色々整理して、これ多分どこにも出していないぞ、と見つけたアウトテイク原稿、その3

無題
2005/2/13
長谷川友

氷室冴子原作の少女漫画『ライジング』は宝塚をモチーフにした舞台漫画だが、その中で劇団アルゴの主催者松原が主人公仁科祐紀にこう諭す。「舞台は活字やレコードとは違う。最高の出来だと思っても幕が下りたらおしまいさね、なーんも残らねえ。」僕はコンサートでも同じだと思う。しかし僕らはそんなその時だけの感動をブートレッグで疑似体験できる。強引だ、舞台はその時にしか味わえない特別な雰囲気があるんだ、音だけじゃ何にも感動なんて伝わらないよ、もちろんわかっている。その時だけの、その瞬間の独特の空気、高揚感なんてのは味わえるはずはないし、最高の演奏ならその瞬間に立ち会えたという感動はひとしおだと思う。それでも全てのライブに顔を出すなんてお金も無ければ時間も無い、物理的に当然ながら不可能な話でそんなその瞬間だけのカタルシスを常に自分の中に感じていたらきっと何か別の生物にでもなったかのような、常にドーパミンが脳内に分泌しているかのような平常でない状態となるだろう。まーそんな常にハイな状態なんて有り得ないということだ。そしてブートレッグはサウンドボードを超えるオーディエンスなんてのは確かにあるけどめったにないし思い込みだったりするし、正直そのコンサート会場での感動とは比べ物にならないし、それがプロフェショナルに録音されたが流出してしまったサウンドボード録音でさえ生の喜びには勝てやしない。プリンスは殆どの公演を録音していると言うし、いくつかのコンサート映像をシューティングし、現にいくつからのライブヴィデオも出ているし、ONAツアーでは初のライブCDも出た。しかしそれでも素晴らしい演奏だと思ってもそれが残っていない、オフィシャルではあの名演がリリースされていない、だからブートCDでしか聴けないなんてことでブートの存在意味は十二分にある。生には負けるがそれに限りなく近いもの、もしくはどうしてもあの時の演奏が聴きたいなんてのである程度まで溜飲を下げさせてくれるのがブートレッグなのだ。現にバンドメンバーがあの時の演奏が良かったからとブートCDを買いに来るなんてのがある(プリンスのバンドメンバーやシーラEもそうだったと知人が言っていた)ファン側もそういった感動を味わいたくてブートを手に入れるわけだが、そもそも名演なんてのはあのライブ失禁したよなんてみんなに感動を伝えるそんな口コミもあるけど、ブートレッグを聴いておーこの日のライブ、凄かったんだなーなんて追体験で思うことが多いと思う。しかしそんなブートを聴いて再確認するアーティストの魅力、最近トレードやダウンロード物のライブでますますそういった音源を入手しやすくなっている中、それらの数多のライブ音源を体系付け、まとめる作業はさらなるアーティストへのさらなる理解となるはずだ。現実当の演奏者側は素晴らしい演奏をしたとか当然覚えているだろうけど、時が経てばそれは風化してしまうだろうし、もし突然事故で死んでしまったなんてことになれば当の本人にあの時の演奏は素晴らしかったが、その時どんな感じだったか何てこと聞くことが出来ない。ファン側がアーティストに喚起させる形で、アーティストへそのライブのバイブ、感動をフィードバックし自身の音楽性を再確認する、なんてこともあるはずだ。ファンは常にアーティストの鏡。綺麗に写る鏡であるためにブートレッグを聴く、そのくらいの意気込みがあってブートレッグに対して堂々としたスタンスでいるのが素敵だと思う。

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