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『僕らのシエラ・マエストラ 若松孝二と闘った映画のゲリラ戦記』 その2

 若松孝二監督、そして11人のスタッフとともに行軍する『17歳の風景』撮影の旅はもう1週間を超えていた。ただひたすらに日本海を北上する日々。監督と僕、それに助手の戸田義久君が荷台に乗り、助監督の白石和彌さんが運転する軽トラックが少年・柄本佑の自転車と並走する。どこまでも続く道路。いつ終わるとも知れないショット。ファインダーの中には初めて見る風景が流れ続ける。軽トラの荷台に据え付けられたミニクレーンの上のカメラを抱きかかえ、僕はゆっくりと少年に近づいていく。曇天、気温は氷点下。強い北風つまり向かい風。自転車を漕ぐことにのみ集中した佑君の顔は、演技ではないナマの存在感をむき出しにしてレンズに迫ってくる。ふと、カメラが微妙に揺れているのを感じた。監督がモニターを食い入るように見ながら、クレーンの支柱を強く握りしめているのだ。そして「オーライ!」監督の声がカットの合図。佑君の漕ぐ自転車が減速し、フレームアウトする。しかしファインダーに流れる風景は、まだ何かを語り続ける。僕は軽トラが停車するまでカメラを廻し続ける。

 順調か、難航しているか?そんな問いすら意味をなさないような撮影。ただひたすら移動しては撮影していく。現場で起こること、行く場所、その日の天気、雪、雨、快晴、強風、寒気。走り続ける少年と同じように、眼前に次々と現れる風景をそのまま受け入れ、映画のなかに飲み込んでいく。僕はこの風を受け、途切れることなく続くこのアスファルトにカメラを抱えて立ち向かう。こんな風に風景と向きあったことはなかった。僕はただ、厳しい日本海の風景の中を延々と走り続ける少年の無表情に、やがて浮かび上がる言葉にならない叫びをとらえたいと思っていた。そしてこの緊張感は、確かに画面に刻み込まれていくような気がしてした。
 
2週間にわたる日本海北上の旅の末、我らがゲリラ撮影部隊はついに本州最北端の地、青森県の竜飛岬に到着した。もはや感慨もなかった。この島国の北の端までいくのだ、という意思は、僕たちに、少なくとも僕にとってはもう撮影を超えた、祈りのような何ものかに感じられていた。
ふと、前にもこんな感覚に囚われたことがある、と思い出した。それは1998年、暴走族の家族についてのドキュメンタリー番組を撮影していたときのこと。極度の貧困と周囲の無理解に追い詰められた彼ら一家は撮影中、不意に行方をくらませた。その時のディレクター眞部さんが母親に何度も電話をかけ、夕方にようやく繋がったときには彼らは江ノ島にいた。これから家族ごと湘南の海に身投げするのだという。とにかく我々がそこに行くまで待っていて欲しいと懇願し、眞部さんと僕は車をぶっ飛ばして江ノ島に向かった。重苦しい車内の空気の中、ふと空を見ると、怖いほど美しい夕暮れだった。「綺麗だな」となぜか思い、思わずカメラを向けた。その時初めて、僕は「祈るように撮影する」という感覚を知ったのだ。
そしてこの時、ふたたびその感覚が自分の中に立ち上がってくるのを感じた。不思議な気分だった。かつては、そこに実在する家族の、現実にある危機への祈りだったのだ。なのにこの時、祈る先にあるのは物語に生きる虚構の少年に過ぎなかった。虚構の少年にすぎない影に、僕は同じような切実な気持ちを持っていた。おかしいことだが、本気だった。たしかにそれは、同じ感情だったのだ。
 岬の真下の海辺に降り立ち、竜飛岬を見上げる。延々と続いていく道と階段をはるかに眺め、心を落ち着かせ、僕はカメラを担いだ。「じゃあ、行こうか」いつもののんびりした口調で監督が声をかけた。「辻さんはあっちいったりこっちいったりまた好き勝手に撮っちゃうんだから、お前ら絶対キャメラに写るなよ」と、監督は改めてスタッフに注意するふりをして僕にプレッシャーをかけ、なにげなく撮影は始まった。海岸から岬の突端までの苦行のような長い道のり、壊れた自転車を担いで黙々と歩く少年を、寄り添うようなハンディカメラで追っていく。僕にはもう、フィクションの世界を描いている意識は全くなかった。佑君の息づかいを自分のリズムとシンクロさせ、カメラは少年の実存と、反応する僕の呼吸とを即物的に記録していく。監督が、少年の顔のアップを撮るよう求めてくる。前に回り込み、レンズに掴まえる苦しげな少年の顔は、何に耐えているのか、何を求めているのか、すごい迫力だ。僕はカメラを担いで後ろ向きに階段を上がりながら撮影し、激しくブレるカメラに少年の思いが乗り移ってくるように感じる。
 そしてついに崖を上りきり、少年が共に旅をしてきた自転車を崖の下に投げ捨てるラストシーン。肺がんの手術のため切除した片肺で竜飛岬の長い階段を登りきり、息が上がったままの監督は、佑君へ自分の思いを熱をこめて語っている。監督だけではない、助監督の白石さんは危ないと言う監督の制止も振り切り、自転車を投げ落とすにふさわしい崖を探している。サブカメラを託した助手の戸田君も、指定したカメラポジションを無視して今にも転がり落ちそうな岩の上にカメラを構えている。監督の意思はもはや全員の意思となっていた。僕も崖から落ちる自転車の最後の悶えをカメラに捉えるべく、急斜面をよじ上っていく。そしてスタートの合図を待ちきれずにカメラを廻し始めた僕の眼前を、少年の投げた自転車はワンバウンドしてゆっくりと落ちていった・・・
長かった最後の日も夕暮れが迫り、海をバックにラストカット。カメラをセットすると同時に、待ちきれないように監督のスタートの声がかかった。旅を共にしてきた自転車を投げ捨てた後、解放された少年は海に向かって言葉にならない言葉を叫ぶ。力の限り叫ぶ佑君の顔は、フレームからはみ出しかかり、少しピンぼけだがO K、力のある画だ。人は2回も叫べない。
 かの撮影監督ヴィットリオ・ストラーロは処女作を撮り終え、もうこの瞬間は二度と来ないのだとわかった瞬間、声を上げて泣いたという。33歳の冬、「よし、さっさと行くぞ」というせっかちな監督の声に押され、泣くどころかわずかな感傷に浸る間も与えられないまま撤収をはじめた僕はしかし、同じ感情に満たされていた気がする。

 撮影を終え、東京に戻った後、数日間の虚脱状態に陥った。この2週間はなんだったんだろう・・・対象化するにはあまりに異様な狂騒体験。感動も歓喜も正直感じなかった。ただ、自分のしたこと、自分が身を置いていた場所はなんだったのか、それをとらえ直すことに難儀していた、そんな感じだった。自分の仕事が間違っていたとはもちろん思わなかったけれど、正しい行いをしたともまた、思えなかった。あえていうなら、重い気分が続いていた。この映画はいったいどうなってしまうのか、という不安が大きかったのかもしれない。あんな撮影で、果たして劇映画として成立しているのだろうか、完成などできないんじゃないか・・・そうなれば僕のせいで若松孝二の経歴に泥を塗ることになるのではないか、僕にその責任が取れるのだろうか・・・不安が次々と脳裏を駆け巡っていた。駆け出しカメラマンだった頃、ディレクターから面と向って「お前に撮影任せると番組出来ないから別のカメラマンに変えるから」とカメラマンを降ろされた時の屈辱を強迫観念のように思い出したりもした。撮影現場での興奮状態はあったけれど、それがどういう結果をもたらすのか、冷静になって考えてみるとまったく未知数だった。監督には、結果は見えているのだろうか・・・そもそもこんな映画の作りかたは果たして正しいのだろうか、基準を持たない僕にはそれすら判断もつかなかった。

 しかし、そんな虚脱状態も長くは続かなかった。撮影が終わってわずか数日後、監督からその電話はあった。「辻さん、次の撮影は3月18日からだぞ、そろそろ事務所に来てよ」またもや寝耳に水だった。監督が次の映画の準備をしているのはもちろん知っていた。いわゆるVシネマのような『完全なる飼育』というシリーズ物の新作監督をやると聞いていて、そんなものは僕の範疇ではないだろうと、全く他人事のように思っていた。監督にとって僕は『17歳の風景』を撮るためだけに方法論の一部として特別に投入された変わりダネの「素人カメラマン」であったと思い込んでいたからだ。またもや不意を突かれた。どうやら監督のなかでは僕が次の映画の撮影もやることになっているらしかった。
頭を整理しきれないまま急いで事務所にいくと、『完全なる飼育 赤い殺意』と書かれたシナリオをぽんと渡された。このシリーズのことは知っていたが、正直あまりいい印象をもっていなかった。1本目だけ見たことがあったものの、監禁されてその犯人と心が通じ合う、そんな都合のいいことを都合よく描く内容に納得がいかなかった。監禁された方の絶望を考えるとそれだけで気持ちが暗くなってしまいそうだった。若松孝二が今更こんな仕事もするんだと意外に思い、しかし、こんな仕事こそが若松プロを存続させてきた原動力でもあったんだろうとも改めて考えた。若松プロもかつては商売のため、拷問ものなどエグい映画も随分撮っていたではないか。今度は『17歳の風景』とは異なり、渡されたシナリオをきちんと読んでみたが、やはりというか、正直ぴんとこなかった。もちろん今度こそ、僕にとっての初めての「劇映画」といえるものであり、仕事を広げる上での大きなチャンスでもあることは理解していた。この映画にはジャンルがあり、たくさんのセリフがあり、物語がある。主演は大沢樹生、佐野史郎、そして新人女優の伊藤美華。誰もが知る俳優たちを、主要な登場人物として据える立派な劇映画。僕にとってはなにもかもが初めての得難い経験となるはずだ。しかし…

ぬるっとした嫌なものを感じた。若松プロの事務所に、この映画でデビューする新人の伊藤美華さんが挨拶に現れたときのことだ。彼女が来る直前、監督は何気ない感じで僕に言った。「今度の子、この映画のために豊胸手術してきたんだってよ」それは女優根性とも言えるのかもしれない。しかし、僕が感じたのはただ痛々しさだけだった。マネージャーとともに若松プロの事務所に現れた彼女は屈託なく礼儀正しい女性だった。僕にも丁寧な挨拶をしてくれた。しかしそういう、なんというか、その屈託なさの裏に、いわゆる「芸能界」の闇が仄見えるような、「いやなかんじ」を拭うことができなかった。それはもしかしたら、そういう業界と無縁に生きてきた僕の偏見なのかもしれない。しかしそれを差し引いても、やはりどうしても乗り気になれない仕事だった。自分の腹を撃つ直感が『17歳の風景』とはあまりに異なっていた。少しは縮まったと思っていた若松孝二との距離感も、また離れてしまった気がした。それに、劇映画を撮らねばならないという僕の心の準備は全く不足していることも明らかだった。

が、撮影はもう2週間後にせまっていた。その状況下で撮影をやるとなったからには、心はともかく、撮影機材に関しては早急に整えなければならない。やはり準備は慌てるものだった。まずは撮影時期が被りそうだったいくつかの仕事を調整し、カメラは他の可能性を試す発想も時間もないため「17歳の風景」で使用した物と全く同じ物を使うことにして、必要とされるサブカメラを今度は新しく自分で買ったDVX100Aを無償で使うことにした。それが後の『実録・連合赤軍』まで続くアリ地獄のはじまりだとは気づかずに。
メインの撮影場所は『17歳の風景』でも撮影した新潟県の六日町。3月でも数メートルの雪に覆われた雪深いこの村にある、築100年を越える古民家の一つをベテラン制作部の大日方さんがすでに探し当ててきていた。新潟フイルムコミッションとのコネクションを生かしたものだった。若松はそれを「オビナタがまた癒着しやがって」と冗談めかして言っていたが、そう言いながらも大日方さんの的確なロケ場所選びにまんざらでもない顔を見せていた。気が付いたらまたもや監督のペースに巻き込まれていた自分も含め、相変わらず人の得意分野と関係性を把握し、利用する事がうまいことには改めて舌をまいていたが、それはともかく、何本かのドキュメンタリー取材の経験から豪雪地帯での撮影の大変さを身にしみて知っている僕は、若松プロでそのことを話していた。すると監督は「辻さんは苦労するかもしれないけど、雪は余計なもん全部隠しちまうから実は撮りやすいんだよ。俺は東北育ちだから、他のバカな映画屋とは雪の見方が違うんだ」とニヤリと言った。どこまで本気かは計りかねたが、効率をことのほか愛する監督であることをすでに知る僕としては、その口調から仄見える自信にまたもや納得させられていた。そういえばかつての若松作品も、雪国での撮影が多かったではないか。そんなことをぼんやり考えていたその時、ほんの一瞬ではあったけれどこの映画についての鮮やかなイメージが急に脳裏に浮かんだ。
 一面の雪の中を逃げる女と追う男。僕が大好きだった60年代の若松映画に何度も出てきた光景。「そうか、それならばもしかして若松孝二の映画になるかもしれない」初めて、この映画についての手がかりが得られた気がした。というか、頭の中の一瞬のイメージを頼りにするしか、その時の僕にはすがれるものがなかった、という方が正確かもしれない。
3月18日、『完全なる飼育 赤い殺意』がクランクイン。ともかく、撮影がはじまった。ひとかけらのイメージだけを頼りに不安な気持ちばかりで突入した現場。やはり予想通り、戸惑うことばかりだった。僕にとって、初めてのドラマのある劇映画。「17歳の風景」は、自身がドキュメンタリーキャメラマンであるからその外部の視線を持って劇映画という他ジャンルの世界に殴り込むといったスタンスで出来ていた仕事だったが、これはいわゆるプログラムピクチャー。ある意味オーソドックスな撮影技術が必要とされているのだった。言い訳はきかなかった。監督の撮影法も17歳とはうって変わっていた。せっかちですぐに本番に行きたがるのは同じだったけれど、きちんと俳優に芝居をつけ、台本どおりのセリフを言わせ、シーンの流れを2台のカメラで同時に撮影する事が多くなって来た。特に新人の伊藤さんに、丁寧にシーンの説明をしているのは意外だった。僕が『17歳の風景』でも使用したメインカメラのSDX900、助手についていた戸田くんが僕の私物であるサブカメラDVX100Aで撮影する。自分のイメージの不足から、雪に閉ざされた、くぐもった雰囲気を出すために、もっとも安易な手、ディフュージョンフィルターを使ってしまったのもこの時だ。さらに学生時代以来、縁遠くなっていた、というかすでに忘却の彼方にあったドラマのカット割りをきちんとしなければならなくなった。説明的なセリフ、イマジナリーラインや初出の場所の位置関係の見せ方。視線のやりとり。劇映画のキャメラマンとしては当然身につけておかなければならない基本を僕はまったく知らないことを、いやというほど突きつけられた。監督は僕が何も知らないことには気を留めていないようだったが、そこから来る僕の判断の遅れ、焦りからくる単純ミスなどにはイライラを隠さなかった。『17歳の風景』とはうって変わって、僕は何も出来ないヘボキャメラマンになりさがっていた。撮影の内容に打ち込むこともままならず、みじめな気持ちで撮影を続けていた。まるで夜な夜な自分の歯軋りで夜中に目が覚めていた新人カメラマンの頃に逆戻りしてしまったかのようだった。
(つづく)

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