2022/11/06 明日隔離解除の見込み

早いもので本日で10日目。
食事もとても美味しく、何か不安なことがあれば中国人の知人に相談し即時解決。
多少家族に会いたいなぁと言う思いが募る。

いずれにせよ明日朝久しぶりに外気が吸えそうだ。


夜中すまほーいじり始めてしまい寝れなくなる。
そんな自分に嫌気がさす。
ただしすまほーいじり何かを見て何かを感じると言う事は悪いことではないと思う。
すまほーを見てただぼーっと過ごす、世の中ではこの行為はだらしがない自己成長を伴わない姿勢として、ネガティブに捉えられがちだが、それは世の中が作り出した価値観であり、その価値観を受容するか否かは、自分自身が判断できる、いや、判断すべきであると考えている。
自分が起こした行動をポジティブに受け入れることが大切なことである。
よく今まで出会ってきたことに無駄はないと言うことを言う人がいるが、
その思考方法はとても大切だということがこの年になってわかる。
今までの自分は、無駄なことを認める、
それが大切だと思っていた。
無駄なことをどう認めるかが大切。
楽しかった、その時の自分にとっては大切だった、そう認めることが大切である。
その時間がポジティブだったなと振り返ったときに思っている事はとても大切である。
あんな無駄なことをしてしまった、そんな自分は全然だめな奴だ。
今の自分と過去の自分を相対的に見たときに、
過去の自分をあまりにも卑下する事は、過去の自分が今の土台とすれば、
今の自分の立ち位置を下げる。
これから前を向いて歩いて行こうとしてるのに、
下げる必要はない。

むしろ、
いままでこんなに楽しんでるんだから、
これからもいけるでしょ!という考えが必要だ。

人には少なからず、躁鬱の波がある。
一方社会が規定する価値観は、
安定している。
社会の単位が個人に落とし込まれていくと、
不安定になる。
個人単位は思考が移り変わる。
社会はそこまで大きく移りかわらない。

社会の基準に一生懸命合わせると、
それは必ずしも自分の価値観ではないことの方が多い。
なぜなら社会の価値観は社会が安定するために個人を排他していくことも加味された価値観だからだ。

その基準に合わせ込むと個人はかなり追い詰められる。

他人に合わせていくのもかなり追い詰められる。

どこに合わせるか。
自分しかない。

自分の価値観、価値観というか、ポジティブな感覚的基準に合わせ込んでいく。
その感覚基準のベクトルが常に善行に向いていれば良いわけだ。

社会が良くなればみんなハッピーなわけだ。
どうよくすれば良いかは自分が考えたベクトルで達成する。
小さな事でいい。

目の前にゴミが落ちていれば、
ゴミを拾うくらいの感じだ。
社会はそんな小さなことを評価しないかもしれない、、
そんなことをイチイチ考えるからキツくなる。
小さなことでも善行に変わりなく、
善行をすれば、気持ちが晴れ晴れとし、
自分の気持ちは落ち着いてくるわけだ。

社会や他人を気にせずに、やり続ける。

娘たちを見ていればわかるが、
彼らは無我夢中で何かに取り組む。
あの姿勢が、
とても良いのだ。



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