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社会における「私」という存在

世の中の出来事(主にテレビや新聞が報じる内容)に一喜一憂することを止め、日本という社会の枠組みの中で「私がどう見られているか、立ち位置」などは極力考えないようにしている。比較しても意味がないし、落ち込むだけだし、私だけが考えても叫んでも変わらないし、私は「世の中のフツウ(多数派)」のライフスタイルや人生を送っていない、少数派であるという自覚があるから。持ち家も車もないし、夫や子の世話もしてない。So what?

栗田隆子さん著「ぼそぼそ声のフェミニズム」を読んだ。この社会の中でないものとされている存在に対する眼差し、見ようとしない、考えようとしない、どこか諦めてしまっている私自身の態度に揺さぶりをかけるような内容だった。あまり考えずに行動してしまうことへの警告も含め、はっとさせられた。

「妻」や「母」といった「女性」としての生き方にも、キャリアを積み企業で働く「男性」としての生き方にもどちらにも馴染みがたい、または馴染まないことを許されている贅沢で貧乏な者たち、それが女性のフリーターなのかもしれない。

栗田隆子(2019)、ぼそぼそ声のフェミニズム、作品社、1 ないものとされてきた女性たち、「贅沢」と「貧乏」、p47

贅沢で貧乏・・まさに現在の私の姿、と思った(言い当てられた感じ)。時間的・金銭的拘束がそれほど多くない、足るを知る生活にまあまあ満足。結婚も子育ても、今のところ私の人生に存在していないし、子どもの頃に盲目的に信じて、今でも刷り込まれている伝統的な女性の役割は大方捨てたつもりだ。押し付けられたくない、選択権を常に持っていたい(という選択をしている)。あくまで主観だが、自分の好きなことを自由にできる余裕がある贅沢さとともに、貧しさ(何らかの不足感、不安感)を心の奥底では感じている。

一方、足りないものは、自分を無理に鋳型に流し込むことではないと理解している。私は10代の頃から、多数派の価値観=鋳型にあわせようと無理強いしてきた過去がある。しかし、これからは、私という社会的存在を見てみたいし、社会に影響を及ぼす(与えうる、と言ってみたい)私をつくっていきたい。まだまだ心もとないという意味での不安感はあるけれど、時間をかけて補っていくつもりだ。

「無視」とは、起きたそのときに無視するだけでなく、歴史として蓄積されない、つまり問題があったことが伝承されないことをも含めて考えるべきだ。歴史という領域もまた「公」で「男性」(his-story)である証左だろうか。

栗田隆子(2019)、ぼそぼそ声のフェミニズム、作品社、10 真空地帯としての社会運動、声を上げるとは?「公」としての運動の領域を巡って、p189

いわゆる歴史問題に対し、人間の過ちのおぞましさばかりを感じていた。生理的に無理・・できれば自分とは無関係と思いたいし、切り離して考えたい。蓋をしてしまいたくなる感覚に似てる。つまり「無視」という関わり方だ。否、私が生きているこの社会に対して、時間軸でいう縦軸(過去と未来)も横軸(他の国・地域)も俯瞰してはじめて、社会に対する理解を深めることができると思える。

最近、同世代の作家が著す韓国文学を好んで読むようになった影響もある。日常の文脈で歴史が語られることが少なくない。他の国や地域を知り、今私が生きている社会に対して客観的に眺めたいと思うようになった。

この社会に対し、吐き気がするくらい、正直気分が悪くなることばかりだけど、そんなひどい歴史とも少なからず向き合っていこう、知っていこうと思える。

その基礎があってこそ、「独身の女性」「非正規の女性」のイシューを、男性から扶養されるべき、あるいは男性をケアするべき存在、という枠組みではなく、個人単位で生きていくにはどうしたらいいのかという問いとして具体的に考えることができる。(中略)一人の女で子どもがいてもいなくても、パートナーがいてもいなくても、どんな生き方をしても生き延びられるあり方をこそ考えるべきだし、(後略)

栗田隆子(2019)、ぼそぼそ声のフェミニズム、作品社、あとがき、p217

この社会の制度設計は「世帯」単位が基本で、一夫一妻、子2人が代表例になっていたりする。昨今話題になる、錆びつつも生き残る明治時代の法律とか条例とかも含め、「世帯」に対する解釈を掘り下げていくと、歴史や社会構造が浮かび上がってくる。

「個人単位で生きていくにはどうしたらいいのかという問いとして具体的に考えることができる」と著者は語る。

「世帯」という呼び方がもう・・なんか時代にフィットしてないと思うのは私だけですか。配偶者がいてもいなくても、子がいてもいなくても、個人は社会の中で生きていけるはずなのだ(私自身が既存の枠組みの中で抗っているような感じ)。ベーシックインカムに対しても、私はおおむね肯定派だ。

ないものとされている、社会における「私」という存在にも、著者の栗田さんは光を照らしてくれている感じがして、なんだか勇気がわいてきた。1人じゃないんだと思える感じ。嬉しい。この本の最後の一文がたまらなく好きだ。

人間、そもそも生きてること自体奇跡だし、死ぬ前に悔いが残らないくらい、徹底的に情熱的に生きてやると私は思っている。

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