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7年浪人してやっと裁判官になれました。

こんばんは、イトウです。

今回は裁判官、弁護士をされていた、しろさんがゲスト参加されたそう。故郷の沖縄のこと、法律家のお仕事のこと、差別や大事件への遭遇など、短い時間ながら半生を語って頂きました。

MONOGATARI KAIGI @DAIKON no KAI
#54GIJIROKU

ストーリーテラー
永遠のギタリスト ナギー
ガチな美術マスター 上さま
江戸っ子オーガナイザー かとちゃん
言葉のファンタジスタ スーさん 
精巧な折り紙職人 ぐっさん  
ゲスト参加の しろさん

ナビゲーター
筋金入りのぶりっ子 まるこ
地域の守りびと たけこ

まるこ 今日はゲスト参加があります!しろさんです。では、突然で申し訳ないんですが、簡単な自己紹介をお願いできますか?あ、いすに座ったままで大丈夫です!

ナギー あはは、気楽な会ですから。

しろさん それでは、本日皆さんのお仲間に入れていただく「しろさん」でございます。よろしくお願いします。

まるこ ありがとうございます。では、今日はしろさんもお仲間に加えてやっていきたいと思います!

お題は、こないだスーさんが、いのっちの自分史を読んで「人の人生知るってとっても面白い」って言っていたのが印象に残ってまして。今日はせっかく、しろさんも来てくれてますし、しろさんの物語をみんなで伺えればと思ってます。

しろさん ははは。わたくしで、よろしいんですか?

かとちゃん お願いします。

一同 さんせいでーす。

まるこ よかった。では、しろさん、よろしくお願いします!

しろさん あははは、承知しました。ではまず、非常に幸いなことに、このメンバーの中におひとりだけ先輩がおられて、今ホッとしてるところであります。

まるこ というと、しろさんはちなみにおいくつですか?

しろさん 85歳、昭和9年生まれでございます。

スーさん じゃあ、ほぼ上さまと同じだ。

上さま よかった〜。みんな若すぎるんだもん(笑)。

一同 あははは。

しろさん この歳になって先輩がいるというのは、心づよいものですね。住まいは、この近くで30年住んでいます。なんで30年かといいますと、わたくし、裁判所出身でございます。裁判官をしておりまして、主に刑事事件と外国人事件を担当しておりました。

一同 おおー。

ぐっさん どちらの裁判所で勤務されてたんですか?

しろさん 東京地方裁判所に一番長く勤務しておりました。まあ、国家公務員ですから転勤がございまして、沖縄の那覇地方裁判所からはじまって、東京地方裁判所に転勤してまいりました。

ところが、東京地裁は非常に忙しいもんですから、「田舎に帰りたい」という気持ちになりまして、所長に転勤希望を出しました。そうしますと、東京地裁は希望者が多いもんですから「3年刻みくらいで転勤をさせるから。よしよし、わかった」と言ってもらえましたので、「一安心、田舎に帰れるかな」と思ったんですが、

まるこ (笑)

しろさん そううまくもいかず、鹿児島に転勤と。

スーさん ちょっと近くなりましたね(笑)。

しろさん はい(笑)。しかしわたしも諦めが悪く、「所長、聞き間違えていませんか?わたしが希望したのは沖縄なんですが」と言ったら、「途中下車しなさい」と。

一同 あははは。

まるこ 各停でみたいな(笑)。

しろさん 長かったですね(笑)。

まるこ 先ほど田舎とおしゃってましたが、出身は沖縄ですか?

しろさん 生まれは東京ですが、小学校のころには沖縄におりました。といいますのも、明治生まれの父親が沖縄出身でして、若いころに東京に出てきて、わたしが小学生のころにまた沖縄に戻ったんですね。

かとちゃん お父さんはお仕事で東京に?

しろさん うちの父親は英語教師をしてまして、

ぐっさん へぇ〜、明治生まれの方で英語を学んでいたなんて、ジョン万次郎じゃないけど、すごいですねぇ。

しろさん そのようですね。

当時、明治生まれで英語を話せるなんて珍しかったんでしょう、沖縄に住んでいましたら、「敵国のスパイでは?」と疑われてしまったんです。ですから、親父は沖縄にいられなくなって、昭和はじめに東京に引っ越してきたんです。

上さま そのころは、たしかに疑われちゃうよなぁ。
 
しろさん それから、なんとか大東和戦争の始まった昭和16年に、やっと沖縄に戻ることができました。それから沖縄で小中高と進学しまして、高校は「コザ高校」というところでした。

まるこ コザ高校?

しろさん はい、「コザ」というのは、コザ市という地名から名付けられた高校なんです。しかし面白いのが、その当時、沖縄に「コザ」という地名はなかったんです。どうやら、上陸してきたアメリカ軍が司令部をつくる際に、近隣の古謝(こじゃ)という地名をローマ字で書き間違えて、それがキッカケで「コザ」となったそうなんです。

まるこ 「コロッケはクロケットの聞き間違え」みたいな。

しろさん そんなところでしょうね(笑)。

高校卒業後は、中央大学の法学部へと進みました。高校を卒業見込みの近くに、東京で弁護士をしておりました叔父を訪ねて、単身東京に出てまいりました。叔父の履歴を見たら、中央大学法学部出身であるとわかりまして、「よし、叔父さんの真似をしよう」と中大法学部を受験したんですね。ところが、沖縄から船に乗って横浜で受験したんですが、結果はといいますと落第でした(笑)。翌年1年浪人して、かろうじて、中大の法学部に入ることができました。

一同 お〜!

しろさん 大学に入りましたら、せっかく法学部に入ったんだから、法律を職業にしたいと思いまして、最初は裁判官ではなくて、裁判官の下の書記官になって勉強しようと書記官に志願しました。そこで働きながら勉強をつづけて、7年浪人して、やっと裁判官になれました。

まるこ おおー、すごい。

しろさん そうこうしてるうちに、沖縄が本土に復帰する年になりました。沖縄がどんな戦争被害を受けたのか、それから現在どのように復興して観光できるようになったのか、わたしからみなさんにお話できるタネとして持っておりますので、また別の機会にお話させてください。今日は郷里をご紹介する資料を持ってきますので、そちらも、どうぞご利用くださいませ。

まるこ 学生時代はどんな子だったんですか?

しろさん コザ高校はすぐ隣に米軍の嘉手納基地がございました。平和な時代でしたから、ボランティアとして高校に英語の指導をしに行きたいと願いでる、暇な兵隊さんがたくさんいました。わたしはその兵隊さんと友達になりましてね、「何か役にたつことないか?」と申し出てくれましたので、英語の勉強をお世話になりました。兵隊さんは「徹底的に英語を勉強して、アメリカ留学のチャンスを掴め」ということで教えてくれたんです。

当時、沖縄はアメリカ軍に支配されてましたけど、悪いことばかりではなかったんです。こと、教育に関しては金をつぎ込んでくれまして。いま、国立大学になってる琉球大学は、アメリカ軍がつくってくれたものなんです。

それから、短期留学なんですが、アメリカ政府が沖縄で選抜した学生に奨学金を与えて、アメリカに留学させるということがありました。1年間で150人ほど選抜されて、アメリカに留学していたんです。20代後半の時期だったんですが、裁判所を休職して、わたしもアメリカ留学の経験をしました。

選抜生に選ばれると、「どこの州に行きたいか」ということで希望調査がありまして、わたしと一緒に合格した友達は、友達や家族がいるニューヨークやハワイ、ロサンゼルスを希望していました。わたしはそれとは逆に、日本人がひとりもいないようなとこを希望しまして、希望どおりテキサス州のダラスに行きました。

が、そこで、ひどい目にあったんです・・・・、ダラスの大学に入ったその年に、

ぐっさん ケネディじゃない?

まるこ おお〜、歴史上の人物(笑)!

しろさん そうなんです。映画で観ていたマリリンモンローが自殺した年が留学した年で、翌年、ケネディ大統領が暗殺されて、2つの大事件がテキサス州ダラスでありました。

ぐっさん ちょうど、ケネディ大統領が暗殺された時に、日本で衛星放送が始まったんだよね。

まるこ へえ〜。

上さま あれは、遠くから射撃されたんでしょ?

しろさん そうでしたね。犯人は結局いまだはっきりせずですけれども。

スーさん オズワルド?

ナギー わからないままだよね。

スーさん 今、オズワルドってどうしてるの?

しろさん オズワルドは、警察で留置中に殺されたんじゃなかったですか?

ぐっさん 裁判は結局受けてなかったですよね。

スーさん そうなんだ。

しろさん どうも、「オズワルドではなさそうだ」って言われてますよね。

まるこ そうなんですねぇ。ところで、しろさんは留学された時、なんで日本人がいないところをあえて選んだんですか?

しろさん それはやはり、外国に行く以上は日本語は使いたくないと、なるべく地元に溶け込みたいという気持ちからです。ところが、南部のダラスはメキシコの隣で非常になまりの強いところなんですよ。だから、あまり標準語ではないのでね、結果的にはそういう部分で苦労はしました。

ぐっさん 黒人が多いんじゃないですか?

しろさん ええ、黒人の方は多かったです。大学の寮に入っていたんですが、寮の掃除とかは黒人の使用人さんにお世話になっていました。そこでも英語を教えてもらおうと思って、いろいろと話してたんですが、寮の舎監に見つかって呼び出されて、「黒人と接触するな」と。黒人の差別がひどいころでしたので。

まるこ そういう時代なんですね。

しろさん 留学して最初にびっくりしたのは、課外授業としてテキサス州の裁判所に見学に行った時のことです。トイレに入りたくなって、係の方にトイレを教えてもらって行ってみると、トイレが黒人専用と白人専用と2つありました。わたしは「どっちいけばいいんだろう」と迷いまして、先生に聞くと「お前は白人用に行け」と、そんな経験もありました。

まるこ へぇ。東洋人に対する偏見は?

しろさん ありましたね。やはり、アメリカ人にとっては、真珠湾攻撃の奇襲に反感がありましたから、アメリカ在住の日本人に対してよくは思っていなかった。でも、黒人を差別するほどではなかったですね。それでも、とにかく、暮らしにくいところで、2年間留学して帰ってまいりました・・・・。

スーさん アメリカ行かれた時、お金いくら持っていかれました?

しろさん ほとんど餞別で親からもらったくらいです。

スーさん キャッシュ?

しろさん はい、ドルで。ちょうど沖縄でドルに慣れていたのもあって。

スーさん じゃあ沖縄ドルですか?

しろさん いえ、アメリカドルを持っていきました。

スーさん わたしたち海外に行く時、最初のころはね、ドルを入手するのが大変難しかったんですよ。360円から順々に高くなっていったので、みんな闇ドルを買って持っていきましたよ。

まるこ 闇ドル?

スーさん そう、闇ドル。

かとちゃん そういえば、今は沖縄行くのフリーですけど、いつまでビザが必要だったんですか?

しろさん パスポート使わなくなったのは、本土復帰以後。

ナギー 昭和47年、1972、3年じゃないの。

スーさん 日本に帰ってきた翌日から交通が変わりますよね、その時はどうでした?

しろさん わたしは米軍に支配されてた時に運転免許をとりましたので、車線が逆でした。ですから、そういった部分で慣れなかったですね。

それから運転といいますと、娘を助手席に乗せてると後ろからパトカーが追ってきまして、「女の子に運転させてるだろ!」と、そういうわけですね。それに対して「いや、これは左ハンドルですよ」っていう問答が何度かありました(笑)。

スーさん 左ハンドルは、左折が怖いですね。

まるこ 外車ですか?

しろさん いえ外車ではなく、わたしが乗っていたのは日産のローレル、国産車だったんです。

上さま ローレルか、懐かしいなぁ。

たけこ 日産も左ハンドル、つくってたんですねぇ。

しろさん アメリカへの輸出用に作られていたようですね。沖縄で最初のタクシーに使用された車も左ハンドルの国産車でした。ですから、沖縄で左ハンドルはメジャーでしたね。

日本に帰国後、わたしは東京勤めでしたので、東京ではまだ珍しかったんですね。給油をするっていうと、ガソリンスタンドのアルバイトの少年が珍しがって、「なんでお客さんの車はハンドルの位置が逆なのの?」っていつも聞かれるんです。

まるこ へえ〜。

しろさん 面倒くさいから「メーカーが間違えたんだ」と応えました。

一同 あははは。

上さま 沖縄は何年くらい占領されてたんですかね?

しろさん 28年。

上さま そんな長かったですか?

しろさん 昭和20年から28年で、8年かかりました。

上さま 三木外務大臣ですね。

しろさん そうですね、だからそういった面では、東京に転勤してきた時は「お前日本語喋れるのか」と嫌味を言われることもありましたね。

まるこ ああ、辛いですね。仕事はおいくつまで?

しろさん 裁判官としては70歳で定年を迎えまして、定年後は弁護士家業をポツポツと行っておりました。

まるこ すごーくバカな質問ですが、裁判官は弁護士にもなれちゃうんですか?

しろさん そうですね、同じ資格ですね。

まるこ へ〜。弁護士では、どんな相談が多かったんですか?

しろさん 1番多かったのは、離婚事件でしたね。ですが、わたくしが一番不得手な事件は、離婚事件。

ぐっさん あははは。

しろさん 2番目は財産分与と。

一同 (笑)

まるこ そういうのが多いんですか(笑)。

しろさん そうなんです。ですから、ご相談に応ずるとはしても、代理人として裁判沙汰にもってくことは自信がないものですから、お断りしていた状況でした。

弁護士には定年がございませんし、先輩に100歳の弁護士もいらっしゃいましたので、そういうわけでポツポツとやっておりましたが、ちょっと前に心臓を悪くしまして、それを機に廃業しました。

ナギー 民間の自営業だもんなぁ。

しろさん ちなみに趣味は車とゴルフです。と言っても、最近はもう遠のいてしまいましたが。

まるこ 上さまも車お好きでしたよね?

上さま 車は何を乗られてたんですか?

しろさん 最初はローレル、それからボルボ、ベンツが愛車でしたね。

たけこ 昭和の男たちだ(笑)

まるこ あはは。

あーもっと伺いたいんですが、時間がきてしまいました。しろさん突然で申し訳なかったですが、とても面白かったです。みなさま、本日もありがとうございました。

一同 ありがとうございました〜。パチパチパチパチ。

しろさん こちらこそ、ありがとうございました。とても楽しかったです。

2019-11-07-WED
(おしまい)

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