パチプロからフィリピンで起業。3000万円の詐欺から脱した僕のキャリア


僕は現在、エンジェル投資家としていくつかの事業に投資をしたり、ビジネスのメンターとして海外事業を支援したりしている。

ところが、キャリアのスタートはパチプロだった。

まったくの正規ルートではない僕が、どうやってビジネスを学び、大きくしてきたか――。少しだけ、昔話に付き合っていただきたい。

フィリピン在住の事業家にビジネスを教わる

大学受験に失敗して一浪し、パチスロにハマった。数字が好きだったからか、理論的に台を攻略して、確実に勝つ方法を会得していった。徹底的に研究して、コンスタントに勝てるようになっていく。勉強のほうはたいしてしないまま何とか福井の大学に合格したものの、授業には出席せずパチスロ三昧だった。

年収は大卒の初任給以上になっていたから、周囲には「教えてほしい」という人がたくさん集まってきたし、仲間もいた。ところが、パチスロにハマりすぎて大学を三留し、仲間だと思っていた人たちはどんどん就職していく。僕ひとりが取り残され、ずっとパチスロを打っていた。今思うと、とても堕落していたと思う。

大学を中退したら、本当にただの「パチプロ」になり、社会から取り残されてしまったという虚無感に襲われた。食べていくには困らないが、人と接することもない。当時24歳、絶望のなか、毎日をただ過ごしていた。

「このままではいけない」と気ばかり焦っていたころ、ネットワークビジネスに誘われた。半年ほどやってみたが、うまくいかない。でも、そのつながりから、ある事業家と知り合うことになる。

福井出身で、フィリピンに住んでいる事業家の人がいるという。「話を聞いてみないか?」と言われ、彼が日本に来たタイミングで会ってみることにした。その人を、僕たちはその後「先生」と呼ぶことになる。

4~5名で喫茶店に集まると、先生は「君たち、何やってるの?」と聞いてきた。ネットワークビジネスを辞めてパチプロに戻っていた僕は、説教を食らうことになる。

「そんなことやってちゃダメだろう。これからの日本は、少子高齢化で大変な時代が来る。君たちみたいな若い者が頑張らなくちゃ、日本の将来はないぞ」

ひとしきり持論を語った後、財布から1万円札を取り出したかと思うと、面白いことを言いはじめた。

「君たちにはこれが何に見える?」

「1万円札……ですか?」

「私にはこれが商品に見えるよ。これを使って、何百倍、何千倍にもできるんだ」

当時ベストセラーだった『金持ち父さん 貧乏父さん』を読んでいたので、なんとなく意味は分かった。「お金を自分のために働かせてお金を増やす」といった考え方なのだろう。ただ、周囲にそのようなことを話している人はいなかったので、がぜん興味が湧いた。

先生は、フィリピン人の女性と結婚しており、フィリピンに移住してセミリタイヤの生活を送っているという。

「海外に興味があれば遊びにおいで」

そう言って、その日は別れたのだった。

フィリピンでビジネスの理論とリアルを学ぶ

僕たちは全員がプラプラしていて時間があったため、みんなでフィリピンのマニラに遊びに行くことにした。先生は僕たちを1週間ほど自宅に泊まらせてくれて、いろいろなところを案内してくれた。そればかりか、毎日午前中にはファイナンスの勉強会を開いてくれたのだ。

「世の中の経営者のほとんどは、BS/PLをまともに読めない。君たちは数字を読めるようになりなさい」

そう言って、毎日講義と問題集で勉強をさせられたのだった。

「おおよその原価率は、卸業なら9割、小売りなら7割、サービスは5割……」

といった実践的な数字も頭に叩き込んでいった。さまざまな企業のケーススタディを学びながら、1週間ほど問題を解き続けたのだ。

午後になると、フィリピンのモールに連れて行ってもらい、現地の人たちの雰囲気を感じ、コミュニケーションしながら商売の空気を感じていた。

僕たちは、こんなによくしてもらってキツネにつままれたようでもあるし、知識がついて世の中が見えたような気持ちになり、浮足立ってもいた。

最終日、先生は次のように言った。

「これから、ここにいるメンバーで会社を作ってみないか。会社は、建物や土地がなくても作れる。ただの紙切れなんだ」

「何をすればビジネスになるか見当もつきません」という僕たちに、先生は「ずっと構想していた」というビジネスプランを教えてくれた。

「日本は少子高齢化で、年配の人がどんどん暮らしにくくなっていく。そういう人がフィリピンに移住して、余生を楽しめる村を作っていきたいと思っているんだ。一緒にやらないか」

僕たちは、二つ返事でOKした。まず、移住する人が建物を作る必要があるから、建設資金を集める必要がある。ゴルフの会員権のように、「ホーム権利」という権利を売って先に資金を集めておき、それを軍資金にして理想的な村を作ろうという構想だった。

僕たちは、友人知人にあたり、懸命に「ホーム権利」を売って歩いた。

3000万円の借金を背負う

僕たちは日本でさまざまな人にホーム権利を売り、お金を集めた。先生に話を聞く限り、事業は順調に進んでいたはずだった。協業していた若者は7~8人ほどで、その先には数千人の会員がいるグループができていた。

「Tommy君、君は一流になりたいか?」

ある日、先生に聞かれた。

「はい。なりたいです」と言う僕に、先生は次のように言う。

「一流になりたいなら、一流のものに触れることだ。ハイアットホテルに行けば、そこに集まる人や建物、食事など、一流のものに触れられ、一流の雰囲気を感じることができる」

ほかによく言っていたのは、「鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅご)となるなかれ」という故事成語。

「大きな組織の下っ端として働くより、独立した小さな組織のトップでいる方がいい。たとえ社長一人の会社でも、鶏がいくら小さくても、バタバタと先頭を走っていることが大事なんだ」

そういって、よく僕たちを鼓舞してくれた。

4~5年の間、事業を進めていたが、ある時突然、先生と連絡が取れなくなった。つまり先生は、僕たちが集めたお金を持ったまま「飛んだ」のだった。

最初から僕たちを騙すつもりだったのかは、わからない。本当は、事業を成功させてハッピーエンドにして終わりたかったんじゃないかと思う。でも、途中から経営がうまくいかなくなり、パンクした。ボスやキングという立場にいたかったばかりに見栄を張って、経営難を僕たちに言い出せなくなっていたのかもしれない。

僕は、友人知人から3000万円ほどのお金を集めていた。こちらに有利な契約書を交わしていたから厳密には返す必要がなかったが、それでは自分を許せない。絶対に返すと心に誓った。

つまり僕は、3000万円の借金を背負うことになったのだ。

自動売買ソフトの開発

高額な借金を負ったものの、幸いにも、フィリピンの事業以外に自分の事業を立ち上げていた。数字が好きなので、FXや株式投資の自動売買ソフトを開発・販売していたのだった。

福井県出身の証券会社の人と知り合いになりセミナーをやらせてもらうなどして宣伝し、ソフトは比較的順調に売れていった。

扱っていたソフトは、個人向けにしては高額だった。機能としては十分なソフトだとしても、運用するのは人間だ。投資は運用する人の心理的な側面に左右されるため、当然負けることもある。

自動売買ソフトを使って損をしたとなると、僕たちにクレームが来る。アフターサポートに時間を取られ、なかなか利益があがりにくい事業モデルになってしまった。

そこで気が付いたのは、証券会社の手数料のモデル。ある海外のFX会社は、お客さんを紹介すると手数料からバックしてくれる仕組みがあるという。

ひらめいたのは、自動売買ソフトを無料でお客さんに提供する代わりに、そのFX会社を使ってもらうという仕組み。そうすれば、お客さんもリスクが少なく、負けても僕たちのソフトにクレームがつきにくい。

その事業を皮切りに、FXの分野で起こした別の事業もうまく回るようになり、借金は13~4年かけて返済することができた。

僕はずっと、先生を恨むような気持にはなれなかった。パチプロ時代から、いろいろなことは自己責任だという考え方が身に付いていたのだろう。誰かに守ってもらったことなどないから、全部自分の責任で生きるしかなかった。また、先生のおかげでビジネスを学ぶことができたし、自分の人生が変わっていったのだから。

他の協業者には、先生の居場所を探したり、裁判をしようとしたりした人もいた。でも、そんなことより、自分の事業で稼いで取り戻す方がいい。そう考えたことで、むしろ事業を頑張れた側面もあったように思うのだ。



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