね。

ぐっさん
年齢的な差があるからね。

スーさん
6歳違う。

ぐっさん
それから上さまの方が年齢が上だから、それだけ感じ取るものも強くなってるからね。

いまちゃん
ああ。

上さま
ぼくらそれやらないとさ、生きていけないわけだけどさ、やらなくても眺めていられたってことだよね。

ぐっさん
ぼくなんかも戦前生まれだけど、昭和17年だからさ、戦争のこととかその当時のことって全然記憶にないもん。戦後すぐのことも記憶にないですよ、全然。

上さま
ああ、そうだよねぇ。

.  .  .  .  .

05 講談社の絵本を読んで、「将来、物を書く人になりたい」って初めて思った。



いまちゃん
スーさんは「農業いやだなぁ〜」て思って、なにか他に思うことがあったんですか?

スーさん
それでねぇ、昭和24年だったかな、こっちへ出て来たのが。「やっぱり東京で暮らそう」って、一家でどおっと出てきたんだよ。そうしたら東京ってなんか一年中お祭りみたいなとこだったね。明るくて、電気が煌々と付いてて、「わあ嬉しい!」と思って(笑)。

一同
(笑)

スーさん
ただ、4年間田舎の生活しててね、田舎って蔵があるんだよ。そこに代々使った物、子どもの使った物がいっぱい詰まってるの。でぇ、そこに講談社の絵本があったの、こんな分厚い本でバアーンと、いっぱい!

いまちゃん
絵本?

スーさん
そう、絵本。それでその絵本を、最初こっちから読みなさいっていうところから、一冊づつ読んでったら、毎日毎日面白いんだよ!

そこの刷り込みがあって、「将来なんかそういう物を書く人になりたい」って、初めて思ったんだよ。

だって他に遊ぶもん、なんにもないもん。腹は空くしさ、なんか食べたいっても、なんにもないし。ただ本読むだけ。でもそれで一時、忘れられたからね。

上さま
講談社の絵本ね。講談社の絵本ってみなさん覚えてる?

スーさん
立派な本だよね。

上さま
ぼくはそれで育った時代だったからね。子どもながらに、あんな体系的であり、あんないい本ないって思ったよ。まだ、ちいちいぱっぱやるようなね、あるいは、おとぎ話っていうのはいっぱいありますけど。

講談社っていうと小学生が読むのかなぁ、分厚くてね、読み応えがあるんだけどさ、いい本だって思ったよね。描かれてるのは戦争のことが圧倒的に多いんだけども。

まあそれは、さっきも話したペンを持つか銃を持つかってことで、ほとんどの画家がみんなどっちか選ばなくちゃいけないわけで。描くとなったら、作家によっちゃあ、怖いこと描けない人は、馬とか動物を戦地の動物ってことで描くんだけど、そうじゃないひとは突撃のとこで鼻垂らして、玉砕する様子とかね、そういうのを描いたりしてるけど。

あれがひとつの情報源だったのかなぁ。いま思えば結局、そういうものでも煽られてたんだよね。講談社っていまもあるよね?

スーさん
あります、2番目に大きい。

上さま
だからすごい大きいな会社だし、講談社でもそんな時代で。その絵本ってのは、すごく自分の考えを占めてる物で、大きな影響をあたえる物だったんだよね。

ぐっさん
スーさん、そういう環境があったからのちの仕事にね、活きたんだね。

スーさん
だから刷り込みみたいなもんだよね。

いまちゃん
そうですよね!いまお聞きした話ですと。

スーさん
だけども、うちもさ、片親だったから。けっこう難しい人生歩いてきたの。まあ、大学は飯田橋の近くの法政だったんだけど、途中で辞めちゃって。それが悪っい女に引っかかちゃってさぁ〜(笑)、初めてさ、女ってこんな良いもんかと思ったのは、その時代だよ。

上さま
神楽坂か。

スーさん
(笑)

一同
(笑)

スーさん
でね、兄弟やなんかに集めてもらった月謝、つかちゃったのね。だから学校に月謝払えなくて。そしたら「月謝払って下さい」って催促の連絡が、家族にいってさぁ、そんな家族に連絡いくっていうのは知らなかったんだよ。うち帰ったらみんな怒ってんだよ。「なんで怒ってんの?」つったら、「お前最近どこ行った?」って(笑)。

ナギー
月謝払わないで芸者買っちゃったとかね(笑)。

一同
(笑)

スーさん
いつの時代もそういうのあるじゃないですか、そういうの引っかかんの早かったの(笑)。それから兄弟が口きいてくれなくなってねぇ・・・・、なんとか自分でアルバイトしなきゃいけないって。でぇ、アルバイト片っぱしからやったんだけど、一番稼ぎいいのが、ニコヨンで。当時はニコヨンつってね、254円が日当のお金なの。

ナギー
うん。

スーさん
大学行くとアルバイトの募集が貼ってあって、ニコヨンがあると、パッと目につくんだけど、それは成人の大人の募集で。「体を考えて選びなさい」って注意書きがあってさ、学生の体が細いのはできないじゃない。それで選んでやった中で、一番ニコヨンに近かかったのは、水道の修理の穴掘る仕事。ツルハシ持って。

一同
ああ〜。

スーさん
でもねぇ、あれはもう、ほんとに辛かったぁ(笑)。やっぱりいまも細いけど、その頃も細かったんだね、おれ(笑)。

上さま
ブルトーザーがない時代だからさ、石運ぶのにひとが担いでねぇ。おれなんかも橋造る仕事で、谷間の岩場を命をかけて行くような仕事をみんな手でやったね。

スーさん
それでね、大学、なんとか上手く2年に上がったんだけど、2年から3年に上手くあがれなくて。仕方ないフラフラしてたら、友人が、「ある広告会社で広告を書く商売があるけど、お前紹介するけどやってみる?」つって。「どこ?」つったら資生堂だっていうから、文書書いて持ってったら「お前合格だから、おれの代わりに行け」って言われてさ。

実はそれは試験だったんだけど、そんなこと分かんないであとで知ったんだけど。でぇ、おれ行くことになっちゃったから「お前どこ行くんだよ?」ったら、「おれは違うとこ行く」つって。そいつは結局、企業調査の草分けになったの、探偵みたいなもんに。

ぐっさん
帝国データバンクみたいな。

スーさん
そうそうそう、日本中飛び歩いてさ。そしたら、会社のことが一眼で分かるようになるってね。大っきい会社も小ちゃい会社も、調査に行くと、この会社はダメな会社か、いい会社かってのが、数歩入ると分かるようになるって。いい会社は匂いはしないし、ゴミはないし、態度はいいしって。

で、話し戻すと、そいつが行こうとしてた所におれがスポっとおさまって、そっからコロコロコロコロっと、3つ4つ、それで最後は博報堂。すごいっしょ(笑)。

彼も、もしかしたらひと探すのにお金もらってるかもしれない。でも、そうやって仕事変わるときは、ひたすら間に入ってくれた人が居たから助かったよ。入って一回目のご飯会はすごくいっぱいお金遣ってくれてねぇ、ご馳走をして頂きました(笑)。だから銀座好き、銀座大好き(笑)。

一同
(笑)

ぐっさん
でも、スーさんは幼少の頃の本が好きだってのが、そのまま職業、商売に活かされてんだね。

スーさん
ほんとはどっかで、そっち(絵本)へ移りたかったんだけど、移った瞬間に金が入って来ないときがあるでしょ、最初は売れないから。ここをどうやって埋めていくかっていうのが難しいんですよ。賞とか獲ればいいんだけど、賞なんかなかなか獲れない。

それでも手応えがあったところは何社かあって、小ちゃい会社だけど「作品流してやる」って言われて。ただ、「日本中の書店に流せるパイプはもってるけども、君に掛ける気はしない。だからいくらかお金を負担して下さい」って。でぇ、「えー50万も!?」とかさ(笑)、そうやって一つ一つチャンスが潰れてっちゃって。

ぐっさん
やっぱり、そういう賞とか獲ると箔が付いたりなんかして売れるんですか?

スーさん
賞を獲った作品は、賞を獲った時点で、すでに金になってるわけですよ。賞金30万とかさ、そういうお金が入ってきて。で、やがて芥川賞とかそういうのいくと100万とかもっと入る。そこからなんたって、賞を獲ったことで本が一挙に、何十万と売れていく。わたしは、そこへなかなか辿り付けなかった。獲ったお金ですぐ遊んじゃう(笑)。

一同
(笑)

スーさん
遊びはいいんだよぉ〜、ほんとに〜(笑)。

上さま
ぼくが東京出てきてからだけど、売春禁止法ってのがね、昭和33年の3月31日だったかな。ぼくあの日、吉原に居たけどさ、

一同
(笑)

上さま
金がねえからね、入れないんだけど。でも、あそこで最後の31日を過ごしたよ、おでん食いながら(笑)。

一同
(笑)

スーさん
そういうんじゃ、わたしは女手ひとつで育っちゃったから、お袋がいっつもすごい心配してくれるの。

ある時さ、「今日は高校卒業したから、こういう人たちと遊びに行く」つったら、封筒持してくれてね、中見たら、「なんで7万円も入ってるのお!?」って。すっかり、お袋が筆下ろしに行くと思ってたの(笑)。「みんなの分かなあ?」とかいろいろ考えて、あんまり大きいからさ翌日勝手に後悔してさ(笑)。

上さま
いい母親だねぇ。

スーさん
そんなことしなくても自然とそうなってくのにね(笑)。

.  .  .  .  .

06 それをヨイトマケっていう言うんですか。



いまちゃん
さあ、ちょっと話題を戻しまして(笑)。

上さま
ニコヨンってさ、

スーさん
254円。失業対策で国が雇って道路やなんや工事するのに、職のない人たちは行くわけね。職業安定所からニコヨンに。

ナギー
いわゆる日雇いでしょ?

かとちゃん
日雇いですよね。要するに1日いくらで雇うっていう。

スーさん
最低保証金額があって。

ぐっさん
美輪明宏が唄った「ヨイトマケの唄」ってあるでしょ?あれがそうですよ、ニコヨンの。

スーさん
ああそうそう。だけど、美輪明宏さんのあれは女のひとの唄だから。 女の辛い仕事を唄った歌なんだよ。

いまちゃん
へえ〜。

スーさん
あれ、どこでもいいわけじゃないんですよ。「戦前ここに井戸があった」とかいう、下に水があるようなところ行ってやるんですよ。細い櫓があってね、鉄砲の頭みたいな重いやつを上にギューっと挙げて、パっと落とす、ストーンっと!それを「よいとまぁけ」つって掛け声かけて、巻くわけね。

上さま
それは戦争中からやってたよ。

スーさん
あれヨイトマケって戦争中もあったの?

上さま
昔っからあった。むしろさ、江戸時代からの習慣じゃないの。

スーさん
そんな昔からあったの?

上さま
ぼくもねぇ、この辺のどこだか覚えてないけど、例えば家を建てるのに下を固める時とか、あるいは井戸を掘る時とかにね、みんな女のひとが樫の着物着て円になるんだよね。でぇ、赤い柱っていうか滑車が上に付いてるのを立ててね、重りでドンドンってやってるの見たよ。どこ行っても「エ〜ンヤコラッ!」ってね、あっちこっちでやってた。あれ、風物詩的になるんだよね。

ぐっさん
あれは基礎を造るためにやるわけでしょ?

かとちゃん
ようするに地面を固める、石かなんか敷いて。固めるために丸い物を持ち上げてドンっと落とす。それをヨイトマケって言うんですよ。

いまちゃん
それをヨイトマケっていう風に言うんですか。

上さま
それでいま考えると、「エーンヤコラッ!」って掛け声が唄になってたんだねぇ。あの習慣は明治、江戸に遡ってあるんじゃないかな。

スーさん
それは兵隊で男が何百万か死んじゃうわけだよ、だから女の人が残される。でぇ、女の人たちが食べていくために色んなことやったけど、如何わしい事以外はそれしかなかったの。だから、いっぱいやってるひとが居たんだよね。裾をヒュっとやってさ、裾は赤い、それを裳裾って言うんだよ。

かとちゃん
よく仕事唄ってあるでしょ、仕事しながら歌唄う、それと同じ。それが「ヨイトマケ」んになったり、「エンヤコラッドッコイショ」とかの掛け声になったり!そういうことだと思う。

上さま
掛け声、それが唄なったんだなぁと思うと、ねぇ、しみじみね。

かとちゃん
多分黙ってやるよりかも、掛け声あげながらやると力が湧いてくるでしょ!

ぐっさん
結局みんなで息を合わせるでしょ。全体の呼吸を合わせないと、上手くいかないから。

いまちゃん
「いっせーのせっ!」みたいな。

ぐっさん
そうそうそう。

上さま
昭和20年代はやっぱり力仕事が一番お金になったのかなぁ。
 
いまちゃん
最初の方にナギーさんから、どんどん仕事が機械化されていって、仕事がなくなっちゃうんじゃないかって話もありましたが、その辺りはどうですか?

スーさん
人口が減るからいいんじゃない?

ナギー
だから生まれ変わったらバスの運転手になろうと思っても、その頃にはバスの運転はもう無人でなかったりね(笑)。

スーさん
無人は早くくるねぇ、きっと。

ナギー
そうそうそう。

上さま
みんなやることなくなっちゃうよね。

いまちゃん
洗濯とかも洗濯機があって、掃除もルンバがやってくれますからね。

ナギー
家事もどんどん家電がやってくれちゃってね、ご飯だってチンすればなんでも食べられる。

かとちゃん
お茶碗もセットすれば洗ってくれるしね。

スーさん
昔のスピードより進化が早いよね、全然。

ナギー
早いですねぇ。

スーさん
ねぇ、ラジオからテレビに移った、あんなスピードじゃないよね。スマホだって分かんないことばっかりだもん。どうして変な音が出ちゃうんだか(笑)。ひとりだからいいもんだけど、Youtubeなんか見てるとさ「ガーガーガー」って、いうのが直せないんだよねぇ(笑)。

これからどんな職業が流行るかってのは、テーマとして残るよね。

いまちゃん
うーん。

スーさん
以外にさ、手相見るとか、そういうのが残ってたりしてね。

ナギー
手相なんて一番なくなっちゃうんじゃないですか、データ分析で全部できるんだから。

スーさん
あれデータかぁ。

いまちゃん
守護霊とかは分からないかもしれないですけどね(笑)。

スーさん
だけどさぁ、空想する部分があるからね。
まあでも将棋も囲碁もね、機械が強くなってね、ダメだもんね。

上さま
銀行がいまどんどん機械化されてひとが余ってきて、縮小傾向にあるじゃない。ぼくは区役所はあんまり知らないけど、住民サービスってのは増えてくかもね。

ナギー
でも、住民サービスもいま頃変わってますよねぇ。いままでは何でも役所のほうに頼みゃいいって言ったけど、最近は大きな災害になると「役所は手え出せませんよ、みなさんがどうやるかってことを考えて下さい」って、だんだん手ぇ放しちゃってきてるからね。

スーさん
これ(お金)だからね。予算で絞られちゃうからね。

上さま
ぼくは逆に予算がいっぱいあるとこばっかり行ってたから、それを反対の立場で考えると、

スーさん
だって都庁一番緩いんだもん、自分がお金持っちゃってるから(笑)。

ナギー
一番お金持ちは分かるけど、緩いかは(笑)。

スーさん
だって、埋め立てた土地の分は無条件で都のお金ですよ。ゴミを入れて金とってね、できた土地が東京都の土地で。

ナギー
でも江東区になっちゃったじゃない。

スーさん
とられちゃった(笑)。

ナギー
大田区はこんなちょこっとで(笑)。

スーさん
大田区広いもんね、江東区あたりはやっぱり可哀想だよ。大田区がこんなのうのうとしてられるのは、埋め立てのお陰ですよ。

ナギー
「羽田があるから、それと中小企業があるから」って言ってましたね。だけど「羽田ほとんど都にいっちゃう」とかって言ってましたね。

スーさん
(笑)

いまちゃん
職業の話は幅がありますね、ちょっとテーマを絞ってお話してもらった方が良かったですね。

上さま
そうそうそう幅が広いですよね、公務員だって幅が広すぎて簡単にね。

スーさん
公務員は全ての職業見てるわけだから、それだけの専門家が居るってことだよ。

スーさん
こんど自分の職業をさ、みんな書いてみたら。

ナギー
まず一番考えるのは、いかに労力使わずにお金が入ってくるかと。

一同
(笑)

ナギー
そういう職業が救いですよ(笑)。

スーさん
いやいやそうじゃなくて、いままでの自分の職業を書いてみて、そして、次生まれ変わるとしたらこんなことしたいって。

ナギー
サンプルちょっと書いてきて下さいよ(笑)。

スーさん
おれか!だってさあ、盛っちゃうからね!面白くしようと思っちゃうんだよね、修正して(笑)。

ナギー
そういうとこ盛れないひとも居るんですよ、なかなか(笑)。

スーさん
あれやってると面白くなるんだよね、どんどん盛っちゃって違うとこ行っちゃうんだよな(笑)。

ナギー
盛った上にまた想像するから、土台と全然違っちゃうってね。

スーさん
酷いのは名前が変わるひと居るんだよね。前にさ「原稿読んでくれ」つって読んでたら、途中から「なんだこれ、わけ分かんねぇ」って思ってたら、「ああ、名前変わってたぁ」って(笑)。

いまちゃん
ざっくばらんにお話頂いて、職業に絡めて昔の戦争のお話なんかも聞かせて頂いてですね、「ああそうだったんだなぁ」って感じることもありました。

上さま
みんな関連して話してるから、当然関連してくるんだよ。

いまちゃん
すごく勉強になりました。お時間もいいとこですので一旦ここで切ります。ありがとうございました!

・ ・ ・

(おしまいです)

聞いてくれてありがとうございます。いかがでしたか?気に入っていただけたら、ぜひスキ(♡)やフォローをお待ちしています。励みになります。感想やヴィダンシ(ヴィンテージ男子)へのコメント、聞きたい話題などもいただけたら、嬉しいです。頂いたコメントは、ヴィダンシにもちゃんとお届けします。今後の会議の参考にもさせてもらいます。よろしくお願いします!

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