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北九州という街(環境編)

少し、仕事関係のことばかりですので、たまには息抜きを。

北九州市ってどんな所?

自分の住んでいる街を調べてみます。                 北九州市の歴史は、明治に入り、日本の産業近代化により鉄道のレールや大きな船舶を作るため多くの鉄が必要で、多くは外国からの鉄製品を輸入に依存していました。そこで政府は、国内で鉄を作りたいと考え、現在の北九州市八幡に、日本で初の銑鋼一貫製鉄所・官営八幡製鐵所が操業を開始しました。現在、官営八幡製鐵所の関連施設は世界遺産に認定されたことで多くの方に知られることになりました。

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官営八幡製鐵所は、当時岩手県の釜石鉱山田中製鉄所に続き、日本国内で2番目の製鉄所で、明治34年(1901年)官営製鉄所として操業開始以来、一貫して日本鉄鋼業界のリーダーとしての役割を果たしてきました。第二次世界大戦前(昭和9年/1939年)には日本の鉄鋼生産量の過半を製造する国内随一の製鉄所でした。中国大陸の鉄鉱石や筑豊炭田の豊富な石炭を利用した重化学工業は、当時の日本政府の経済政策を背景に大いに発展し、北九州市は日本の四大工業地帯の一つとして発展しました。1960年代、産業の隆興に伴い、日本は急激な経済成長を遂げました。特に鉄鋼、機械、化学などの重化学工業は、その牽引的役割を担いました。一方、「経済の成長」と「産業の興隆」は、同時にそれまで経験したことのない公害問題をもたらしました。現若松区の洞海湾は、閉鎖性水域であることに加え、工場からの未処理排水や市民の生活排水が流入することから汚濁が進行しました。1969年の調査では、洞海湾の溶存酸素量0.6mg/l、化学的酸素要求量(COD)48.4mg/lを記録し、大腸菌でさえすめない「死の海」と言われました。

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ここからが、我が街北九州の自慢できるところです。このような、経済活動の反面として起きた環境問題を、市民、企業、行政が一体となって他の自治体に先立って公害対策を実施しました。 

公害問題に対して最初に声を上げたのは、子どもの健康を心配した母親たちの市民運動でした。                        「青空が欲しい」というスローガンを掲げ、自発的に大気汚染の状況を調査し、その結果をもとに企業や行政に改善を求める積極的な運動を起こしました。

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企業は、生産工程の改善、汚染物質の除去処理施設の設置、工場緑化などの対策を積極的に行いました。これらの対策を進めるうえで、排水処理・排ガス処理などの排出口での対策技術だけでなく、製造施設や工程の改善、省資源・省エネルギーを徹底することで環境への負荷を小さくする技術(低公害型生産技術=クリーナープロダクション技術)が導入されました。
 この技術は、環境改善だけでなく生産性を向上させる経済的効果をもたらしました。

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北九州市の行政は、市民の声を受け、迅速な対応を実施しました。
 その一つに、公害対策組織の整備があります。公害の状況を常時監視するための公害監視センターを設置するとともに、公害について科学的に研究するための組織を整備しました。同時に、公害防止対策を進めるために必要な財政措置や規制制度の整備、法の限界を補完するための企業との「公害防止協定」の締結、下水道や緑地の整備、廃棄物焼却工場や処分場の整備、被害者の救済など次々と画期的な環境対策を実施しました。さらに、洞海湾では、水銀などの有害物質を含むヘドロの大規模な浚渫を行いました。

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かつて七色の煙と言われ、日本一の降下ばいじんを記録した空は、1987年には環境庁から「星空の街」に選定され、1988年には「第1回星空の街。あおぞらの街サミット」を開催するまでになりました。

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「死の海・洞海湾」は、工場排水の規制、下水道の整備、行政と企業が一体となって進めた浚渫事業等の成果によって、水質が大幅に改善され、現在では100種類を超える魚介類の生息が確認され、多くの野鳥が飛来するまでに回復しました。

日本初の近代的製鉄所の操業と繁栄、そして発生した深刻な公害問題を克服したのは、市民・企業・行政一体の取り組みの成果でした。今では、北九州市は国から「環境未来都市」として選定されました。

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https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kankyou/file_0269.html             


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