15.Jul.2020

日頃から、自分にとっての常識は誰かにとっての非常識である、と言い聞かせて生活しているのですが

それは、他人に過剰に期待せず、誰とでも同じ土俵で議論をするために大切なことだと思っているし、そう思えるようになってから周囲にいる人々と自分を比べて落ち込む、みたいなことも少なくなっていた。

まあ、ここまでと同じようなことは何回も過去に書いた(話した)ことがあって、私と仲が良い人なんかはハイハイ、あの話ね、くらいの感じかもしれない。

でも、わざわざ「言い聞かせている」と書いたくらいで、たまに冷静になれずに自分の常識を振りかざしてしまうことがある。

その度に後悔して恥ずかしくなって、ということを繰り返してそれがだんだん少なくなってきたはずだったのだけど
先日久々にそんなことがあって今、なんだかめちゃくちゃ落ち込んでいる。

自分の同期のほとんどは今年就職活動をしていたので、彼らと飲み会をするとほぼ決まって就活についての話になったり、これから就活をするであろう私に対してのアドバイスをくれたり、という感じで
それに対して私はまあそんなもんか、と思って真面目に聞いたり聞かなかったり、というスタンスでいた。

そんな中で私と同じような状況にいる友人と話をしていた時に、その人は「自分も来年就活の話を飲み会でするようになるだろうし、過去の自分がカッコ悪いと思う自分になりたくないから別に就活の話を積極的にする人々を否定しない」というようなことを言っていて

それって結局否定していることにならないか?と思って、私は他人と自分は全く違うものだと思っているからうんぬんかんぬん、みたいに返したのだけど、
後になってそれってすごく的外れな返答で、冒頭に書いた『「自分にとっての常識は誰かにとっての非常識である」という自分にとっての常識』を押し付けていただけなのでは、と気が付いてとても申し訳なく思っている。

別にその人は誰かを否定していたわけでもなく否定しない、という自分の意見を述べただけであってそれに反論する権利なんてない訳で

過去の自分がカッコ悪いと思う自分になりたくない、と言ったその人みたいに長い視点で物事を考えることができない私には、それが羨ましくもあり、冷めているようでつまらなく思えてしまったりして、覚えた違和感のまま咄嗟に無神経な発言をしてしまった。

就活の話をする同期のことも先日話した友人のことも違う人間だ、と割り切っているように見せて結局私は自分の意見に固執してしまっていた。

さも心が広くて謙虚な人間であるかのように振る舞うのが前より少し上手くなっただけで、本来の心が狭くて傲慢な私はぜんぜん消えていなかった。

と、文章にすることでより落ち込み始めているわけですが

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Base Ball Bearの『いまは僕の目を見て』という歌の中に、

「正しく」より「間違わずに」伝えることに慎重になる

という歌詞があって、この場合私は「間違わずに」友人の言葉を受け取り、「正しく」自分の言葉で返すべきだった、と思う。

異なる環境で異なる人間が考えていることなんて、完全に分かるはずないけど、その努力を惜しむ理由にはならない、と改めて痛感した。

しばらく自分にとっての課題になるだろうな、と思うので、備忘録としてここに残しておきます。

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