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ウイルス感染に怯えた恐怖の3日間。続〜僕はフットボールに生かされている。〜

OWL magazineをご覧の皆様こんにちは。
ジブラルタルという国でサッカー選手をしております冨澤拓海です。

ジブラルタルというのはスペインのアンダルシア半島の最南端にある、人口3万人強のイギリス領の国です。ジブラルタル1部リーグのチームと契約しスペインの住居をチームから提供されていたので、僕はロックダウンを経験しました。

チームから帰国の要請を受け帰国することになってからトランジット先のロンドンで新型コロナウイルスに感染したのではないかという疑惑が出てからの流れを執筆していきます。

前回の記事をまだ読まれていない読者の皆様はこちらからご覧ください。
https://note.com/tomifootballer/n/n2d455a716efb

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長旅を終え日本に到着したことが
僕と見えない恐怖との戦いのキックオフだった。

見えない恐怖というのはウイルスに限ったことではない。
多くの人からウイルス感染したことが悪だと思われる、感染によって周りの人に迷惑がかかる、SNSで悪者扱いをされるのではないかという心理的な圧迫感と恐怖にも苛まれていたのだ。

飛行機で就寝できるまでもとても息苦しかった。
咳をしたらバイ菌扱いされるのではないか、自分が感染していたら多くの乗客の人に移してしまうのではないか、自分の死よりも他人を感染させてしまい僕1人が死ぬのではなく僕が日本中の人を殺めてしまうのではないかという恐怖にである。

元々ジブラルタル、スペインにいる時から友人等には話していた。
「アジア人差別と同じですけど、感染者の公表って身バレをしてしまったらその人が悪者みたいな風潮があって嫌じゃないですか?」と。

ウイルスが人を死に至らせる可能性があるだけで、コロナウイルスチャレンジ等をやっていた人などを除き多くの人が、望んでウイルスに感染しているわけではないからだ。
しかしそう言ってはいたもののいざ自分がそうかもしれないとなった時には自分が迷惑をかけてしまうのではないかと思った。

だから今この記事を読まれている方だけでも良いから、皆さんリスペクトし合ってほしい。もちろん予防を各々がするのはもちろんのことだけど、感染してしまうことが悪いことではない。全世界の人間がほぼ平等に感染するリスクがある、恐ろしいものであるということをこの記事を通して再度感じてほしい。

前置きが長くなってしまったが空港に到着してから僕は飛行機に乗る際、基本的に最後尾の座席を取るので全員の客が降りてからゆっくりと飛行機を後にした。
検疫で多くの人に見られながら係員の人に声をかけるのは目立ちそうで嫌だったのととにかく混雑を避けたかったからという理由がある。

病は気からという言葉があるように、空港に着いた時も自分がウイルス感染した気でいるため心なしか身体もだるく感じた。咳がたまに出ているぐらいだけの症状ではあったのだけど。

それでも何名かはお手洗い等で同じタイミングで検疫の場所に到着した。
その時は3月19日でまだ帰国者は2週間の自主隔離も強制ではなかったしPCR検査の検体数も多くはなかった。だから空港でも「イタリア等該当地域に渡航歴のある人は申告してください」というものだけだったので僕の住んでいた地域、そして僕の渡航した地域は該当ではなかったのだ。

係員の人に自ら声をかけた。

「すみません。該当の地域に渡航したわけではないんですけど、検査を受けたいのですが検査は受けられますか?」

一語一句忘れてないから冷静を装いながら相当緊張してたんだと思う。

僕の性格として試合前の状況やPKになった時の記憶がすごい残っているように、緊迫感のあるタイミングでは、なぜか周りが俯瞰的に見える。
まるでその時と同じような感覚がした。

担当の方の返答は、
「サーモグラフィーで見ると熱はないのでそのまま通っていただいても構いませんよ。検査を受けられるのであればご自宅に帰るのは夕方ぐらいになりますがよろしいですか?」とのことだった。

確かにこの時期は僕もTwitterで多くの帰国者のツイートを自分のために調査として見ていたが、受けると時間かかるんですよね?みたいなツイートが多かったから検査を自ら希望する僕は異様だったのだろうか。

とりあえず体温を測り、シートに渡航歴、症状等を記入し担当医師を待つことになった。担当の方は僕がなぜ受けたがっているのかを疑問に感じながら、検査を受けたい理由を色々な角度から質問された。

僕が受けたかった理由は
①渡航した場所がアムステルダムやハノーファーだったこと
②諸症状があったこと(咳、喉の痛み)
③渡航経路が特殊であること(絶対に自分しかいなかったため)
④仮に感染していた際に両親に感染させてしまった場合その流れで祖父、祖母に移してしまうと死のリスクが非常に高まるから。

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特に④番が大きかった。
僕は今でも家族みんなにやたら事あるごとにハグをするほど親戚を含め、親族、家族が大好きだ。今回は感染のリスクを危惧して電話のみで会えていないのだが、一時帰国したらまず祖父と祖母の家に1人で行ってご飯を一緒に食べに行くほどまず会いたいと思っている。

だから僕は家族に会えないことよりも、
僕のせいで僕の周りの人が大事な人を失ってしまうことが嫌で仕方なかったのだ。

実はこんな実体験がある。
2年前祖父が風呂場で倒れて意識不明になった。

原因はインフルエンザに感染しており、それに気づかずお風呂に入り、風呂場で意識を失いお風呂の水を飲んでしまったことが経緯とのことだった。今後どうなるかわかりませんと医者の先生に言われた時にまだ人の死という経験があまりない僕にはその一言があまりに衝撃的だった。結局祖父は翌日先生も予想しない回復で意識を取り戻したのだが、緊急治療室に入っている祖父を見たときに絶句した。

実はその1週間前まで僕がインフルエンザに感染していた。
僕は直接会っていなかったのだけど元々病気だった祖父の面倒を母親が見に行っていた。

その時絶対に「僕のせいだ」と思った。
色々なところに行ってたから違うよと今でも言われているけど、今も僕が母親に菌を移してしまい母親は発症しなかっただけでそれを祖父に移してしまったのだと思っている。

今回もそうなるのは御免だった。
僕のせいで僕の大好きな人たちに苦しい思いをしてほしくなかった。

そして僕の渡航歴や、症状を話し、僕がいかにPCR検査を受けた方が良い人間かというのをアピールした。もちろんプロフェッショナルな方々の判断になるのは理解していたがどうしても受けさせてもらえるようなバックグラウンドを提示しようとした。
日本で子供達を指導していてイベントに参加する可能性が高いこと。
サッカー選手をしていてプレーしている国に日本人は1人しかいないことから感染していた時に多くの人に迷惑がかかることなどだ。

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その後問診を受けた結果、結論から言うと

空港で検査を受けることはできなかった。

症状が少ないからその対象ではないとのことだった。

その答えを聞いて絶望し、そのまま帰路につくことになった。
確かに2週間自主隔離をすれば良いのだけど僕は自由の身で外に出される。
僕のリテラシー次第で日本中の人にウイルスを感染させられるかもという状態で僕は放り出されたから。どうしても白黒つけたかった。

日本の対応として感染者による死者を増やしたくないという戦略なのはわかっていたし、そこへのリスペクトはあったけど実際に自分が当事者になった時は検査を受けたくて仕方がなかった。

ただ決まったことは変えられないので、父親に頼んで空港に迎えにきてもらい完全防備の父親と再会を果たした。父親の徹底ぶりは僕以上で除菌や換気も完璧だった。

その車内で僕の住民票のある千葉市の帰国者相談センターに電話をかけて検査の受診を希望した。保健所側の判断次第では受けられるかもしれませんと検疫で言われていたから。
千葉市の熊谷市長の方針は素晴らしく、僕はその可能性に非常に期待していた。

SNSもフォローしているぐらいいつも彼はすごいと感じるが千葉市民の僕は期待とともに電話をかけた。一度検討するとのことで電話が切れてから20分後ぐらいに電話があり検査を受けられることになった。

今回の経緯でより政治に関心を持つようになった。コロナウイルスのおかげで国、県、市町村でどう対応しているのか、どういう背景があるか。更に興味を持たないといけないと思った。もともと文句を言うのは好きじゃないから、発言はしてこなかったけど主張する必要はあると思った。

これから時間もかかるし、感染しているかもしれないのにハッピーな気持ちでいっぱいだった。その後の流れはスムーズで、受け入れ側の準備が整ってから検査とのことで2時間後ぐらいに病院へ向かった。

流れとしては隔離室に通されて体温を測って、血圧を測りその後問診。
そしてようやくインフルエンザとコロナウイルスの検査をすることになった。

僕は痛いのが嫌いなので、同時に2本とも鼻に綿棒を入れようとした看護師さんに両鼻に1本ずつ入れましょうよと言う余裕もありつつ検査を終えた。

検査で鼻に綿棒を突っ込まれてから、検査を受けられた安堵に緊張感が解けて隔離室で爆睡してしまった。かなりの時間はかかったみたいだったけどどのぐらい経過したかは覚えていない。

翌日が祝日で3月21日の土曜日に検査結果が出るとのことでそれまでは祖母には僕の部屋に移ってもらい祖母の家で待機することになった。
検査は受けたので後は結果を待つだけで外に出ることもなく家で仕事をしながらゆっくり過ごしていた。夜に咳は出ていたのでそのたびにドキドキしていたけど。

そして土曜日結果が出た。
その報告の電話はかなりあっさりしたもので、「陰性でした。」とだけ。
その後絶対ではないんですけど自宅待機をお勧めしますという感じで電話は終わった。

そこで安堵はしたけど検査の確率も高くないとのことだったので自宅待機して過ごした。日本に帰ってきたら会わないといけない人や会いたい人はたくさんいたのだけど殺してはいけないという使命感で耐えた。

そして自宅待機期間を終えて今に至る。
僕にとってはロンドンの空港で寝る前から検査を受けるまでの時間が濃すぎてジブラルタルがどうだったかとか、ロックダウンがどうだったのかというのを鮮明に思い出せない。国がどう動いたか、歴史に残る展開を脳裏に焼き付ける必要があったのに。国の政策を聞くことより自分が感染しているかもしれないということで当事者だと急に感じたからなのだろうけど。

まだ事態は収拾していないから経験として語るのは良いことではないかもしれないけど、あの出来事から様々なことを考えることになった。
生きるとは何か。何が1番大切なのか。日本がどれだけ優れている国なのか。組織の強さなどなど。

そして
フットボールより大事なものがあるのではないかということも。

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僕自身の進退問題などは自分をまださらけ出す勇気がないので有料部分でファンの皆様に向けて記していく。気になる方はフットボーラーとしての僕の冒険という船に一緒に乗ってほしい。


僕の人生では初めて起きた、世界中が見えない何かに脅かされ、世界が見えないものに支配されるというこの緊急事態。
行動を制限され会いたい人にも会えない日々が続いている。

恋愛でもよく言うように、失ってから気づくものはたくさんある。
僕らが今フットボールを失い苦しんでいること以上に大事な人を失う悲しみというのは計り知れない。

自分が死んでしまうかもしれないということではなく、大事な人を殺してしまわないように今を生きよう。
大事な人たちと今後も未来を想像できるように今できることをしよう。

それが僕がこの3日間で感じたことだ。

僕は今回の騒動でプレーヤーとしての仕事も、日本で子供達にコーチをする現場の仕事も一時的に失った。

僕の人生の目的は20歳の時から「サッカーと生きる」ことだった。
ただ今回で改めて気づいたけど
僕はフットボールに生かされている。

過去と未来を想像することにストレスを感じる人間という生き物が今抱える苛立ちを、フットボールを通して何か和らげられるようなそんなことを提供していけたら僕は真のフットボーラーになれるのではないだろうか。

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プレーヤーとしてだけではなくフットボールに生かさせてもらっているのだからフットボールと共に多くの人に希望と笑顔を届けたい。それはフットボールを見てもらうことでお金をいただいている自分の今やらないといけないことなのかもしれない。

あくまで今回2回にわたって執筆したのは自分の実体験であり、どれだけのリアリティが伝わったかというのは人それぞれであるがどれだけの恐怖が襲ってくるのかということが少しでも多くの人に伝わってくれれば嬉しいです。

少しでも周りの人を失わないためにみんなで今を生きよう。

以下は有料コンテンツとさせていただきます。
僕自身が今クラブから何を話されているか、そして世界各国のクラブがどのような対応を取っているか、話しても良いけどあまりネットにはあげてこなかったことをお話ししていきます。興味ある人はぜひご購読ください。

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PCR検査を受けてからというものフットボールとの関わり方を考えて、SNSへの発信も消極的になった。世界全体でフットボールを失ってから色々なことを考えて自分がたどり着いた考えがある。

僕はフットボールを失って初めてフットボールが自分の一部だったのだと気付いた。

フットボールを永遠に失ったことを想像し続けた。
そして僕は幼稚園の頃から始めたフットボールが常に身近にある存在だった。

だから僕はフットボールしか愛し続けることができないと思っているだけなんじゃないか。フットボールじゃなくてもそれ以外にも愛せる何かがあるんじゃないかと。今はフットボールが原動力になっているだけで他の仕事も始めてしまえばそっちにパッションを割けるのではないかと。

18歳で高校を卒業してから今まで、自分の道筋は全て自分で決めてきた。結局自分がどこに住みたいか、どこで何をやりたいかを1番に考えてきた。
今回初めてその答えに行き詰まった。初めて人に相談した。

結局自分が決めることだとわかってはいるけど。
ずっとウチで働けよと誘ってくれている会社の社長さんにも心決まっている状態ではないながら相談をした。違うことをやってみてそれでなおフットボールを選ぶのならば、それこそフットボールで生きていくべきだと思ったから。

膝の状態が思わしくなかったのもある。
18歳から毎年靭帯系や骨の大怪我に悩まされてきたので少し色々考えることがあった。

ただやはり僕はプレーヤーであることを選んだ。
自分の可能性ではなく、自分のやりたいことを1番に選んだ。

お金を稼ぐということにフォーカスするなら他のオファーを受けた。

ただ僕は自分のやりたいことの限界、いやその向こう側を見てみたい。

やりたいことは変わる。その先に何が見えるのかを考えるだけで今は楽しい。

今は過程がプレーヤーなだけで僕がやりたいのは「サッカーと生きる」なのでその立場は変わっていくのだと思う。プレーヤーより面白いものが見つかるかという僕の旅もとっても楽しみであるし、それは何なのか非常に興味がある。

ただ僕のフットボールプレーヤーという職業は最高だ。

僕の描く未来に一緒についてきてほしい。

監督からは今日の朝起きたら来シーズンまでのトレーニングプログラムが送られてきていた。僕の来季のヨーロッパでのチャレンジが今日から再スタートだ。


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