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真面目に平和を考える。 02.当時の平和ってのは、戦争に勝つことなんだよ。


ヴィダンシの中には、戦中・戦後の戦乱の中で暮らしていた方々がいます。今回は平和をお題に、当時の空襲や食糧難のエピソード、戦後74年目のいまどんなことを考えているのか、特別参加のおふたりも交えて語って頂きました。全7回よろしくお願いします。※こちらは2018年に収録したものです。

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#31GIJIROKU

モノガタリテラー

だいこんの会 
永遠のギタリスト ナギー(75歳)
ガチな美術マスター 上さま(85歳)
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん(78歳)
言葉のファンタジスタ スーさん(80歳) 
精巧な折り紙職人 ぐっさん(77歳)

 ゲスト参加
えーさん
びーさん

ナビゲーター
さそんさん(仮45歳)


・ ・ ・

02
当時の平和ってのは、戦争に勝つことなんだよ。



上さま
ところで、みなさん玉砕って言葉の意味知ってます?

ぼくも子どもだったから、正しくは分かってなかったんだけど、ようするにさ、喜んで国のために死ぬことを玉砕っつうらしいんだけどね。

アッツ島玉砕でね、二千何百人がさ、全員アメリカに攻撃されて、あれから日本がどんどんどんどん負けてっちゃうわけだけど。記事には出征してったひとだけじゃなくて、疎開したひとのはなしも載ってるけどさ、ふつうだったら爆撃されると悔しがるのに、とにかくもう、自分のうちが焼けても、「ああ良かった、お国のためになった」って。

「お国のためになった、バンザイ!」なんてする雰囲気に、われわれは育ったんですよ。

さそん
うーん。

上さま
ちょっといまからは考えらないと思うんだ(笑)。

さそん
そうですねぇ。

ぐっさん
いまの時代からしたらほんと考えられないですよね。なぜそうなったかって言うと、やっぱり軍隊の力が強かったんだろうね。

上さま
戦争に負けるって言葉出したら、もうすぐ殴り殺されるっていう・・・・終戦になるまで、そんな雰囲気があったから(笑)。

だから、ほんとに自分のうちが爆撃されて「ああ良かった、お国のためになった」って、なにがお国のためかって思うけど、ねぇ、そう言うしかない状況だったんだよね。

さそん 
生まれてもの心ついたときに、もう戦争やってて、いつ空襲がくるか分かんない状況だってことですもんね。

上さま 
だけど、いまだに覚えてるのは、小さくてもなんか疑問はあったよ。

さそん
ありました?「なんでこんなことしてるんだろう」っていう?

上さま
なんて言うのかなぁ、日本人だし、雰囲気がそうだから、戦争は勝たなくちゃいけないっていう気持ちはもちろんありますよ。だけど、なんだろうねぇ、ちょっと上手く言葉にできないけどさ。

だって、ぼくがさ、七五三のとき着せられた服は軍服で、敬礼してるんだもん。紀章もつけて。

さそん
じゃあほんと出征のときの。

上さま
だからようするに、陸軍大将をお雛様と同じように捉えてるってことだよね。ぼくは男だから5歳のときだ。でぇ、その服はお袋が全部編んでくれて。

今日写真持ってくれば良かったなぁ。

さそん
ああ、いまでもあるんですね。

上さま
だから戦争中、ぼくと同じくらいの子どもは、「国のために死ぬのは当たり前だ」と言われて育てられてたわけだ。

さそん
喜んで、死んでくっていうねぇ。

上さま
そうだ、だからさ、「天皇陛下バンザイ!」って笑顔で死んでくなんて、子どもながらに考えられないから、お袋に聞いたんですよ、5、6歳のときかな。

靖国神社の爆弾三勇士って、3人で飛び込んでって「天皇陛下バンザイ!」って死ぬのを観たときに、「なんで死ぬのに笑顔なんだ」ってのを。

そしたらお袋が困ってたのを覚えてるよ。そういう雰囲気が中学入る前まで、続いたね。

それから韓国、北朝鮮なんて言わなかったもんね、朝鮮って言ってたから。北海道は樺太か。それをみんな日本だと思って育てられたんだからさ。実際、日本として地理で習ったしね。

さそん
ああ、外国じゃないってことですよね。

ナギー
中国は支那ですか?

上さま
そう支那。中華民国ってそのあとで言ったのか、その前後からかな。

ぐっさん
支那、支那って言ってましたよね。石原さんもよく支那、支那って言って。

上さま
あれは侮辱するような言い方でね、石原さんは・・・・。

ぐっさん
あれはよくないよね。

上さま
中国のひとにとっては、気分が悪いよね。

ぐっさん
わざと言ってたんでしょ、挑発するような感じでね。

ナギー 
でも、支那そばなんか美味かったけどね(笑)。

一同 
(笑)

かとちゃん
そう!ラーメンを支那そばって言ったもんね。

上さま
話飛ぶけどさ、支那そばって、おれ大岡山に行くときいつも戦前食べたんだよ。「美味しい物だな」ってのはともかくとして、

そうしたら中国にオヤジが行ったときに、「むこうに支那そばなんてない、ラーメンなんてない」っつうだから(笑)。

でも、むこうから来たもんに間違いはないよね?

ぐっさん 
そうでしょうね。

かとちゃん
当時でいうと、それが平和だったんですかね?

上さま
当時の平和ってのは戦争に勝つことなんだよね。平和のために戦争をじゃないんだよ、戦争はあるのが前提だから。だから戦争に勝たなくちゃいけないっていう義務教育をされてきたんだよ。

おれよか上のひとたちなんて、中学入ると全員鉄砲持たされて、将校が来て、軍事教練をさせられてさ。藁の人形立てといて、それにみんな突っ込むって訓練を女学生もやってたよ。

さそん
女性もやってたんですよね・・・・。

びーさん
わたしは朝鮮に行ったんだけど、女学校で竹槍を持って訓練やりましたよ、運動服着てね。

さそん 
そうなんですか。

上さま
だからさ、久が原にアメリカのボーイングB-29か24か分かんないけど落っこったんだってさ、吞川の脇に。そしたらみんなで竹槍持って、すっとんでったんだって。そしたら刺しちゃいけないっていうんで止められて。戦争の中の協定でもあるわけだから、やっちゃいけないってことで。

殺すのはあたり前だからさ、それも変な・・・・って思うけど、そういう取り決めはちゃんとあったんだね。

一番酷いのは子ども。久が原小学校をいつも考えちゃうけど、艦載機グラマンとか、クライシストってのが来て、飛行機で撃っていくわけね。「禁じられた遊び 」って映画があったけど、ほんとあんなふうに飛行機が来てバァーッって撃っていくから、それでみんな子どもがやられちゃう。

スーさん 
絨毯爆撃つってね、当たるも当たらないも無差別に、あたり一帯に爆弾落としてく、絨毯みたいに。そういうのもあったよね。

上さま
それを受けたのは墨田区本所深川だね、あそこは絨毯爆撃やられたよね。焼夷弾で火がついた油が落っこってきて、家を燃やすわけだよ。

ちょうどその話をね、こないだ、はと屋のオヤジさんとしてさ、オヤジさん5歳のとき本所に居たみたいなんだけど、爆撃のとき居たひとはほとんど隅田川へ飛び込んで、亡くなった状態で浮き上がったんだって、言ってましたよ。

ぐっさん
そん中のうち、2人は、うちですもん。うちのお祖父さんとオヤジはそれで亡くなったんですよ。3月10日。

お祖父さんは亡くなったあと、うちの近くで見つかったけど、オヤジの方はとうとう、もうどこ行ったか分かんない。累々と積み上げてあったらしいから、そん中入っちゃったんじゃないのかな。

上さま
そうだってねぇ。隅田川そのものが煮あがっちゃったくらい、熱くなったいうもんね。

ぐっさん
いま墨田区石原町っていうけど、むかしは本所石原町つって、一番激しく焼けた場所なんですよ。だから近くにその当時の様子を展示したのがあるからって観に行ったけど、ほんと凄かったようですね。

上さま
はと屋のご主人はさ、5歳だったから集団疎開させられてたんだけど、たまたまなんかあって帰ってきたんだって。そしたらやられちゃったって。

ぐっさん
うちはね、たまたまお袋と子どもたちは3月10日の前にお袋の実家に疎開したんですよ。それで母親と子どもたちはみんな助かったけど、お祖母さんとお祖父さんとオヤジは東京に残ってて、で、男2人亡くなってお祖母さんだけ助かった。

・ ・ ・

2019-10-10-THU
(また明日つづきます)

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