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こころが目覚めた日

 朝起きて、まず体の内側、胃や腸なんかを意識してみる。意識を向けた途端に、下腹部がゴロゴロと鳴ったのは偶然だろうか。「おお、私の小宇宙が食事を求めておるな」と厳かに独り言を呟いてキッチンへ向かう。
 日々食事を摂るたびに宇宙との繋がりを感じるようになったのは、解剖学者・三木成夫さんの名著『内臓とこころ』を読んだせいだ。控えめに言って、今年読んだ中で一番面白い本だった。私の今後の人生にも大きく関わる一冊であることは間違いない。生物学書であり、哲学書でもあり、新しい何かの聖典のような気もする、とても不思議な本なのだ。

感受性が欠落している?

食と性のリズムを追って

  渡り鳥は群れを成し、南に北に一定のリズムで移動している。南下するのは餌を食べ、出産に向けて体を肥やすため。そして飲まず食わずで北上し、故郷で子供を産むのだ。
 渡り鳥だけではない。回游する魚だって、野生の熊だって、食と性のリズムは季節に合わせて一定である。それが全ての個体に備わった仕組みであるかのように、自然の摂理としてそうなっている。
 我々人間はどうだろうか。食欲と性欲は季節の変化に伴わず、常にごちゃ混ぜの一緒くたである。飲まず食わずは数日と持たないし、一年中が発情期だ。
 著者は、生物の体の内側に小宇宙があると言った。あの広大な宇宙と繋がっている小宇宙である。体内に宇宙と言われても、多くの人は頭に疑問符を浮かべてしまうだろう。私もそうだった。しかし、先の野生動物たちの規則正しい食と性のリズムを見ていると、太陽や月といった天体の動きやそれに伴う季節の巡りにとても忠実であり、しっかりと紐づけられているという気がしてくる。実際にそうなのだ。
 それこそが“感受性”によるものなのだという。感受性とは、なにも自分の外側から感じやすいというだけの言葉ではない。己の内側、“はらわた”から発せられることをどれだけ感じ取れるかも、立派な感受性、ひいては宇宙への感受性だというのである。

内臓から感受できること

 最近聞くような、ヒトの排泄物を飲料水や食物に再生するというアイデアは、なにも人類の進歩における画期的なものではなく、かつてありし自然の循環から得た発想である。
 排泄物は本来、菌類に分解され、植物に受け渡される“生態系”の一端を担っているものだ。つまり排泄物がなくなれば、生態系の鎖が途切れてしまうというほどに重要なものだ。それなのに、そういう生態系の鎖を断ち切ってみたり、間引きして変なところに伸ばしてみたり、人類にはそういう余計なことをしてきた歴史があるのだが。何はともあれ、ウンチやオシッコには敬意を払いたい!
 さて、「オシッコいきたい」というあの膀胱の感覚を、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ知らない。オムツを濡らして「オギャア」と泣くのが関の山である。オムツが取れた頃から段々と分かってくるのは、膀胱が収縮するあの不快感が、膀胱からのお知らせであるということ。「ボウコウ イッパイ トイレ ヘ ムカエ」。内蔵器官が神経を通じて脳に教えてくれているのである。
 私たちが内臓から感じ取ることのできるものは、あまりにわずかしかない。胃袋の空腹感と排泄の到来だけ。腹を壊したり、病気になれば痛みに襲われるだろうが、そうなる前に日常で内臓が語りかけてくることはほとんどない。自分の体内で、肝臓や腎臓や膵臓が今日も元気に働いてるぞ!なんて感じられる才能の持ち主はいないのだ。さらに遺憾な話を打ち開ければ、私は自分の膵臓の位置を存じ上げない。これほどまでに、私たちの内臓への感受性は欠落している。
 それに引き換え、実家の猫は、私の40分の1程度の脳しか持ち合わせていないのに、便秘気味になると猫草をむしゃむしゃと食べ、よく水を飲むようになる。奴は捨て猫だったので母猫はいない。それなのに誰から教えられるでもななく、そういうことが出来てしまうのは、脳で考えているというより、やはり内臓への感受性がヒトよりも高いからなんだろう。私たち人間の感受性は欠落してしまったのか。感受することよりも、知識を蓄え思考することに長けた脳が立派に備わっているのも、幸か不幸か考えものである。

こころはどこに

動物のこころ

 私は心理学だとか、そういう人間の精神を探るような分野とは距離を置いてきた。興味はあるのだ、人一倍。だから心理学の講義は大学で一度とったこともある。が、フロイトの話でもうすでにダメだった。なんというか、やる気を削がれてしまうのだ。私が知りたい心理は“そいうこと”ではなかったから。けれど、その理由も判然としないまま、試験はなんとかやり過ごし、私は次の学期でその講義の続きは選択しなかった。
 ところが、図らずもこの本を読んでその理由が少しだけ分かってしまった。著者は、心理学で扱う“心”を自意識でしかないと断じ、心理学とはつまり人間の場合、どうしても“脳理学”のようなニュアンスになってしまうと話した。本来の“心”は、もっと生物としての本能に近いものなのだと。その説明が、私の中ですとん、と腹落ちしたのである。
 動物のこころは、あの渡り鳥や回游魚の本能と行動の中にある。DNAに刻まれた生命記憶、体に内臓された食と性の宇宙リズムが、動物たちのこころなのである。
 規則正しく移動する渡り鳥や、故郷の川を探り当てて帰ってくるシャケ。そこには、目や鼻や耳といった体壁系の感覚器官だけでは説明できない、“動物のカン”のようなものがあるのだろう。そしてそれは、地球の磁力に匹敵するような、宇宙的な要因を感じさせるのだ。

こころが目覚めているか

 動物と人間の違いは何か。そう聞かれれば多くの人が「理性があるかないかだ」と答えるだろう。だがそれは、“あたま”で見たときの違いだ。では、“こころ”で見たときの違いは何だろう。それは、こころが眠っているか覚めているかである。
 動物には、本能というこころが備わっているが、それによって駆り立てられる情感がない。これを、こころが眠った状態と呼ぼう。一方、人間には本能的に溢れ出てくる感情がある。はらわたの声が大脳皮質に滲み出るような、いわば目覚めたこころは、人間にしかないのだ。
 「風物詩」という言葉があるが、人は景色や匂いや音に、季節感を覚えることができる。しかしその裏では、情感が作用し、視覚や嗅覚を補っているのだ。そしてそんな情感は、内臓から込み上げてくるもの。それは例えば、秋に終わりが近づく頃、冷たくなった空気を吸って胸から腹の辺りがすっとする内臓感覚が、私たちに“淋しさ”を教えてくれるようなものである。だから、秋の終わりの景色はどこか儚げに映る。
 三十億年前からの生命記憶と、自分の生後からの記憶。前者は自覚がないだろうが、確かに私たちの体に備わっている。私たちの記憶は深浅色とりどりに重なり合い、目前の景色から抱く印象像は、記憶の中の回想像で裏打ちされ、そこに感情が湧き上がる。
 一つ想像してみよう。アリは、別のアリの大群が行列を作っているのを眺めて、かつて自分が作った行列を思い出すことはしない。「こうしちゃいられん!俺も行列つくらなきゃ」と感化されることも絶対にない。しかし、人はパレードを見物し、それぞれ物思いに更ける。時に自分もあそこに、と思うかもしれない。そんなことが出来るのは唯一、人類だけだ。
 内臓の波動は脳に届き、私たちのこころを目覚めさせる。人に生まれた歓びは、そこにあるのかもしれない。

目覚めたこころで生きていく

拝啓、私の内臓様

 さて、すっかり敬虔な内臓の信者になった私である。いわゆる宗教らしい儀式を全く行わないのもいかがなものかと思われた。この感謝の気持ち、今更ではあるが、体内に目を向けきちんと伝えておきたい。
 と、その前に。自分が内臓の位置すら、あやふやにしか知らないことを思い出した。
 私はネットで内臓の構造図を検索し、膵臓の在処を初めて知った。どうやら胃の裏側、十二指腸に接するところにあるらしい。胃の位置はなんとなく把握しているつもりだが、その裏側ともなると全く見当がつかない。それだけでなく、膵臓は予想外の形状をしていた。自分の体内のことなのに知らないことが多すぎることを自覚し、なんだか焦るような、申し訳ないような気持ちになった。
 服の上から人差し指で押しながら、位置を探る。胃がここだから、この裏?背中から触った方が近いのかな?と、なんとなく当たりをつけて、そこ目がけて話しかけてみた。

「いやあ、膵臓さん。今まで無視してて悪いね。これからはたまにあなたのこと思い出して、何か聞こえないか耳を傾けてみるよ」

 シーン。
 20数年間無視されてきたことを根に持っているのか、膵臓は返事をしてくれなかった。今更遅いというのだろうか。古今東西、心からの誠意を伝えるのは難しいものだ。しかし、まあ良い。我々の関係性は、ここからもう一度築いていけばそれで良い。
 人の体も動物の体も、膨大なメカニズムが張り巡らされている。神様の意図を感じてしまうようなとんでもない出来事が、この体内では何食わぬ顔でやすやすと行われている。つくづく思う。生きていることは奇跡なのだ。私たちは簡単にそれを忘れてしまうけれど。

渡り鳥になれなくたって

 食い溜めて体を肥やすことも、飲まず食わずで遠い故郷に帰ることもできない私は、渡り鳥になれない。地図がないとどこにも行けない方向音痴の私は、海へ出て、再び生まれた川に戻ってくるシャケにもなれない。それほどまでに強い本能の働きかけが、私にはない。もしかしたら本当はあったのかもしれないが、もう感受できないのだ。
 だけれど、私には目覚めたこころがあるらしい。そのこころは、春ののどかなあの風に、どこか懐かしい夏の夜の匂いに、秋の淋しい木漏れ日に、誰かを待っているような冷たい冬の朝に、きっと隠れているんだろう。
 秋が終わりを告げ、冬が顔を出してきたこの頃。部屋で本を読んだり、パソコンを開いて仕事をしたり、ランチに何を食べようか悩んだり、お風呂で鼻歌を歌ったりしている私は、体の中に小さな宇宙を抱えている。今も一人暮らしのアパートの一室から、無限に広がるあの宇宙と、交信をしている最中なのだ。


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