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死にがいとよく似た、生きがいを探して

 朝井リョウの小説『死にがいを求めて生きているの』を読み終わったのは、もう数週間前。突き刺さって、心を抉るような内容だっただけに、その感想を書き始めるのには時間がかかってしまった。
 結構なボリュームのある小説だったが、ページを捲る手を止められず、間に仕事を挟みつつ二日で読み終わってしまった。映像も音もない文字の羅列にここまで引き込まれたのは、何年ぶりだろうか。

誰かと対立しないと生きられない

堀北雄介を、私たちはどこかで見たことがある

 この物語は、堀北雄介という一人の男にまつわる出来事を、周囲の人間の視点から描いている。断続的な時系列の中で、少年から青年になっていく雄介の姿が書かれているのだが、それを読み込んでいる間ずっと、私はある種の薄気味悪さを覚えていた。
 雄介は、幼い頃から目立ちたがりで、クラスの中心になるようなタイプだ。小学生の時、同じクラスに転校してきた一洋が「あいつに目をつけられると面倒そうだ」と直感するような何かが彼にはあった。そんな彼の大きな特徴の一つが、「対立構造を好む」という性質である。テストの順位が校内に張り出されなくなると、やる気を削がれると先生たちに抗議し、体育のサッカーで転ぶと、敵チームにいる幼馴染の智也に向かって「お前が足を引っ掛けたんだろ!」と責め立てる。どんなときも何かと闘っていないと気が済まないというように。
 読み進めるほど、雄介が嫌なやつに思えてくる。ここまで嫌悪感を煽られるのは、彼のような人をどこかで、たぶん身近な人間関係の中で実際に見たことがあって、苦い記憶を掘り起こされるからだ。
 堂々と自分の意見を主張できる人が、中学生ぐらいまでは目立つ存在として周囲を引っ張っていく力を持っていた気がする。心の中ではその意見に反対でも、それを声に出せない人たちが大半だからだ。声を出せない人の中に、同じ意見の仲間がいるのかどうかもわからない。みんなに聞こえる声で話せる人だけが、支配力を持っていた。私の学生時代にも存在した、雄介のような人物の顔がいくつか浮かぶ。
 大きな声で誰かに勝負を持ちかけて、勝った負けたを楽しむ。何かに立ち向かっていくのが好きな人たちは、よく他人を巻き込んで、その対立の輪を広げていった。

見えないヒエラルキーの正体

「林先生ってひどくない?絵梨香泣かすなんてさ、性格悪いよね。ねえ明日からの授業、誰が当てられても、みんなで無視しようよ、林のこと」
 今でも覚えている、中学生の頃、私のクラスメイトだった倉田さんの発言だ。クラスでリーダー的な立ち位置だった彼女の声は、他の女子たちを従える力を持っていた。
 林というのは国語教師で、服装や身だしなみにとかく厳しく、一部の生徒たちから毛嫌いされていた。私のクラスの絵梨香という女子が化粧をしているのがバレたとき、林先生はわざわざ授業を止めてみんなの前で叱りつけた。怒られた絵梨香は反ベソをかき、先生に言われるがままに女子トイレに駆け込むと、化粧を落として戻ってきた。顔中びしょびしょに濡らしているのは涙なのか、水なのか分からなかったが、彼女の悲痛に歪んだ表情は今でも忘れられない。そんなことがあった国語の授業の後、クラスの女子が絵梨香の周りに集まって、彼女への慰めの言葉と林への罵詈雑言を交わしあっていた。そこで飛び出たのが、先の倉田さんの発言だ。彼女は声高らかに、林先生を敵対者だと断定し、クラス全員にそれを告げた。林先生への反撃は、絵梨香の敵討ちという大義名分を持つ。彼女の提案に同意しなければ、自分が林の味方をする悪者にされることは、一目瞭然だった。彼女の正義を邪魔する奴は、きっとクラスに居づらくされる。だから、倉田さんたちと普段関わり合いのない私も、私の友達もみんな参加した。実際、授業中に声を出さなければいいだけの話だから、そんなに難しいことではなかったが。
 結局、クラスで一致団結した先生への抵抗は、すぐに職員室で問題となり、私たちはまとめて反省会をさせられた。でも、倉田さんのよく通る声を拒否することなんて、あの名状し難いクラスの空気に逆らうことなんて、あの頃の自分たちにできるはずがなかったのだ。  
 言葉にこそ出したことはなかったが、私はずっと、クラスの真ん中で大声を出している女子たちが苦手だった。できれば、倉田さんやその周りの女子とはあまり話したくなかったし、クラスの中心からなるべく離れたところで、ひっそりと生きていたかった。だけれどそれは、そうすることで、自分をヒエラルキーの外側にいる人間だと思いたかったからなのだ。たとえテストの成績が張り出されなくたって、クラスには順位付けがある。誰が面白いか、美人か、賢いか、スポーツが得意か、人気者か、影響力を持っているか。誰が決めるわけでもないが、なんとなくみんな自分の心内にそんな順位表をこっそり張っている。その外側にいる気になっても、逃れようとした時点で、その順位表を意識していることに変わりはない。
 倉田さんは自分がクラスの中心にいるいことを、いつも大きな声で主張していた。彼女の取り巻きは、彼女を評価し、それを受け入れた人たちだった。私は、彼女を中心にしたクラスの中で発生する対立構造から、必死に逃げていたが、対立と無縁の世界で生きられるわけではなかった。

 競争なんてくだらない。対立なんてしたくない。そう思って、私は今も生きている。それなのに時折、自分の中にも雄介がいると感じることがある。心の中で誰かと競って、勝手に勝ち負けをつけて、ほくそ笑んだり悔しがったりする。こっそりそんなことしてるのは、誰にも言えない秘密だけれど。
 やっぱり私も、物差しで他人と自分を比較をしなければ、自分の存在価値を認められないのかもしれない。そしてそれを自覚すると、すごく情けない気持ちになるのはどうしてなんだろう。

「生きがい」という言葉の魔力

かっこいい父親像の崩壊と生きがいの行方

 雄介はよく周囲に、父親の名刺を見せて自慢していた。そこに書かれた「リスク統括室長」という肩書きが、好きな漫画に出てくるキャラクターのようで格好良かったからだ。しかし、課外活動で智也や同級生の女子たちと父親の会社を見学しに行ったことで、雄介はそれがただの思い込みだったことを知ってしまう。「リスク統括室長」の仕事は、来るかどうかも分からない災害に備え、非常食や防災グッズを準備したり、緊急アラートを設定しているだけだった。有事がなければ意味をなさない仕事をしている父は、女性ばかりの会社で肩身が狭そうに見えた。そして自分一人しかいないリスク統括室で室長を名乗っているのも、なんだか嘘っぱちに思えたのだった。
 その一件以来、雄介は父親の名刺を自慢することも、父親のような仕事をしたいと思うこともなくなった。そして一緒に見学しに来ていた同級生の「あの人、災害が起きるの、楽しみに待ってるって感じ」「何がやりがいなんだろ、この仕事」、そんな言葉が聞こえていたのか、雄介のこの先の人生は「生きがい」というものに縛られていくことになる。「生きがい」なくして人は生きられないと思い込み、それを持つことで、持たざる者よりも自分には価値があるのだと信じ始める。彼の生まれ持つ対立精神と、「生きがい」を求める欲求は、一緒くたに混ざり合ってどろどろとした塊になっていく。

「生きがい」の意味

 「生きがい」という言葉の魔力を、私は知っている。仕事でも、子育てでも、趣味の時間でも、「これが私の生きがいだから」と言えるものがあると人は安心するものだ。藪から棒に誰かから「何のために生きてるの?」と聞かれても、ちゃんと答えられるものがある。こんなに心強いことはない。
 「なんで生きてるんだろう」。それは、自分に問いかけてはいけない禁断の呪文だ。だけれど、一度もそれを自分自身に問うことなく人生を終えられる人なんて、きっといない。ふとした拍子にそんな疑問が脳裏に浮かぶたびに、それと向き合うのが怖くて私は必死にかき消そうとしている。向き合わないで、考えないでいられるように、仕事に忙殺されることを選んで生きてきた。そうしないと深淵の中に落っこちて、うっかり戻ってこれなくなりそうだからだ。
 しかし雄介は、そんな「生きがい」に囚われてしまった。真っ向からそれと向き合い、生きがい探しを真剣にやろうとしてしまった。大学のジンパ復活、学生寮の自治を守り抜くこと、自衛隊への入隊、人類の対立の起源を断ち切りに行くこと。その都度、スケールだけが大きくなる生きがいを見繕っては、あたかも自分はそのためだけに生まれてきたみたいに、大見得を切って大袈裟なことを周囲に言いふらす雄介は、痛々しくて直視できない。なんなのだろう、この感覚は。どうしようもなく、湧き上がる雄介への嫌悪感。追いかけるものだけ立派になって、何も成し遂げられないこの男。軽薄で、深く考えることもせず、生きがいを大事そうに抱えているくせに、衝動に駆られて簡単にその中身をすり変えてしまえる雄介に、「生きがいってたぶん、そんなもんじゃないから」と突きつけてやりたくなる。生きがいを持ったことのない、この私がだ。

対立を嫌うことで生まれる新たな対立

南水智也は対立を嫌う

 雄介には南水智也という幼馴染がいる。智也は、大学生になってからも雄介と親密にしているのだが、それは純粋な好意によるものではない。そもそも智也は、雄介とは真逆の性質の持ち主であり、どちらかといえば雄介に昔から苦手意識を持っている。それなのに、ことあるごとにそんな雄介を気にかけ、仲良くし続けるのは、父親への反発によるものだった。
 智也の父親は、自身が大学で研究している「山族」と「海族」という対立構造を持ち出し、雄介を山族の子孫だと言って敬遠し、海族である自分の息子から遠ざけようとしていた。智也は、まだ幼い頃に、そんな話を父親から聞かされていた。そして子供ながらに、父親の言う「山族」「海族」などという二元論を、馬鹿馬鹿しい妄想だと思った。そしてそれを本気で信じている父親を心底不気味に感じていた。父親の主張を否定してやりたい、自分達の対立に歴史的な根拠や正当な理由などあるはずがないという信念が智也の中に生まれ、彼はそのために生きていくことを決意する。だから智也は、なんとしてでも、雄介と仲良くしていなければいけなかった。雄介と喧嘩別れをしてしまうことは、山族と海族の対立の証明になりかねないからだ。
 智也は父親の主張を否定するためだけに、山族と海族の伝説を科学的視点から研究できる学部に進学を決めてしまう。そんな智也の、人生を決めてしまえるほどのぶれない軸は、雄介の求めてやまない「生きがい」によく似ていた。

人は対立することを止められない

 対立したくない人は、好き好んで対立を生んでいく人を止めようとするだろう。智也が雄介に対してずっとそうしてきたように。しかし、そこに新たな対立が生まれる。競争がなければ頑張れない、生きている意味を感じられないという人は、競争機会が奪われていく社会では、自分の価値を相対的に認識できない。誰かの物差しで測ってもらわないと、自分の存在を確認できないか弱い者たちにとって、この世から対立を剥ぎ取っていく者たちこそ、新しい対立の標的になってしまう。もし本当に山族という種がいたとして、彼らの血が争いを求めることは、止められないのだろうか。対立が生まれるのは、本当に人類の遺伝子レベルで避けようのないことなのだろうか。
 時代は平等を謳っている。人と違うことを殊更に指摘することは、悪いことだと断じられる。ナンバーワンよりもオンリーワンが尊いのだと教えられる今の世の中は、誰かと戦い、競うことを生きがいにしている人たちにとっては、なんとも生きづらいはずである。
 対立をなくそうとすることから、新たに対立が生まれてしまうのなら、それはどこまで行っても堂々巡りだ。私たちの社会から、根本的に争いをなくすことはできないのかもしれない。そんな絶望に、私は目の前が真っ暗になる。

死にがいではなく、生きがいを探そう

変わらない雄介と諦めない智也

 立ち向かうべき相手を定め、そこに真っ直ぐ向かっては挫折し、また別の敵をつくっていくという雄介の生き方に、私は共感できない。そのたびに、生きがいを取っ替え引っ替えしていることも。
 新しい生きがいを見つけた雄介は、人類の対立の起源、海山伝説の始まりの地を嬉泉島だとし、そこに渡航する戦士を募っている詐欺師のもとへ行ってしまう。もう雄介に見境はなくなっていた。そして、そんな彼を助けようとした智也は、あろうことか怪我を負い、植物状態になってしまうのだった。
 この物語の中で一番救われないのは、植物状態になった智也でもなく、その恋人の亜矢奈でもなく、やはり雄介だと思う。物語の中で、彼の最後の生きがいは、意識の戻らない幼馴染を毎日お見舞いに行く「心優しい親友」を演じることになっていた。海山伝説や嬉泉島のことも、必要なくなれば興味が失せた。寝たきりで体をぴくりとも動かせないが、実は、聴覚と意識だけが戻っていた智也は、変わらない雄介にがっかりし、やはり自分がもう一度彼と話さなければと頭の中で強く思っていた。
 しかし、そんな雄介の新しい生きがいに、智也の恋人の亜矢奈は気づいてしまう。智也と中学から一緒だった亜矢奈は、雄介のこともよく知っていたし、ずっと苦手意識をもっていた。「智也の体を使って、次の生きがいを作り出したんだ」そう言う声に絶望と怒りの色を滲ませて、動かない智也を見つめる彼女に、なおも話すことすらできない智也本人は焦る。このまま新しい対立が再び生まれ、父親の主張が正しかったと証明されてしまったらどうしよう。海族だの山族だのというくだらないあの話に、人類の対立の歴史に、父親が更にのめり込んでいくのを、智也は想像した。もし対立の連鎖が、自分たちの世代でも断ち切れなかったら。このまま未来永劫、続いていくとしたら。それは、ここまで自分が積み重ねてきた時間と労力を無に帰する答えだった。
 「お前だって、本音では、人は生きてるだけでいいなんて思ってねえんだよ」かつて雄介が、智也に言った言葉だ。そして智也は気づいた。自分も何かに立ち向かい、それに命を注ぐことで、自分の人生に意味付けをしていることを。そうしないと不安で堪らないことを。自分も雄介のように生きがいを求めていることを、はっきりと自覚した。
 だけれど智也の生きがいは、誰かと憎しみ合い、対立を深めることではなく、対話をして互いの理解を深めることであった。父親の主張を否定するために、自分の研究によって父親と対話をし、理解し合いたい。雄介にも、対立が必要ないことを分かってほしい。それが智也の生きがいなのだ。
 雄介が欲しくて欲しくて堪らないという「生きがい」は、智也の目にはあたかも、それのために戦って死にたいという「死にがい」に映った。本当の「生きがい」はきっとそんなんじゃない。
 相手と自分の間に線を引いて対立するでもなく、どちらか正しい方に、もう一方を引き込んで完全に同一になるでもなく、別々のものが別々のまま、共に生きていく方法を考える。それを雄介の生きがいにすることはできないかな。智也が長い間考え、悩み続けやっと出した答えは、しかし声にならず、雄介に届かないまま、夢と現実の狭間にいる自分の頭の中で響くだけだった。その後、智也の体が動くようになったのか、雄介と対話をすることが叶ったのかは、誰も知らない。

本当の生きがい

 物語の中で、智也が雄介に伝えたかったこと。本当の生きがいの意味。それは、私たちにとって救いになるだろか。
 年齢や性別、国籍、宗教、思想。色々なきっかけで、簡単に私たちは分断される。だけれど、どうしようもないその違いを、私たちは乗り越えて共生できる理想の社会を目指してきた。対立するたびに対話をすることで、それは実現できると信じてきた。分かり合えない時、それはどちらかが正しく、どちらかが間違っているわけではない。そういう考え方を止めなくてはいけないのだ。私たちの「違い」は対立を生むためのものじゃなく、繋がりを生むために必要なもの、そう思って考え続けてみよう。考え続けるからこそ、話したいことがたくさん生まれるのだから。
 私にとって、この物語の雄介の存在は、どうしようもなく切ない絶望の塊だった。私が目を背けてきた自分の恥部そのものだったからだ。立派な生きがいを持って、誰かにそれを提示していないと自尊心を守れない。誰かと対立し、戦っていないと生きていけない弱い人間。そんな自分が心の奥底にいることが、おかしなことだと思っているから、私はそれを隠している。けれど、雄介はそんな自分を隠さない。だから気味が悪かった。直視できなかった。
 私に雄介と対話することはできるだろうか。根気強く、ちっとも変わろうとしない雄介に、本当の生きがいの意味を伝えようとし続けることが。雄介との間に線を引き、会わないでいる方がよっぽど楽なのだ。でも、それでは、世の中はちっとも変わらない。雄介を作り出してしまう社会は、このまま同じように苦しむ人を、いくらでも生み出してしまう。色々なところで対立が生まれ、傷つく人が出てくるだろう。だから対立を繰り返す人たちに、諦めずに語りかけなくてはいけない。私たちが対話によって、それを克服できる生き物だということを。
 大きな一つの社会の中で、私たちの誰もが繋がっている。学校や会社を辞めたって、無人島に行ったって、社会のルールから逸脱できるわけじゃない。私たちは必ずどこか繋がり合い、響き合っている。相互に影響を及ぼしながら存在している。生きている限り、自分にとって不都合なものがある世界に身を置かなくてはいけない。悩むことはなくならない。人は考えることを止められないから。そして、私たちは訴え続ける。出会う人と対話を繰り返し、彷徨い続ける。いつの日か、対立の歴史に終止符を打つ。それを確かな「生きがい」にしながら。


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