2024年5月18日に開催された説明会に参加してきました。発掘調査の成果について埋め戻しをする前に説明会を開催することが多いのですが、今回のものは、既に発掘調査後の…
後期清須城の石垣の一部が検出され、現地説明会が行われるとのことで、行ってきました。 今回の調査区は「23C区」と呼ばれており、現在の五条川のすぐ脇となる場所でし…
中世城郭として、遺構の残りが良く、その土木量が圧巻であると評判の高い小幡城跡(茨城町指定史跡)を訪問しました。数年前から、ずっと訪れてみたかったのですが、下調…
2024年2月、普段は非公開エリアとなっている西小天守が初公開されました。特別公開終了前最後の週末に、予定をやりくりして訪問してきました。 西小天守の機能 連立式…
遺構はほとんどないと思われていた坂本城の石垣が発見されたとのことで、急遽、現地説明会が開催されました。事前申し込みはないけれども定員制ということで、見られるか…
令和6年2月4日(日)に開催された「特別史跡安土城跡発掘調査現地説明会」に参加してきました。その模様を一部だけですが、レポートします。 発掘調査のあらまし 【こ…
訪問日:2023年12月28日、2021年11月14日、2020年9月20日 滋賀県(近江国) 【城の概要】 1572(元亀3)年、明智光秀によって築城された。織田政権下で志賀郡の統治を…
新井智重
2024年5月25日 21:58
2024年5月18日に開催された説明会に参加してきました。発掘調査の成果について埋め戻しをする前に説明会を開催することが多いのですが、今回のものは、既に発掘調査後の埋め戻しが終わっており、発掘の成果に基づいた城跡の整備状況についての説明会でした。 個人的には、前回箕輪城を訪問したのは2017年だったので、いろいろと整備もすすみ、変わっていることもあるだろうということで、この機会に再訪しました。
2024年4月14日 22:51
後期清須城の石垣の一部が検出され、現地説明会が行われるとのことで、行ってきました。 今回の調査区は「23C区」と呼ばれており、現在の五条川のすぐ脇となる場所でした。2012年につくられた後期清須城の想定復元図では、城の北端に当たるとされたところでした。 今回の発掘調査では、下層部から以前に検出された石垣列の延長部と見られる石垣が見つかり、上層部からは瓦溜まりが見つかりました。瓦溜まりは既に
2024年3月16日 23:16
中世城郭として、遺構の残りが良く、その土木量が圧巻であると評判の高い小幡城跡(茨城町指定史跡)を訪問しました。数年前から、ずっと訪れてみたかったのですが、下調べしていたバス路線が朝夕のみの運行になってしまい、公共交通機関では訪問不可能なのかと諦めていました。ところが、昨年末に別のバス路線があることがわかり、ちょうど水戸での展覧会を見がてら、訪問することにしました。アクセス 水戸駅から関鉄
2024年2月29日 00:05
2024年2月、普段は非公開エリアとなっている西小天守が初公開されました。特別公開終了前最後の週末に、予定をやりくりして訪問してきました。西小天守の機能 連立式天守の櫓群は天守曲輪を構成していますが、ここへ接近・進入するには西側からアクセスするしかありません。西小天守は、このルートをすべて見下ろせる位置にあり、天守曲輪の防御拠点と考えられます。また、地下2階に水の六門が設置され、水の五門と
2024年2月12日 16:36
遺構はほとんどないと思われていた坂本城の石垣が発見されたとのことで、急遽、現地説明会が開催されました。事前申し込みはないけれども定員制ということで、見られるかどうかはわからない中でしたが、まったくノーチャンスではなさそうなので、現地に行ってきました。現地到着 前日の10日にも説明会がありましたが、SNSの投稿で大勢の人が訪れているという情報は入っていました。投稿は説明会に参加できた人たち
2024年2月6日 19:35
令和6年2月4日(日)に開催された「特別史跡安土城跡発掘調査現地説明会」に参加してきました。その模様を一部だけですが、レポートします。発掘調査のあらまし【これまでの発掘調査成果】 昭和15~16年 天守台穴蔵の整備(天守礎石の発見) 昭和40~50年代 史跡の環境整備(石垣の修理) 平成元~20年 大手道の整備、天守台北西、北北西隅確認 (平成12年 本丸取付台の礎石配列確認調査)
2024年1月14日 23:18
訪問日:2023年12月28日、2021年11月14日、2020年9月20日滋賀県(近江国)【城の概要】 1572(元亀3)年、明智光秀によって築城された。織田政権下で志賀郡の統治を任された光秀の居城であった。本丸が琵琶湖に面した水城であり、当時の宣教師フロイスの記録によると、安土城に並ぶ豪壮華麗な城であったという。また、公家の吉田兼見の記録によると、大天守と小天守をもつ城であった。15