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ライ麦畑でつかまえたかったのは、陽菜じゃなくて帆高だ。

『天気の子』を一年ぶりに観て、一年前の自分を思い出した。あのときの僕はホールデンだったし、帆高でもあった。
でも今になって観てみると、そうじゃない気がしてきた。

2019年の夏、就活が嫌いだった。コンテンツプランナーになりたかった自分は、本当は就活なんかしないで自分のつくるコンテンツで食っていきたかった。でも僕にはフリーランスのコンテンツプランナーとして生きていく力はなくて、渋々就活をしていた。だから就活も、就活をしている僕自身も、本当に嫌いだった。
就活はインチキな大人の社会の縮図だった。面接はみんな嘘を並べる。社員も都合のいい言葉ばかり並べる。自分を偽れなかったぼくにとって、一貫性をもった「何者か」を求められる就活市場は窮屈だった。また、コンテンツプランナーとして「面白いこと」を仕事にしていきたかった僕は、「面白いこと」だけじゃ生きて食っていけないことに薄々気づき始めていた。自分の思う「面白い」を妥協しないでいられるほど才能のない僕は、「売れる」ものを作らなければならず、それがたまらなく嫌だった。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、そんな時期の僕の心に刺さった。
『ライ麦畑でつかまえて』をざっくり説明すると、高校を退学させられた主人公のホールデンが、インチキな社会や大人への嫌悪や反抗を示しながらニューヨークを放浪する話だ。子供の無垢さを愛するホールデンは、物語の終盤で「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいと妹に話す。ライ麦畑で遊ぶ子供が、崖から落ちないように捕まえる役。これは、無垢な子供がインチキな大人に堕ちないようにしたい、という意味だと僕は解釈した。(ライ麦畑を社会に見立てて、ドロップアウトしないように、と解釈した人もいる)
僕は『ライ麦畑でつかまえて』と自分の境遇を照らし合わせて、「面白さを追求すること」を無垢さ、「売れるものをつくる」ことや就活をインチキな社会に見立てて、自分をその狭間で葛藤するホールデンと重ね合わせた。

そんな折に、『天気の子』が公開された。『天気の子』の主人公・帆高が持っていた本は村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だし、ラストの「降りやまない雨」は『ライ麦畑でつかまえて』のラストシーンのオマージュである。また、セカイ系の文脈で言っても「セカイかキミか」という構図から社会が抜け落ちていることからも、『天気の子』は『ライ麦畑でつかまえて』と同じ「社会の否定」というテーマを抱えている。

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ここで少し余談だが、サークルの先輩のnoteを紹介する。

本記事に関係する部分を要約すると、従来のセカイ系における「社会の否定」は社会が登場しないことであって、「世界の運命を背負う少女から無条件に愛される」という構図は社会から受け入れられなかったオタクたちのマチズモを充足させた。その一方で『天気の子』には社会が主人公たちを阻む存在として登場する。キミを救うことを阻む社会に反抗する、という新しい形はセカイ系の文脈を書き換えた。
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閑話休題。
就活を通して社会への窮屈さを感じていた僕は、天気の子に随分と救われたと思う。天気の子は、「セカイではなくキミを救う」という反社会的な帆高の選択を肯定してくれた。それも無責任に肯定するのではなく、帆高と陽菜は自分たちの選択の責任を自覚したうえで、自分たちは「大丈夫だ」と肯定する。RADWIMPSの『大丈夫』のサビと『天気の子』のタイトルロゴで、映画は締めくくられる。この映画は、就活という「社会的に正しい」選択が求められる場所を否定し、そこで自分勝手な選択を行うことを「大丈夫」と後押ししてくれた。
須賀や夏美の存在も大きかった。二人とも最初は「インチキな社会の一員」としての役割を演じるが(須賀の「大人になれよ」といったセリフや、就活をする夏美の姿からもわかる)、物語の終盤で社会的な役割を放棄する。窮屈な社会に縛られていた人間が、終盤でそこから抜け出し、帆高の「自分勝手な」選択を手助けする。その光景はカタルシスだった。
(余談だが、この映画を観た後に参加した広告代理店のインターンを通して、自分の中のモヤモヤに一旦の答えを出すことができた)

僕はこの映画を、帆高とホールデンと自分を重ねて観ていた。今から考えると、帆高が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を持っているシーン(帆高が自分をホールデンと重ね合わせている姿は容易に想像がつく)がそれを助長していたのだろう。社会を否定する帆高を美しく描くことで称賛し、大合唱によって肯定する。

しかしもしかしたら、そうではないのかもしれない。先日映画を観たときに、そう感じた。

自己矛盾を孕みながら社会に悪態をつくホールデンに対して、帆高の思想ははっきりしている。ホールデンは社会を否定し無垢に憧れつつも、自分自身が「インチキな社会」に片足を突っ込んでしまっているという自己矛盾を孕んでいた。一方で帆高は「キミ」を選ぶことに一切の迷いがなかった。陽菜が消える前は「この雨が止んだほうがいい」と呟いたものの、陽菜が消えてからはずっと陽菜を救うことに一心不乱だった。その選択を邪魔する社会を否定して、社会から逃避する。そういう意味で、帆高は社会を否定することに純粋で無垢だった。

その無垢さこそ、ホールデンが憧れていた存在なのではないだろうか。
帆高とホールデンを重ねて論じる人は多かったが、実は帆高はホールデンそのものではなく、ホールデンがライ麦畑でつかまえたかった存在なのではないか。

つまり、帆高は自身をホールデンに重ねる一方で、実は彼こそがホールデンが守りたかった無垢そのものなのだ。そう考えると、『ライ麦畑でつかまえて』のアンサーとしての『天気の子』は、帆高がライ麦畑で陽菜をつかまえる物語ではない。ライ麦畑で遊ぶ無垢な帆高を、ホールデンが、そして観客が、つかまえる物語だ

僕たちはきっと、ホールデンが雨の中回転木馬に乗るフィービーを眺めたように、永遠に降りやまない雨の中にいる帆高を、幸福に眺めていたのだと思う。