怖さ(怪花を経て)

 芸術家として、「自分の想いを伝えたい!」と思うことはごくごく自然のことだし、むしろそのような気持ちを持っていないほうがおかしいことなのかもしれない。それを鑑賞者が受け入れるか拒絶するのか、それは人次第であるわけだが。

芸術家は頑固である、僕はそう思う。
むしろそうあるべきだとも思う。

 様々な作品を作りあげていく中で、自分の思い通りに物事を作りあげていく中で、誰かから馬鹿にされようと、自分の信念を貫いていくためには相当な覚悟がいる。

その覚悟を持った人は、決して折れずに頑張ってほしいし、止めるようなことをするのはきっと間違いなんだと思う。

 だからこそ、「廻花」、相当な覚悟をもってあの舞台にオリジンの姿として出てきたことに最大限の敬意を示すのと同時に、これからどうなるのか注視し続けるべきなんだって感じた。

 カンザキだって、「安全なところから石を池に投げ込むような感覚」を嫌って、自分のホンモノの作品を作りあげるために新しい一歩を踏み出した。これが一番の身近な典型例な気がする。

 だからこそ、「画面を隔てて、自分の綺麗なところしか見せていないような感覚」というのを聞いて、この場所から離れていくのではないか、って。カンザキと同じように、本当の表現を追い求めてこの場からいなくなってしまうのではないかって。

それがよぎり、僕は思わず「怖い」って。
自分が勝手に思ってるだけな気がするけど、応援しなくちゃいけないのは間違いないんだけど。

 「表現者」として成長している、だからこその「エゴ」が見えてくる。そこは僕は大好きだし、もっと見てみたい。
 けどその先に、「別れ」が待っているなら、ぼくはまたあの悲しみを感じることになるのかって思うと、本当に怖くなってしまったのだ。

 だからこそ、少しの「拒絶」が自分にあったのかもしれない。別に姿は正直どうでもいいのだ。しかし、その姿を用いて示したその「覚悟」の強さがまだ受け入れきれてないのだと思う。

 表現者として、今後もそのエゴを存分に出してもらいたい。ただ、あの人がたどった道とは別の線を歩いてほしい。



これが僕の「わがまま」
やっぱり神椿が好きなんだろうな、僕

 


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