ある歌うたい


1月27日。
今日は俺にとって、大事な友人が亡くなった忘れられない日だ。
生きていれば何歳だったかな。

出会った場所は東京の高円寺。わりと長く愛着を持って住んでいた街だった。

当時は何しろ酒臭い街で、売れないバンドマンや芸人が明け方までたむろしているし、ちょっと歩けばレコード屋にコインシャワー、名曲喫茶なんかの昭和の香りにむせかえるようだ。古着屋も多数あるが、下北沢の洒落感とは似て非なる場末感。
朝まで飲むのは当たり前。ここに住むと結婚できなくなるけどいいですか?そんな居心地の良さがあった。
そんな街で俺たちは知り合った。いつものように飲んだくれた帰り道。

閉店した時計屋のシャッターにもたれかかり、気持ちよさそうにアコースティックギターを弾く奴に俺は吸い寄せられた。
聴いてみると俺も好きなミスタービッグのバラードをアップテンポで歌っている。アレンジしているがなかなかのセンスだ。しかも上手いなんてレベルではない。こう弾いたらいいのに、こう歌ってくれればもっと気持ちいいのに…というフラストレーションがない。ど真ん中に叩きこんでくる、それはプロの音だった。

「もう帰んねんけど」
声を掛けられ、ようやく自分が呆けていたことに気づいた。
「すごいな、お前!」
俺は思いつくままの賛辞を送った。俺も少しかじった程度だが音楽をやっていた。
この街には掃いて捨てるほどストリートミュージシャンがいるわけで、いちいち立ち止まって聴いたりはしない。すげぇ奴を見つけたと心が踊った。
奴もいろんな話をしてくれて、大阪から出てきたばかりという。ハードロックが好きだが生活の手段としてフラメンコギターの奏者をしていることを教えてくれた。
「ギタリストちゃう、ギタリスタ云うねんで」
「歌が好きなんや」
そう言い切る奴は気持ちいいくらいだった。

それから奴は路上に立つ時は連絡をしてきた。差し入れはミルクティがいいとか弦を買ってきてだとか我が儘も言うが、こんな歌を聴かせてもらえるのた。文句はない。

俺は奴の紡ぐ音にどんどんのめり込んで行った。
じきにライヴなどを持ちかけるようになった。
音楽家というのはえてして人づきあいやプロモーションが上手くない。それは得意な俺がやればいいと思った。
コンパニオンのコの字どころがバーすら知らなかった奴を悪場所に連れ回した。

半年も経つころには奴も月2回は都内でライヴをこなすようになり、俺も新曲を作れとハッパをかけていた。
「龍、いつもありがとな」なんて言うようにもなった。

あるライヴの日だ。5組が出るライヴで奴は3番めだったが、朝からメールすら返してこない。次第に出番が近づき、とうとう奴は表れなかった。諦めて次のバンドに出番を譲り、関係者にも平謝りをしたがそれはよく覚えていない。
ただ、裏切られた怒りだけがあった。

元々にルーズなところがあった。部屋はいつも散らかっていて、積み上げていたスコアが崩れても直しもしない。ジーパンもあちこちに脱ぎ捨ててある。

短いメールで怒りを綴ると、躊躇いもなく送信した。



それから5日ほど後のことだ。
奴が死んだことを、抑揚のない警察官の声で聞いた。


心筋梗塞だった。突然だったようでベッド周辺はいくらか乱れていたものの、そんなに苦しんだ形跡はなかったようだ。
おかしな薬もやってなかったはずだ。何しろ奴には金がない。本業のギャラが入ってもすぐ道具や機材に使ってしまうのだから。

携帯は俺のメール、電話で埋め尽くされていたそうだ。
葬儀は八王子の斎場で、奴の母親と数人だけの密葬で行われた。その時知ったが奴の家は母子家庭で、奴の成人後、母は再婚し東京に移り住んでいたという。

何が「世が世ならアタシはお嬢様」だ。

涙は出なかった。
だが、帰り際に「ここは駅から遠いからタクシーでお帰りなさい」と差し出された一万円札のざらつきで決壊した。

児童館で初めてギターを習ったこと、母親の男に度々殴られていたこと、高校生で中絶をしたこと、のど自慢に出て鐘2つだったこと…
全部聞いてやったからな。

タクシーの窓から高尾山を眺めると、雲に繋がる煙はあいつの髪と同じオレンジ色をしていた。

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