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神武天皇が打たれた毒気とは

本日は建国記念の日。神武天皇が即位したといわれる日である。

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さて、神武天皇の出身地は今でいう宮崎県日向の地。そこから東遷し、奈良に入ろうとするも豪族に撃退され、和歌山から熊野を通って、ついに奈良に治めることとなった。

さて、ではなぜ神武天皇(日向では神日本磐余彦尊)は、なぜ東遷しようとしたのか? この点を知る人はあまり多くないのでないか。
日本の歴史を記した記紀によると、塩土老翁(しおつちのおじ)にこういわれたからとある。

「東に美地有り。青山四周れり」

「東に行くと、四方を青山に囲まれた美しい土地があるよ」、たったこれだけといえばそれまでか。

そして兄弟とともに東を目指すのだが、長髄彦に撃退され、長兄が亡くなる。やむなく迂回し、海でさらに二人の兄を失いながら、熊野から上陸を果たす。しかしその後、一行は毒気に打たれて瀕死の状態となる。
この毒気とは熊に姿を変えた神といわれている。よもや事実ではないだろうが、ではこの熊に姿を変えた神が放った毒気とは何なのか。

ここでこの本「邪馬台国は『朱の王国』だった」が参考になる。

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朱とは硫化水銀(HgS)。酸素と結合させ、朱と硫黄を取り出すことができる。朱は「丹(に)」とも呼ばれる。日本全国に「丹」のつく地名は多いが、いずれも朱に関係しているとみられている。

そして神武天皇一行が熊野上陸時に撃退した豪族は「敷戸畔(にしきとべ)」だという。「丹」を操った者なのか定かではないが、丹敷戸畔にしてみれば、海から襲ってきた一行に対し、最後の反撃として朱からとれる硫黄か水銀を放ったということも考えられる。

そもそも神武天皇自身も、「東にいいところあるよ」といわれただけで東遷しようと考えたとは思えない。何しろ妻と2人の子を日向に残しているのである。いくら大志を立てようとはいえ、そこまでして東に向かうもっと深い理由があったと見るべきなのだろう。
邪馬台国は『朱の王国』だった」の著者蒲池氏は、神武天皇が日向に残した妻の名は阿比良姫(あひらひめ)で、現在の鹿児島湾を構成する姶良カルデラと関係があると推測している。つまり神武天皇も朱を求めて東遷したのではないか、というのである。
もちろん仮説にすぎないが、さらに深く検証してみたくなるテーマである。

さて、毒気にあてられた神武天皇一行を救ったとされるのが、高倉下と呼ばれる熊野の民で、天照大神が下した一横刀を持って駆けつけ、その霊威で窮地を救ったという。
そしてこの高倉下は、東海地方を根城としていた尾張氏の祖先といわれ、その尾張氏は現在の熱田神宮の神官にもつながる。熱田神宮の御神体は、あのヤマトタケルも草薙剣(天叢雲剣)である。やはり刀剣になにか関係がありそうで、このあたりもさらに研究してみたいポイントなのである。

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