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『ぼくらのシエラ・マエストラ 若松孝二と闘った映画のゲリラ戦記』冒頭

「君がキャメラマンなのか。なんだ、おもったより若いなぁ」
グラデーションのティアドロップサングラス、すりきれた野球帽。たくわえた口ひげ。みるからに堅気ではないその風貌と、それに似合わないのんびりした口調。若松孝二監督からかけられた初めての声だった。そのとき僕は31歳だった。
 2002年11月15日。東京・下北沢。駅近くの今は亡き小さな映画館「シネマ下北沢」のロビー。「日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。」という長い題名の自主制作ドキュメンタリー映画の上映中で、僕はその映画のキャメラマンだった。若松孝二は僕たちの映画のゲストとして、映画館に来ていたのだ。当時、今のようにドキュメンタリー映画が各地で多く上映できる環境はまだなく、配給や宣伝も映画スタッフが自分たちでやるしかない状況の中、言い方は悪いけれど「客寄せパンダ」として上映後に著名なゲストを呼んでトークショーを行うことが、月並みだが最も集客効果の見込める作戦だった。監督の大浦さんと二人で頭をひねり、ゲストとして来場してくれそうで、なおかつ映画館に客を呼べそうな人物を何人かリストアップした。そこで筆頭に上った有名人が「映画監督・若松孝二」だったのだ。
 若松孝二。僕にとって、その名前は眩しすぎるものだった。日大芸術学部で映画を学んでいた学生時代、バブルのただなか。僕は自分の内に淀む鬱屈した感情を代弁してくれる存在を探していた。同時代の表現が軽さに向かってひた走っているようにしか感じられず、自分の暗澹たる青春を代弁してくれる数少ない表現のひとつが若松孝二の映画だった。そして、大方の見知らぬゲスト候補達に矢継ぎ早に送った映画のサンプルDVDを見て、真っ先に出席快諾の返事をくれたのも若松孝二だった。トークショー当日、僕と大浦さんが劇場に着くと、若松孝二は既に到着し、ロビーのソファーにどっかり腰を下ろしていた。慌てて自己紹介をした僕に対して言ったのが冒頭の言葉だった。
 上映後。大浦さんとのトークショーの中で、若松孝二は上映を終えたばかりの「日本心中」の話題もそこそこに、次回作の構想を熱く語り始めた。2000年に岡山で実際に起こった殺人事件の映画化の話。母親をバットで殴り殺し、自転車で逃避行を続けた17歳の少年のこと。その少年を主人公に、少年が北に向かって旅する中で、風景と対話して行くような映画を撮りたいのだと語った。そして、その映画のキャメラマンは今日ここで上映している「日本心中~」のキャメラマンにやってもらうことになっている、と唐突に話し出したのだ。もちろん僕はそんなこと一言も聞いていなかった。というか、誰にもそんな構想を話していなかったはずだ。それなのに、もう決っていることとして観客の前で宣言してしまっていた。いわゆる「若松流」というべき流儀に初めてガツンとやられた瞬間だった。
 僕にとって、その瞬間まで映画監督若松孝二は、いわば天上の人だった。映画界に知人などほとんどいなかったし、世間(といっても映画好きの人々という意味だが)に名の通った有名監督に、突然名指しされたのだ。その瞬間から、僕にとって若松孝二はアイドルから口うるさい仕事のパートナーとなった。
 高校に入学した頃から映画好きだった僕は、受験間近の成績の急降下による国立大学への入試を失敗したのをいいことに、密かに憧れていた日本大学芸術学部映画学科に入学することに成功した。和歌山の田舎から出て来た真面目な18歳は、やがてアンダーグラウンドの映画にひかれていった。そのなかで、自分の中のいら立ちや鬱屈を最も代弁してくれたのが若松孝二の映画だった。主に60年代から70年代初頭に撮られた若松孝二の映画たちは、同時期あびるように観た幾多のアートフィルムやインディペンデント映画のように知的でもなく高尚でもなく洗練されてもいなかったけど、僕の臓腑を問答無用で直撃した。今でも僕にとっては『十三人連続暴行魔』が人生で唯一、映画館で号泣した映画だし(多摩川辺でデッサンする美学生の描きかけのキャンパスを「これのどこが綺麗なんだよ~」と叫びぶち壊す主人公の叫びは、今思い出すだけで涙が出そうになる)、真にラディカルであるとはどういう事かを『新宿マッド』で学んだ。
 また、リアルタイムで見た『我に撃つ用意あり』も忘れがたい映画だった。僕の大学の実習作品も、自分を投影した冴えない予備校生が、ふとしたことから拳銃を手に入れ、無差別殺人を起こすという、あまりにも「そのまんま」の映画をせっせとつくっていたのだった。
 しかし時は流れ、僕も思うところあって進路を変更し、ドキュメンタリーの撮影を生業とするキャメラマンになっていた。映画を観るのは相変わらず好きだったけど、劇映画などに一生関わることはないと思っていた。映画用フイルムカメラではなくテレビ用ビデオカメラが仕事道具で、海外取材に行くことも多く、撮影現場でブチ当たるドキュメンタリーの壁と日々格闘していた僕が、そんな形で若松孝二と出会い直すとは、まさに晴天の霹靂だった。
 「日本心中」のトークショーのあと、僕と大浦さんは、当然のように飲みに誘われ、若松孝二の行きつけの店、新宿二丁目の「ブラ」に連れて行かれることになった。「ぼかぁうしろの席でいいよ」と、当時僕が乗っていたバキバキに改造した走り屋仕様車の狭い後部座席にちょこんと潜り込んで、ブラという店に走った。ぼくは下戸で、酒を一滴も飲めない。ウーロン茶で一晩中付き合った。若松孝二はこちらに特に語りかけることもなく、ずっと飲んでいた。

 スクリーンの壇上から突然キャメラマン指名を受けたその日からしばらく、僕はすっかり舞い上がり、また、不安に苛まれていた。なんせ若松孝二は元やくざだ。あちこちから聞く噂話では、いや、作品そのものが雄弁に物語っているように、ものすごく怖い人ではないのか。僕のような劇映画の素人が、突然現場の撮影を任されたところでうまくやれるのだろうか・・・DVDで過去の若松作品を何作品も観た。当時の最新作「飛ぶは天国、もぐるが地獄」も観て、その不出来に逆にほっとしたりもした。しかもその最新作は、ビデオで撮られていた。それが僕に何かしらの印象を与えていた。

 あの晩の出来事は夢だったのか・・・その年の暮れ、あれ以降いっこうに連絡のない若松孝二に、思いきって電話をしてみた。次の年の早々から海外でのドキュメンタリー撮影が入りそうだったのでスケジュールの確認もあったし、それよりも、あの話が本当に本当のことなのか、確認せずにはいられらなかったのだ。

 「はい」無愛想に電話に出た若松孝二に、緊張しながら名前を告げた。「ああ、どうも」どうやら僕のことは覚えていてくれたらしかった。僕は思い切って正直に話した。自分はビデオの撮影で育って来たこと。劇映画の撮影はおろか、助手についたことさえなく、どういう現場なのかほとんど知らないこと。ドキュメンタリーなら多少の経験があるが、劇映画は学生時代以来遠ざかっていて、撮り方もよく分らないこと。若松孝二は話半分に聞いているようだった。「いいから、いいから、それより悪いんだけど、金がなくってこの冬の撮影は出来ねえんだよ。金が出来れば必ず連絡するから」と面倒くさそうに言い、電話は切れた。僕は失望したが、半ばそうなるだろうという予感はあった。上手い話など早々転がっているものではない。そんなに突然、こちらから求めることなく憧れだった映画監督から撮影に誘われるなど、考えてみればあるはずもない話だった。映画というのは多くの企画が実現することなく消えて行くものだ。そんな話もまた、よく耳にしていた。
 そんなこともあり、この話は消えたと思っていた。僕にとって、若松孝二と一緒に酒を飲む機会を与えられただけで、一夜の素晴らしい思い出として残るはずだった。しかしその時すでに、僕は若松組という映画のウルトラ過激派メンバーに数えられていたのだった。

 2003年10月。テレビドキュメンタリーの撮影で3週間過ごしたネパールから帰ってくると、家の留守番電話に若松孝二の声が入っていた。「若松です。例の映画やることになったんでよろしく。連絡下さい」もう10日ほど前の留守電だった。ぼくは慌てて若松孝二の連絡先を探した。1年前の懐かしい思い出となっていた若松孝二が、突如生々しく目の前に現れたのだ。連絡先にと受け取った携帯電話の番号を書いた紙切れは、すでにどこかにやってしまっていた。慌てて探したが見つからず、なんとか若松プロダクションの電話番号を探し当て、深呼吸の後、受話器を取った。「はい」なんとも愛想のないあのダミ声がすぐに電話口から聞こえて来た。「あの、カメラマンの辻と申しますが・・・」「誰?」ドスの利いた誰何に負けじと呼吸を整え、もういちど名乗った。「撮影の辻と申しますが、若松監督はいらっしゃいますか?」「若松ですが、なにか御用ですか?」口調は丁寧だが、まだぼくのことを認識していないようだった。ぼくはもういちど力をこめて口を開いた「あの、新作映画の撮影の件で電話をいただいていたんですが・・・」「ああ、」ようやく分ったようだった。そして「ウチの若いもんに後で連絡させるから、そいつといろいろ話してください。」といって、すぐに電話を切られた。僕は呆然としていた。これはどういうことなのか。いいようにあしらわれたのか。いや、それならわざわざ家の電話に若松孝二自ら留守電を残すはずがない・・・悶々としながら、僕はその後の数日間をすごした。
 数日後、若松プロのスタッフを名乗る男から約束通り連絡があった。指定通り新宿駅西口にある「西武」という喫茶店に赴くと、そこに困った顔をした男性が待っていた。まだ30代とおぼしかったが、撮影現場のベテランだという雰囲気をぷんぷんさせていた。まさにイメージするとおりの「映画屋」という風情に僕は緊張した。彼は制作の大日方(おびなた)だと名乗った。開口一番「僕は辻さんが撮影するのに反対したんです。辻さんも突然映画の撮影頼まれたって困るでしょう」と、若松孝二のわがままにふりまわされてむしろ気の毒だというニュアンスで言った。「僕は別のキャメラマンを推薦したんですが、あのひと(若松孝二)は一度言い出すと他人の話を絶対に聞かないんで・・・」そのニュアンスを俄かには計りかねたが、どうやらやはり、僕がキャメラマンとして突然参加するのは劇映画の現場においてイレギュラーなことなのだけは確かなようだった。「はぁ・・・」気まずい沈黙が流れたが、大日方さんはまた憐れみの眼で僕を見つめ、「迷惑かけちゃうかもしれませんが、まあ、よろしくお願いします。」と、頭を下げた。どうやら歓迎されていないという意味ではなく、大変なことに巻き込んでしまい申し訳ない、というニュアンスだったようだ。この映画への参加は、こちらからお願いすることではなく、むしろ拒否することの出来ない強制のニュアンスがあったのかもしれない。
 晴れて正式に若松孝二の映画に参加出来るという喜びはあったが、正直湧き上がってくる不安を抑えることもまた、出来なかった。

 若松組にキャメラマンとして参加するにあたって、実はもうひとつ問題があった。映画の撮影時期とされていたまさにその冬、1月から2月にかけて、テレビドキュメンタリーの先約が入っていたのだ。20代のころから幾度となく一緒に仕事をさせてもらい、僕に「ドキュメンタリーとは何か」を身をもって教えてくれたディレクター・眞部さんの仕事だった。
 眞部さんは、僕がキャメラマンとして一本立ちして間もない頃『ザ・ノンフィクション』というテレビドキュメンタリーの撮影に抜擢してくれた人だ。テレビ業界の状況や、契約している制作会社や、何より技術が意識に追いつかない自分自身に対してなど、自分を取り巻くあらゆることに不満ばかり募らせていた26歳の不機嫌な僕を「上手くなくても写ってさえいればいいから。素直に撮ってくれればいいんだよ。オレ編集得意だから」というバカにしたような、でもプレッシャーを軽減してくれる言葉とともに誘ってくれたのが眞部さんだった。当時『ザ・ノンフィクション』は毎週10%を超える驚異的な高視聴率を誇り、社会の周縁に生きる人々を徹底的に追いかける取材を行っていた。眞部さんはその番組のエースディレクターだった。僕は撮影を通して、自分と全く違う世界に生きる人々と初めて真っ正面から向きあうことになった。最初に撮影したのは「占有屋」。マンション等を不法占拠して法外な立退料を要求する、典型的なアウトローだった。僕は自己顕示欲の強いこの男になぜか気に入られ、大手デベロッパーが裏金を渡す様子を隠し撮りしたり、偽右翼の名刺をちらつかせて不動産屋を恫喝する現場にさりげなく居合わせたり、暴力団の若い衆に扮して盗品売買所に潜入したり、今なら許されないであろう手法の数々で撮影を進めて行った。(おかげで当時、秋葉原にあった盗撮・盗聴機器を販売している店にはものすごく詳しくなった)いつもBMWの大型バイクで颯爽と現場に現れる眞部さんの、常識の枠にまったくとらわれず、しかし追究の手を緩めないその姿勢は僕の意識に大きな変化をもたらした。撮影のやり方にもほとんど口を出さず、僕のカメラに全てがゆだねられる場も多くあった。そこで僕は、撮影相手との関係がすなわちカメラワークそのものなのだと、自分の肉体で思い知ったのだった。撮影中、「素直に撮ってくれ」という眞部さんの言葉の意味を、何度も考え直していた。
 その後も、SM嬢や緊縛師たちの生活に密着したり、長期に渡って暴走族の取材をしたり、極貧生活者の家庭をつぶさに観察したり、カメラを持っていなければ到底潜り込めないような現場を数多く体験した。ヨーロッパのアート映画からストーリー性を排除した実験映像にどっぷり浸かった末、前衛的なドキュメンタリー映像の制作に意欲を燃やした文系少年だった僕からは、最も遠い世界。そこでは「自分がカメラを抱えてその場にいる意味」について、常に考えざるを得なかった。それが僕のキャメラマンとしての今のありようを形成していったのかもしれない。入念な準備をリサーチをして現場に乗り込むディレクターとは違い、キャメラマンはその世界にいわば強制されて放り込まれる。選びようのない世界に放り込まれて、その場所で何を見、何をカメラに切りとっていくのか、その選択が問われるのだ。それはいわば、人生に似ていると思った。自分が選んだわけではない世界に放り込まれて、キャメラマンとしてその世界を生きること。その生き様がそのものがカメラワークとなり、表現になって映像に定着する。自分の感性、感情がイコールで表現に結びつく。それが、ドキュメンタリーのキャメラマンという仕事であることが、だんだんと分りかけていた。2003年は僕にとってそんな時期だった。
 その眞部さんと、新しい番組をやることになっていた。題材はホームレス。心動く企画だったが、しかしその時の僕は、若松孝二を選んだ。眞部さんにも正直に話した。若松孝二から話が来たこと。昔からの憧れの映画監督だったこと。これからの自分のキャメラマン人生として、ここで新しいチャレンジをしていきたいということ。口のうまくない僕は、それらを一生懸命話した。眞部さんは残念そうだったが、「それは君の人生だから、自分がどうこういうことは出来ない。ただ、すぐに新しいキャメラマンを探さないといけないなぁ」とため息をついた。「すみません」乗りかけた船を降りる僕は、申し訳なさでいっぱいになった。眞部さんとはもう一緒にやることはないのかなぁ、と少し寂しく思ったりした。しかし、これは自分自身の決断だった。右も左も分からない劇映画の世界を、よりによって若松孝二という入り口から入ることになったのだ。
 この頃、映画界にもビデオ撮影の波が押し寄せていた。特に「突入せよ!あさま山荘事件」という映画での、全編HDカメラによる撮影は衝撃的だった。僕は「ブエナビスタソシアルクラブ」(1999年)を見てデジタルベータカムの表現力に感心し、例のドキュメンタリー映画映画「日本心中」の中でビデオカメラで表現出来る限界を試そうと思ったし、若松孝二も「飛ぶは天国もぐるが地獄」で、実験的なビデオ撮影を試していた。そういう大きな流れの中で、ビデオのキャメラマンである僕に、映画の撮影を任せてみる気になったのだろう。 

 数日後呼び出しがかかり、若松プロへ向かった。僕にとっての「伝説のアジト」に、ついに足を踏み入れることになったのだ。教えられた住所を辿って、たどり着いた新宿御苑の脇。そこは若松孝二の自宅兼事務所になっていた。ピンポンとベルを鳴らすと、「どうぞ、勝手に入って2階に上がって来て下さい」と、先日会った大日方さんの声ですぐに返事がかえってきた。
 恐る恐るドアを開け、階段を昇ると小さな会議室のようなスペースがあった。4、5人のスタッフがテーブルを囲み、真ん中に若松孝二が入り口を見据えるようにどっかと座っていた。僕をみるなり小さく手を挙げ、「おお、いっぱいあるから食べてってよ」と朗らかに声をかけられた。思っていたよりずっと和やかな雰囲気だった。若松孝二を除けば強面のおっさんなどひとりもおらず、スマートな若いスタッフばかりだった。大日方さんが最年長のようだった。「これが若松組のメンツなのか・・・」屈強な強面の軍団を想像して勝手にビビっていた僕は、ほっとすると同時にやや拍子抜けした。
 みんなで鍋をつついていた。大きいステンレスの鍋で、キャンプに持って行くような鍋だった。それがオレンジ色に染まっていた。食べるととめちゃくちゃにうまかった。カボチャがじっくり煮込まれた、若松孝二お手製のほうとう鍋だった。
 にこやかに若松組に迎え入れられ、いきなりの歓待に微妙な違和感を感じながらも悪い気がしなかった。何より鍋がうまかった。打合せのつもりで来たのに、いつのまにか「飯を食いに来た」という意識に変り、スタッフとの初対面のあいさつもそこそこに夢中で食い出した僕だったが、そのときふと、僕の手元をじっと見ている視線に気づいた。若松孝二の視線だった。「ん、手に何か付いているのかな?」僕が思ったその瞬間、唐突に聞いて来た。(後に知ることになるのだが、前振りも何もなく、唐突に話を振るのが若松孝二の作法だった)「走る自転車を追うのはやっぱり軽トラか?」僕は食いながら突然の質問に面食らったが、そうだ、これは映画のスタッフ顔合わせのために催された会合なのだと今更ながら思い出し、くるくると考えた。そういえば、去年会った時以来、どんな映画を撮るのか、僕はまったく聞いていなかったことにこの時初めて気づいた。「たしか、母を殺した少年が自転車で逃げる話をやりたいといってたよな。ということは、その逃避行をどう撮ればいいかという話か」いきなり頭の切り替えを迫られ、「そうですね、軽トラの荷台に乗って手持ちで撮ればいいと思います」と、とっさに答えた。が、やはり相手は一枚上だった。「ほら、最近小さいクレーンみたいのがあるだろう、あれを軽トラに乗っけたらどうかな?」若松孝二の頭の中では、すでに撮り方のシミュレーションがあった。
 僕はのっけから、2歩も3歩も出遅れていたのだ。キャメラマンとしては頭をがつんとやられたような衝撃だった。しかし、映画の内容も一年前の秋のあの夜の話以降、全く聞いていない。もちろん、確認していなかった自分の大ポカだったが、舞い上がっていた僕は、何を撮るのかも把握しないまま、この場にのこのこと出てきてバカみたいに鍋をつついていたのだった。そんな僕の狼狽を知ってか知らずか、若松孝二は更に話を続けた。「荷台にクレーンを直接のっけたら、振動がすごいんじゃないかと思うんだ。なんかいい方法はないかなぁ」はなから僕の安易な手持ち撮影案など眼中になく、車とクレーン(正確にいえば、ミニジブという番組制作などでよく使われるワンマンオペレートの小型クレーン)でのスムーズな移動をイメージしているのは明らかだった。いきなり、僕は宿題を出されたのだった。
 さらにその後、若松孝二は初対面の人間を、飯の食べ方で判断するということを知った。僕の手元を凝視していたのは、ぼくの食べ方を観察していたのだった。もともと行儀がわるく、しかも左ぎっちょの僕の食べ方は、いやしくてさも見ていられないものだったろう。それでワザと核心に触れる質問をぶつけてきたのかもしれない。いきなりの大減点の予感に、また自分の軽薄さに、僕はすっかり落ち込んでしまった。
 そうはいっても、ここから挽回しなければ。さっそく機材選びを始めなければならなかった。小型クレーンについて調べたところ、当時出たばかりの、ウルトラクレーンと言うアーム部分が菱形に折れ曲がる新製品があった。従来のミニジブは一直線のシーソー型で、一本のアームが上下動すると先端部分は直線ではなく弓のように弧を描くため、被写体との距離が変動してしまう。しかしこのウルトラクレーンを使えば、アームの水平時、一番被写体に接近してしまう時でも、アームを菱形に折り畳むことによって被写体との距離を調整することが出来る。これはもってこいの機材だった。早速レンタル機材屋に行って、このウルトラクレーンを試してみた。思った通り抜群に使いやすかったが、軽トラに乗せたところ振動が凄い。やはり若松孝二の懸念した通りだった。これを早急に解決することが宿題だ。時間はあまりない。
 そこで、クレーンの支柱をより大きな板に固定する事をまず考えた。120センチ四方の板を用意し、そこにボルトで支柱をネジ止めした。これでバランスの悪さは解消される。問題はその板と軽トラの荷台をどう固定し、どんな緩衝材を入れるかだ。ウレタンやゴム、うすいマットレスなど色々な素材を試した結果、最もオーソドックスな材料にたどりついた。布団を2枚と毛布を1枚敷き、それをラッシングベルトで固定する。これが一番だった。人工的でない、呼吸のようなゆっくりとした波打ちが心地よいリズム感の移動ショットを撮れそうなセッティングにようやくなった。
 初回の顔合わせで失点した分を上回る結果を出して、若松孝二を納得させてやろうと何日も機材屋に通い、自腹で何万円も使ってテストした結果だった。ドキュメンタリーで育ってきた僕にとって、これだけ気合いの入った移動撮影の準備は初めてだった。

 問題はその予算だった。従来のミニジブにくらべ、ウルトラクレーンは倍以上のレンタル価格だ。大日方さんに相談したところ、「カネの話は監督と直接話して下さい。特機予算が倍以上になるとなれば無理かもしれませんので、次の策も考えておいて下さいね」と言われてしまった。
 若松孝二がケチだというのは、もちろん僕も知っていた、しかも学生時代から。それは映画好きには広く知られている若松孝二の代名詞でさえあったから。しかしこちらも必死だった。引き下がれない。思いきって話した。若松孝二の反応は意外だった。「辻さんじゃカネの話は無理だろうから、おれが機材屋と交渉するよ」とあっさり答え、その足で立ち上がった。「よし、今から行こう」僕は面食らったが、言われるままに車に乗り込み、本当にそのままレンタル機材屋に乗り込んだのだった。
 機材屋に車を横付けし、のしのしとオフィスに入っていった若松孝二は、怪訝そうにこちらを見る機材屋の若いスタッフに「社長はいるか。若松が来たといってくれ」と声をかけた。どうやら社長とは旧知の仲だったらしい。奥から出てきた社長に、唐突に言い放った。「今不況で金払わないとこ多いだろう、ウチは前金だからとりっぱぐれなくて安心だろ。今回はこれでな」と、無造作にポケットから数枚の万札をとりだした。えっ、こんどは僕が驚いた。社長も驚いていた。が、あくまでもそれで押し通すつもりらしかった。押し問答の末、なんと機材屋の社長は苦笑しながらそのカネを受取ったのだった。僕はあっけにとられてその光景をただ眺めていた。「これが若松孝二・・・」そのリアルな迫力に初めて触れた瞬間でもあった。
 ともかく、これで移動ショットの算段がついた。ほっとしたが、それはまだ序章だった。これから撮影のルック(映像の質)を追究していかなければならない。ビデオで撮影する事は決っていたが、レンズをどうするか、フィルターは何が必要か、初めての劇映画で僕の気負いもこれまでになく強くなっていた。

 また新たな驚きが僕を襲った。クランクインの2週間前、大日方(おびなた)さんから電話がかかってきた。「監督が怒っています。カメラのことばっかり言いやがって、ちょっとは内容のこと考えてくれないと困るって言ってます」「えっ?」意外なショックだった。確かに他の仕事を全てキャンセルして、この映画の準備、テスト撮影を繰り返していたが、それはキャメラマンとして当然のことだと思っていたからだ。こっちだって別に遊んでいるわけじゃない、真剣に準備をしているんだ、と初めて若松孝二の発言に反発する気持が湧いた。真意を測るべく早速若松プロに赴いた。
 事務所にいた若松孝二は不機嫌だった。が、それはどうやら僕に対してではないようだった。上がって来たシナリオにぶつぶつ文句を言っていた。下らないセリフ書きやがって、なんだこのト書きは・・・脚本家が聞けば激怒するような言葉をポンポン吐いていた。それがいつもの作法だと知るのはもう少し後のことになる。そしてまた、いつものごとく唐突に聞いて来た。「辻さんよ、何でこの少年は自転車を投げ捨てるんだと思う?」
 そこでようやく、僕に対するいら立ちの理由が分った気がした。若松孝二にとって、これは4年ぶりの映画だった。迷っていた。そしてその迷いを、スタッフで共有したいのだと分った。僕は自分の仕事を盤石に固めようと頑張っていたが、固めるな、もっと迷ってくれと言われたのだと、分った。

 「監督はこの前肺がんの手術をしたんですよ。」ラインプロデューサーの大日方(おびなた)さんと初めて会った時、すでにそれを聞いていた。2002年の春、僕が出会う半年ほど前に、若松孝二は肺癌の摘出手術をしていた。死を覚悟して、弟子の大日方さんたちに手術室に向かう自分の姿をビデオカメラで記録までさせていたという。長時間に及んだ摘出手術は成功し、若松孝二は片肺を失いながらも生還した。
 911直後の澱んだ日常に帰って来た若松孝二は、映画から遠ざかっていた数年間を取り戻すべく『17歳の風景』の実現に向け走り出していた。その過程のなかで、青二才のキャメラマンだった僕は偶然「発見」されたのだった。
 そのことを頭では理解しながらも、当時の僕は自分のことで精一杯で、若松孝二の決意や悩み、心の揺れなど全く想像することが出来ていなかった。死の淵から帰還して最初の作品となる映画『17歳の風景 少年は何を見たのか』に賭ける意気込みを、当時の僕は十分に感じとれていなかったことを、今、鈍い痛みとともに思い返している。

 そういえばロケハンというものに一度も行かなかった。(助監督だった白石さんと大日方さんとは、事前にルートを辿っていたようだった)「今度の映画は風景の映像がいちばん重要なんだ」ということばかり繰り返し聞かされていた僕はしかし、撮影本番のその時まで、撮影場所を全く見ていなかったのだ。
 「辻さんはロケハンなんか行かなくていいから」突き放したようなぶっきらぼうな言葉は、若松孝二からの強烈なメッセージだった。僕の「初めて見る光景に対するキャメラマンとしての感受性」に賭けているのだと、言葉に込められた自分の役割を、嫌というほど感じていた。僕がこの映画のキャメラマンに指名された訳も、そこにあるのだと分かっていた。だからこの仕事は、僕にとって間違いなく人生の分岐点になると、直感していた。

 クランクインは2004年2月6日、とびっきり寒くて美しい夜明けだった。13人のスタッフ・キャストが4台の車で富士山麓に向かう。僕は若松孝二自ら運転する先頭車輛の助手席に座っていた。
 4年ぶりの映画撮影に朝から上機嫌の若松孝二は、運転しながら珍しく饒舌だった。自分の富士山に対する思いや、主人公の少年が富士山に向かう理由などを滔々と語り続ける。その明確なビジョンを語る饒舌さに僕は驚いていた。準備期間を通じて、謎かけのような断片的な言葉を折々に投げかけられるばかりで映画の核心は一度も聞かされることなく、自分で想像するしかなかった。『17歳の風景 少年は何を見たのか』には薄いシナリオは用意されていたが、「シナリオなんか読まなくっていい」と言われていた僕は律儀にそれを守り、シナリオに目を通していなかった。だからクランクイン当日の車内で、初めてこの映画についての想いを直接聞いたのだった。それは若松孝二の作戦だったに違いない。僕は完全に術中にはめられていたのだろう。事前の準備を許さない、それが僕に対する縛りであり、挑発であり、期待だった。ドキュメンタリーキャメラマンとしての瞬発力を試されていたのだ。僕はそこに意識を集中しなければならないことを理解した。それでよかったのだと、今思い返しても思う。

 富士山・自衛隊御殿場火力演習場。ためらうことなくハンドルを切り、若松孝二は道路から演習場内に車を乗り入れた。砂煙を上げながら火力演習で自衛隊の戦車や装甲車の通る未舗装路に車を進め、富士山が正面に見えるあたりで停車する。そしてさっそうと、キャタピラー跡の残る火山砂の上に降り立った。最初の撮影ポイントのようだった。「じゃあこのへんから撮ろうか」あくまでのんびりした口調だった。

 柄本祐くん演じる主人公の少年が富士山と対峙する。それだけのシーン。セリフも何もない。「初めての劇映画だからと特別に考えるな」自分自身に何度も言い聞かせ、普段の撮影と同じように三脚にキャメラをセッティングした。違ったのがフィルターを3枚同時に回転させられる特製のマットボックスをレンズ前に装着し、フィルターワークに若干の時間をかけたこと。ハーフNDフィルター2枚とPLフィルター。それぞれの角度を微妙に調整してスタンバイまで約3分。ドキュメンタリー同様、時間勝負のノリで準備を完了した。と、その瞬間に若松孝二が「じゃあ行こうか。祐よ、自転車に乗ってカメラのギリギリを通り抜けよう」と軽く言う。いきなりのジャブに、僕はギクッとした。ドキュメンタリー撮影の鉄則「撮影とは相手を見ることではない、相手に見られていることなのだ」という言葉が頭をよぎる。こちらの準備状況は鋭い観察眼で見抜かれているのだ。それに戦慄する間もなく、リハーサルも説明もなく、若松孝二は唐突に叫んだ。「よーい、スタート」
 気負いも大仰な儀式もないあっさりしたクランクインだった。カメラの脇を祐の乗った自転車が走り抜けたとたんに「はい、OK」これがファーストカットのすべてだった。
 あっけにとられた。ドキュメンタリーの実景撮影だって最初のカットはもう少し慎重に行くことが多いのに。劇映画とは、じっくり時間をかけて準備をし、各パートがいやになるほど確認作業を繰り返し、俳優は飽きるほどテストを繰り返し、監督は椅子にふんぞりかえって鷹揚にかまえている。僕がなんとなく想像していた(実際見たことのある松竹や東映の映画現場ではまさにそのとおりだった)そんなありきたりのイメージのひとかけらも、この現場にはなかった。
 その後5カットほど撮って撮影終了。かかった時間は15分ほど。撮り終えた瞬間、富士山に雲がかかった。「よし、帰ろう!」若松孝二は上機嫌で言う。なんの余韻もなく、そそくさと機材を撤収する。しかし、なぜか気分がよかった。「すがすがしい撮影だな」それが若松組の現場での、最初の印象だった。スピードに由来するのか、集中力に由来するのか、ともかく「ペースに乗せられてしまった快感」のようなものを腹の底で感じた。天気までがテキパキ変化して、それもおかしい気持ちになった。
 撤収中、演習中の戦車隊列と遭遇した。若松孝二が「ご苦労さん!」と戦車の上の自衛隊員に敬礼する。つられて向こうも敬礼を返してきた。完全なるゲリラ撮影(無許可の撮影)だったのに。

 それは撮影2日目の朝、しょっぱなの撮影だった。撮影を始めた瞬間、警備員が文字通り飛んで来た。「撮影、やめなさい!ずっと監視カメラで視てたんだ!」新宿西口、都庁に繋がる地下道。朝のラッシュで混雑する人波に逆らい、自転車を押して歩く少年。近くのホームレスから拝借したビール箱にのり、高く伸ばした三脚のてっぺんに据え付けたキャメラを廻し始めた僕に激しい口調で詰め寄って来た警備員を若松孝二は逆に怒鳴りつけていた。「これは文化庁の許可をもらった映画なんだ!おれは若松孝二だ!国会議員にも知り合いがいるぞ、監督協会の理事もやってるんだぞ!」などと訳のわからない主張を声高に繰り返している。警備員も意味不明の反撃に面食らいながらも己の仕事を遂行すべく声を荒げて撮影を阻止しにかかってくる。押し問答をしている時間約2分。キャメラの真横、唾がかかりそうな至近距離で怒鳴り声の応酬を聞きながら、僕は冷静さを保つよう自分自身に言い聞かせてキャメラを廻し続けた。望遠レンズの向こうでは、キャメラ付近で起きている騒動など知らぬ顔で、祐くんが人波に逆らい歩く自転車少年を生きている。やがて少年の姿が画面のフレームから消え、無事にカットを撮り終えた瞬間、「わかったよ、じゃあ撮影やめるよ」と、若松孝二は涼しい顔で言ってのけたのだった。

 その次の撮影は都庁前。撮影前に試行錯誤をくりかえした例の「ウルトラクレーントラック」が初めて登場した。思い入れのある新兵器だったが、そんな感慨にひたる余裕も無く猛スピードでキャメラをセットアップする。入念な撮影前の準備など、「この場所」でできるはずもなかった。なぜならキャメラを置く場所が、東京都庁の目の前の歩道の上だったからだ。つまり、トラックを歩道に乗り上げて、自転車を漕ぐ少年を前方からの移動撮影でとらえるというプランだったからだ。車道と歩道を隔てるガードレールが切れる横断歩道前、その隙間から助監督の白石さんが慣れたハンドルさばきでトラックを強引に歩道に乗り上げる。あまりの大胆さに歩行者たちも道を譲ってくれる。そして歩道のど真ん中に「ウルトラクレーントラック」はレースのスタートよろしくスタンバイした。僕と撮影助手の戸田君は急いで荷台に乗り込み、キャメラを抱え込んだ。都庁にダーゲットを定めたロケットランチャーを装着したピックアップトラックの荷台に乗り込むみたいだと思い、少し笑った。
結局若松組の最初の撮影3シーン、すべて無許可の撮影だった。何者にも気兼ねせず、堂々として、抜け目無く、素早く撮って、跡を残さず撤収する。そのやり方は、まさにゲリラ戦のようだった。まるで映画の最前線を闘う13人のゲリラ兵士のようだ、と思っていた。

 間もなく僕はそれに気づいた。
 『17歳の風景 少年は何を見たのか』の撮影が始まってまる3日間、僕は若松孝二のことをずっと「監督」ではなく「若松さん」と呼んでいた。古い言い方でいう「カツドウヤ」の世界と無縁に生きて来た僕にとって「カントク」といえば山本晋也の姿などを思い浮かべ、ギャグにしか聞こえなかったのだ。また、当時話題になっていた荻野目慶子の著書「女優の夜」の中にあった「カ、カントク・・」という言葉を連想し、思わず吹き出しそうになるほどだった。そういうわけで僕は、普段付き合いのあるドキュメンタリーディレクターに呼びかける時と同じく、何の違和感も無く「若松さん」と呼んでいたのだった。
 撮影4日目。東京での撮影が終わり、いよいよ日本海を北上する撮影の旅が始まるとき、僕はある異変に気づいた。その日から若松孝二は「若松さん」と呼んでも聞こえない様子で、まるで返事をくれなくなったのだ。気まずい空気が流れる中、ふと僕は、若松孝二が以前何気なく話していたことを思い出した。「病院で伊藤さーんと本名で呼ばれても誰のことだか分かんねえんだよ」(若松孝二の本名は伊藤孝だ)。撮影現場でも同じことが起こっているのかもしれない。撮影現場では「監督」としか呼ばれていないに違いない。だから「若松さん」では誰のことか分からないのではないか。そう思った僕は「・・・カントク」と、おそるおそる口に出してみた。するとすぐに、若松孝二は無言で僕を振り返った。
 その時なぜかぞっとした。若松孝二のサングラスの奥の目が鋭く光った気がした。そして突然、悟った。「若松さん」という僕の何気ないいいぐさは、映画の撮影現場においては若松孝二の自意識の深い所に触れていたのだと。そうか、僕たちスタッフは「若松さん」の撮影クルーではない。「映画監督・若松孝二」の隊列なのだ。そして若松孝二は隊列を指揮する「監督」としてそこにいようとしているのだ。その瞬間、若松孝二の発する強烈な意志に打たれた僕は、映画界のしきたりなどとは無縁の地平で、それをはっきり理解したのだった。「分かればいいんだ」とばかりに僕の呼びかけに応え、ゆっくりと近づいてくる監督と相対しながら、これは本当に真剣勝負なのだと身震いした。

 もう一つ面白いことがあった。監督は僕の事を最後まで「辻さん」と呼んでいた。最初は特に気にも留めていなかったが、だんだん気になって来た。多分周りも気になっていたのではないかと思う。少なくとも僕のような35歳も年下の若造に対して監督ほどのキャリアのある人間が呼びかけるような言い方ではない。少し後のことになるが、録音部のベテラン、川嶋さんが「17歳の風景」の撮影直後に単刀直入に聞いたことがあった。「監督、なんで辻君にだけ辻さんと呼ぶんですか?「おい辻!」で十分だと思うんだけどなぁ」
 監督の答えはいつものように単純明快だった。「辻さんの親分は山崎だろう。俺からみると辻さんは客分みたいなもんなんだよ」つまり、すべてがやくざのしきたりで思考していたのだ。偶然だが、僕の師匠とも呼びうるキャメラマン・山崎さんは、監督の盟友・足立正生氏と大学の同期で古くからの友人だった。その関係で、偶然にも監督は山崎さんとも古くからの知り合いだったのだ。それにしても師匠を呼び捨てにして僕に「さん付け」するのはなんだか変な感じだ。つまり、映画監督をしのぎとする若松組長率いる若松組があり、もう一方でドキュメンタリー撮影をしのぎとする親分・山崎裕の傘下にある小さい組の頭が僕ということらしい。僕にとっては若松監督は叔父貴分で、僕は監督と兄弟杯を交わしている山崎親分から直々に借り受けた大事な客分という訳だ。(後から分かったのだが、現金を目の前にちらつかせ、即金で商売相手に大幅な譲歩を引き出すのもやくざの常套手段らしい。)
 人は社会に出る時、はじめに所属した組織に人生を生きていくための規律を叩き込まれるという。僕でいえばそれがドキュメンタリーの撮影現場であったし、監督にとってはそれが渋谷のやくざ・安田組だったというわけだ。監督の人間関係における義理を欠かさない振る舞いと、人間観察の冷徹さはそれを雄弁に物語っていた。相手から近づいて来た人間には厳しく、自分から頼んだ相手は丁重に扱うという事も徹底していた。初めて若松組に参加した当初の僕と、監督に弟子入りした人達への厳しさの違いはそういうところにあったのかもしれない。

 監督の人間付き合いに関する繊細で大胆、時に恐ろしさをも感じさせられる振る舞いに精神を翻弄されながらも、撮影自体は順調に進んでいった。僕が当初危惧していたような、現場で右往左往するという感じはなく、僕が今までやってきたドキュメンタリー撮影の方法論を、驚くほど監督は尊重してくれた。だから僕は、こと撮影のやり方に関しては余計なプレッシャーを感じることはなかった。映画は「少年が自転車で走る」だけのシーンが多く、どの場所で撮るのかは、車で移動しながらその場その場で決まっていった。いいと思った場所で車を止め、機材をセッティングし、劇中衣装を着たままの佑くんが車を降りて自転車にまたがる。撮る場所を決めてから撮影スタートまで約10分。その間に軽トラ上にカメラをセット、あるいは固定ショットで少年を狙う。芝居は自転車をこぐだけ。NGは存在しない。シナリオも即興に等しく、場所は僕が初めて見るところ。アングルやカメラワークは直感以外に決めようがない。少年をどう見つめるか、風景をどうとらえるか。映画のテーマを内面化し、身体化して、瞬間的に核心を掴んでいかなければ、映像は生命を失い、ただの観光絵巻になってしまう。しかしこの緊張感は、行く末知らずのドキュメンタリーのありようと同じで、僕にとってはなじみのある感覚だった。おそらく通常の劇映画ではありえない撮影スタイルで臨んでいるのだろうことは、ほかの劇映画の現場を知らない僕でも簡単に想像出来たし、むしろこの感覚で撮影に臨むために監督は僕を召喚したのだろうと自然と納得できるものだった。
 もちろん、その方法論は僕にとってなじみのあるものでも、監督の元で働く他のスタッフには大きな負担を強いていたのも事実だった。方法論はドキュメンタリーのものであっても、この映画は純然たるフィクションだ。にもかかわらず仕込みも段取りもその場にならなければ出来ないし、急には段取れないことでも監督はどんどん制作部や助監督に要求していた。劇映画を何も知らない僕を陰でフォローするために制作部の大日方さんはさんざん戸惑っていたことを後に知ったし、助監督の白石さんが僕のミスの身代わりに怒られることもあった。
 撮影の旅が始まったばかりの頃、軽トラックでの移動撮影中にケアレスミスからスイッチを切ってしまった事があった。「やっちまった・・・」重い気持ちでリテイクを申し出ると監督はとたんに不機嫌になった。当たり前の話だ、だが次の瞬間、突然軽トラックを運転していた白石さんに当たり始めたのだ。「白石、お前の運転がまずいから辻さんが間違えてスイッチを切っちゃたんだぞ、辻さんに謝れ」とんだとばっちりにも関わらず、白石さんは真っ直ぐにトラックを降り、荷台にいた僕に「僕の運転がまずかったせいで、すみませんでした」と深々と頭を下げた。理不尽な要求をこなすことも撮影をスムーズに進行させるための助監督の技術のひとつだと分かりながらも、申し訳なさでいっぱいになってしまった。

 しかしそれは、なんと強引なやり方なのだろう。撮影の方法論には強く共鳴しながらも、同時に僕は違和感も感じ始めていた。経験上、ドキュメンタリーの作品作りにおいては撮影相手との関係性がすなわち作品そのものとさえいっていい。つまり、映像の撮影という独特の作法、そして作り手の意図や思いなど共有しない「他者」とどう切り結んでいくかをキャメラマンとしてつねに考える癖がついていた。
 だがこの撮影現場は違う。戸惑いながらも全員が情熱を共有し、それに能動的にのめりこんでいくという感じなのだ。時に怒声や罵声を上げながら熱狂の渦をつくりだす中心、それが監督とよばれるものだった。驚くほど無邪気で強引な監督ぶりに正直戸惑った。が、戸惑うと同時に、その現場に確かなリズムが生まれているのも僕は感じていた。肯定と違和感の間を揺さぶられる感覚だった。「劇映画が初めて」だのなんのと言うことに意味はなく、すべての作品はその都度初めて創られる。当たり前のことを改めて思い、「若松孝二のリズム」を手がかりに、自分自身のやり方でとらえた「17歳の風景」をこの映画にぶつけていくことが、僕に任せられた仕事なのだと分かり始めた。思い返せばそれもまた、監督の術中にまんまとはまっていたということなのだろう。

 当時、白石さんが言っていた言葉を思い出す。「世の中には2種類の映画の作り方がある。若松孝二の映画の作り方と、それ以外の映画の作り方だ。」
 他の現場は知らなかった。しかし、自分の今いる場所は唯一無二の場所なのだということは明白だった。僕が立っていたのは、「映画監督・若松孝二」という渦のど真ん中だった。
 それは大げさに言えば、善悪を超えた逃れられない宿命のようなものだった。  (つづく)


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