2022/11/06

娘たちに自分の思考を残すためにここに書き残す。

努力と感じるか感じないか。
自分のペースを保つか保たないか。

ある程度のレベルに達すると楽しいなぁと思うことがある。
そのレベルに達するために、努力が必要な場合がある。

努力が必要となる。それは締め切りがある場合だ。
締め切りの設定を自分でできる場合もあれば、
そうではない場合もある。
締め切りがなければ、気ままに楽しめばいい。
気がつけばそのレベルにいるのではなかろうか。
ただ、大抵のことに締め切りはある。
身体の細胞は劣化していく。
ここに締め切りがある。
将来この締め切りが再生医療のおかげでなくなるかもしれない。
果たして幸せなのかどうか。
わたしにとっては不幸せであろう。
その理由はよくわからない。今のところは。

そもそもなぜそのレベルに到達しようかと思う動機によって、努力と感じるか感じないか。分かれてくるかもしれない。

努力するという行為は、周りから評価されやすく、周りも何故かその姿勢に感動を抱くのが世の中だ。
そこに病理がある気がする。
努力が過大評価され、努力している本人が自立していない場合は、その姿勢により自分を支える循環に入り込んでしまう。
蓋を開けたら、
目的がなんだったか忘れている。
その努力していると周りから思われている時間、
本人が努力と感じず楽しく過ごしていればそれでいい。

周りを感動させる為の努力は本人にとって害悪になる可能性がある。


はたまた、
気がついたらそのレベルだったという場合もある。
わかりやすい例で言えば、

日本に生まれたこと。
日本とはある程度安全安心の国だ。
この安心安全がないとできないことはたくさんある。
気がついたらそのレベルだったという例だ。

スタート地点が先天的に与えられているパターンも世の中にはたくさんある。

先天性に関しては神様、お天道様、両親、自分自身、地球?のおかげでとして、世の中にはギフトってあるんだな、ハッピーだなと思えばよい。

先天的に持ってる場合は、
周りからは天才と言われるかもしれない。
持ってるものに対して天才といわれたら、
私は運が良いだけと他人に伝えればいい。
逆に、他人のことを天才と思える、その思考に好奇心を抱いても良いかもしれない。

何に対しても、すごい!と言えるその思考。
すごいと感動できる。それは幸せなことのように思う。
感動が多ければ多いほど幸せなのは、間違いないのだ。

かくいう私は、
すごいと言ってしまうことで、思考が鈍ると考えている。
偏屈な性格なのだ。

それは、他人への嫉妬から出てくる思考なのかもしれない。なぜ鈍ることがいけないのか、
おそらく、成長しなければいけないという思考に頭が侵食されているからであろう。

とはいえ、
すごいと思ったことを細かく切り刻み、
どういうことの足し算や掛け算で、
すごいことが発生したのかを確認することは、
学びがあって面白いことだと思う。

すごいと言われたい人にとっては、
面倒くさいと思われる性格だが、
相手に対して、そのレベルまでのしあがったことにリスペクトを示しつつ、
そのレベルにのしあがった要素を聞き取れれば、
自分がそのレベルにいく為に今必要なことが楽して手に入る良いチャンスになることは、間違いない。

話はそれに逸れているが、あまり気にしなくて良いかなと思う。
話しがまとまっている人もいればそうでない人もいる。
そうでないという点でまとまっているのが私なのだと。それで良いとしよう。

ペースの問題は中々痺れる問題だ。
学歴。
これは歴とつくように時間軸が入ってくる。
そして何故だか知らないが、
みんな同じ年齢からヨーイドンで学歴というものが始まる。

無理がある構造だ。

学とは学びの世界だ。
学ぶことに対して、
ポジティブなタイミングもあればネガティブなタイミングもある。

学歴という波に乗り切れないと生きづらいというマインドを植え付けないことが1番大切だ。

良いことをする上で学びはあった方がいい。
内発的な良いことは、人それぞれ違ったりする。
体を使ってよいことをしたいひともいれば頭を使って良いことをしたいひともいる。
両方の人もいる。

または、
住む環境によって良いことの定義がことなることもある。

今目の前の環境で必要そうなものを学べば良い。
社会の波が心底魅力的ならその波に乗るために学ぶのもありだし、
なんか社会の波とは違うけど、
よくわからないけどその波がよく見えてしまう。
恋するってそういうことかもだが、、
そしたらその波に対して学べば良い。

社会的には経済をテーマにした波が今とても注目されている。
私として、
別にその波に興味ないなぁーというのが正直なところだ。
ここでいう経済とは、
貨幣経済のことだ。
お金で何かを交換していくという経済だ。

私的には、
お金で交換できるのは便利だけど、
そうじゃない交換経済の方が、
感動が大きいから好きだ。

それは、与えられて初めて気がつく何かかもしれない。
相手に与えているつもりなく行われている経済。
最高に居心地が良い。

そんな経済が成り立つと、
貨幣経済が成り立たなくなる。これは困ると思われがちだ。

でもどうだろうか。
貨幣経済は人間が営む上での一つの仮説みたいなものだ。
営むやり方は色々ある。

おそらく将来を考えるから貨幣経済が成り立つ。
今この時点で死ぬのであれば貨幣要らない。

今をどう楽しむかに全神経を使うだろう。

今隣にいる人が怒った顔のまま、死ぬわけにいかない。最後目を閉じた時に、隣の人がニコニコしていてほしい。
であれば、
隣の人の為に何か良いことを全力でするだろう。
笑わせてもいいし、何か一緒に遊んでも良い。

世の中はお金を使って楽しむことが、すごいことと喧伝されている。
当たり前だけど、
そういう思考で人間があればあるほど、
貨幣経済は回る。

これは価値観の刷り込みであることの可能性も大いに配慮したほうがいい。

お金がかからないでも楽しいことはたくさんあるわけだ。

自重トレーニング、ストレッチ、ハイキング、スキンシップ、タッチイズラブ、掃除、洗濯などの家事などなど

楽しめる行動はたくさんある。

貨幣経済では、
行動の結果をまず見せる。
キラキラした何かだ。
そして、
それがいかにすごい!ことかを説明する。
抽象的に感情的。

結果ばかりを貨幣経済下の人々は浴びせかけられる。ちなみに国家主導の計画経済も近いやり方で群衆を操作している。

マーケティングとかがまさにいかに貨幣経済の中に人を取り込むかを勉強できるツールだ。

結果に魅了される。
お金をはらいその結果に満足する。
次の結果を見せられるお金を払い、
その結果に満足する。自身が無制限に貨幣を使える環境にいればそれでいい。

がしかし、
そういうわけでもない。

お金を掛けずにその結果を得るためには、時間が掛かる。がしかし、そのプロセス自体は、行動が伴う、身体運動や、意思決定が伴う、自分の身体を活用した運動がおこなわれる。

実はこの運動こそが、楽しいことだったりする。

運動しててネガティブになる事ってほとんどない。集中して入り込んでいればそのタイミングにおいてはネガティブな思考が身体を襲うことはない。

運動すると何故か身体は成長して、可動域が広がる。
お金も可動域を広げる。
そういった意味では同じだ。
ペースを上げる意味ではお金を使うことは大いにありだ。

わかってお金を使うことが大切だ。
何故ペースを上げなければならないか、わかってあげていく必要がある。

行動原理がわかりきった外因の場合は要注意だ。
あー、他人から言われて行動してるなぁ。


内発的によくもわからなくこれ好きだからやってるなぁということであれば、
そこまで危険はない。

なんと考えはまとまらないものか。
エントロピー増大中である。

でもこうやって頭の中にあることを一旦出していくことは面白いことだ。

さ、お昼ご飯食べよう。

飯を食うのが好き。食べてる時はそれに集中でいる。至福だ。

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