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はたらくたのしみ 04-食べることは生きることに直結します。

働きかた改革、話題になってますね。仕事ってなんなんだろうとか、暮らしって?わたしらしさって何?とか考えてしまいます。すでに一線を退いたおやじたちに「はたらくこと、はたらくたのしみ」について伺いました。はたらく目的、立場や役割による変化、楽しさを見つけるヒントを豊富な経験とともに語って頂きました。全4回よろしくお願いします。

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#26GIJIROKU

モノガタリテラー 
だいこんの会 
永遠のギタリスト ナギー(75歳)
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん(78歳)
言葉のファンタジスタ スーさん(80歳) 
精巧な折り紙職人 ぐっさん(77歳)
農業の伝道師 しらさん(仮80歳)

ゲスト
女子専門学生 まりー(仮18歳)

ナビゲーター

アトリエクロック
いまちゃん(36歳)
さそんさん(仮45歳)

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04
食べることは生きることに直結します。


いまちゃん
しらさんは、はたらくこと、はたらく楽しみとか、ご自身の経験を振り返って、どうですか?

しらさん
わたしはね、幼児の頃の体験がそのまま仕事になったようなところがあるんです。一番上の姉とわたし22違うんですけど、その姉が栃木の烏山ってとこご存知でしょうか?ほんと片田舎ですが、そこに嫁いだもんで小学校、中学校とけっこう休み長い時ありますね、冬休み夏休み。

そういうときに遊びに行って、「こりゃあ田舎っていいなぁ」と。「良く遊べていいなぁ」と。

川があったり、畑ですね、それと田んぼがけっこうあります。川ではとにかくめちゃくちゃ泳ぎましたね。とにかく遊ぶという体験にではひとに負けないくらい遊んでたと。それでそのときの体験が農業の仕事に就くことに繋がったんですね。

ただ、学校出てからすぐに農業の仕事には就かないで、はじめは兄の商社に居たんです。小さい会社だったんですけど。

あの頃はベトナム戦争が行われておりまして、兄は東芝関係の物を主体にして、それを仕事に繋げていたんですけど。わたくしは兄とちょっと相反するようなことが自分の好みでしたので、そっちの方で探くっていって。それで、千葉に大多喜ってところがあるんですが、昭和48年に友達が、そこで就農しまして。わたしもそこでいまでいう有機農業ですか、それを展開しようとしたんですね。

ご存知の通り1960年代に安保でかなりもめて学生が野に散っていったというときに頭を出してきたのが有機農業ということで。わたくしはノンポリの方でやっていたもんですから、そういうセクションには全然構わなくやってたんですよ。でも、治安の方から睨まれてたみたいで、何か事件があると警察が来ました。警察が来ても「わたしは好きでやってるんですよ」ということでしか、答えようがなかったんですけど(笑)。でも、当時昭和55年代から60年代、大地の会ってのはご存知かもしれないけど、その会なんかトップを走ってましたから。

あそこは中央線の沿線で、わたしは大田区だったんで有機農業始めたときにけっこう大田区のほうから「どういうことやってんだ?」ということで課長さんとか見にきました。消費者センターってありますね、あそこの課長さんなんかを農場に案内して。そのとき農場は山梨の韮崎というとこで、有機農業を研究しようということで、一長文、三千坪しかない、農場としては決して広くない研究するための農場で働いてました。冬は寒いもんですから、農業できないので、働きに出ないといけない。ドカチンですね、ドカタ仕事もやりました。

それでわたしくしは、えっとさっき言ったように兄と仕事をしてたもんで、すぐに東京に戻って、他に就農するひとたちも居ましたので、そのひとたちが頑張って作物を作ってくれるのを待って、それでできた物を広める役に立っていったわけなんですね。それで昭和56年、武蔵野クラブっていう名前をつけてはじめたんです。まだNPO法人っていう制度ができる前ですから、武蔵野クラブっていう名前で広めていきました。

ところが有機農業っていうのは大田区では広まっていなくて、「有機ってなあに?」と、そういう状況で。それで2年間くらいは、地道に町の人たちと交流をもちながら我慢したんですけど、婦人会の方がとても優しくガイドしてくれまして、それでずいぶん助かりました。

それから、大田区消費者の会ってのが、その当時はまあけっこう名のある消費者団体で、そこと関係を持ちながら、品物がある程度できるようになってから学校に飛び込んで行ったら、うまい具合にその学校の栄養士さんが喜んでくれましてね。「こういうの待ってたんだよ、助かるなぁ」と。そのときのことは今でも覚えています。嬉しかったですね。そこから学校給食に使ってもらって少しづつ広げていきましたね。取引する学校が10校くらいあれば食べていけるような金額にはなってくるので、生活もやや安定してきてようやく兄と別れてもやっていけるかなという会になってきたんですね。それからしばらくは良かったです。

ところが、中曽根内閣のころ臨時教育審議会というのがありまして、ようするに教育改革ですね。そこで学校の人件費を落とす、なるべく抑えようと、いうような政策もありまして、守衛さんの配置を辞めて機械系にいったと。それが最初の痛手になりました(笑)。配達できないんですね、その当時は5時には配達の体勢取ってたんですが、それが7時半になっちゃいましたら、その間門に入れないんです。だもんで、そのときは苦しみました。

それからいまはもう、学校給食に使ってもらうのはいろんな事情から辞めざるおえなくなって辞めまして。それで昭和62年に、それまで野菜を主体にやっていたのをお米に転換しました。そのあと農家さんから直接消費者に品物を届けてもよいっていうような制度ができました。そのときも、ものすごく緊張しました、お米屋さんもバタバタと姿を消していくような運命になって。

それから、東日本大震災のときの原発事故、これはとても酷い被害でして、一気にわたしを縮みあがらさせましてね。事実、売り上げも大げさじゃなく、それを機に20分の1に減っちゃったんですね。で、どんどんどん小さくなってって、いま一番最悪の状態のところに移ったんですけど(笑)。

まあそんなことで、大変なこともありますが、ぼくは自営業なんでね、いまも働いてます。

いまちゃん
そうですよね、いまも働いてらっしゃいますもんね。

しらさん
そうですね。なんとかぼくの時代で福島を乗り越えて行ければ良いなぁと、そういう風には思ってますね。あとでも5年とかそんな単位では完全には消えないと思うんですが、でもだいぶ薄らいできました。

いまちゃん
苦しかった出来事も含めて、大作をお話頂いたわけなんですが、今の時点で白滝さんにとっての「はたらくこと」っていうのは、ひとことで言うとどうですか?

しらさん
ぼくにとって「はたらくこと」って、やっぱり食べていくということ、生きていくこと、そのものになると思いますね。食べ物ってのは生きてくことに直結しますからね。やっぱりいい食べ物っていうか、ぼくが言ういい食べ物っていうのは、ちょっときつい表現かもしれませんけど、毒を食わない。農薬や化学肥料は使わない食べ物ってことなんですけど。長い話になりましたけど。そんなところです、はい。仕事は楽しいです。苦しいけど楽しいです。

いまちゃん
いえ、ありがとうございます。今日は「はたらくこと」っていう議題でお話頂きましたけど、はたらく目的、はたらく面白さを見つけるヒントは出てきたんじゃないかなと思います。はたらくことで悩んでる誰かの参考になるといいですね!時間もきましたので今日のところはこれでおしまいにします。ありがとうございました。

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2019-09-30-MON
(オシマイ)

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