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記号としての写真は、撮影者の意図+鑑賞者の解釈で成り立つ

前回の記事で、写真は文字と同等であるとした。文字はまさしく記号だから、写真もまた記号なのである。

写真=撮影者の意図+鑑賞者の解釈で成り立つ

写真が文字と同様の機能を発揮して撮影者の意図を他に伝えるのであれば、それは、文字と同様、「記号」である。
しかし、文字は明確にその意味を他人に伝えることが可能であるのに対し、写真は、その意図するところの解釈を、その見る者側にある程度委ねなければならない。よって、写真の良し悪しは人によって大きく異なってしまう。

換言すれば、写真は、その送り手である撮影者の意図と、受けてである鑑賞者の解釈とがおり混ざって創出される融合表現であると言ってよいのではなかろうか。そういった点は、絵画や他のアートも同じだ、といえばそうかもしれないが、写真、特に被写体に手を加えない写真においてはその度合いはより大きいように思える。

そういったことを確かめようと、東京都写真美術館に行ってみた。折りしも、土門拳の「古寺巡礼」と深瀬昌久の1961-1991 レトロスペクティブが開催されていた。

土門拳の「古寺巡礼」

まず、土門拳の「古寺巡礼」の作品を見る。美術館の評には、『土門が対象の本質に迫った、力強く個性的な「日本の美」』と語られている。
土門拳は、脳梗塞によりカメラの操作がしにくくなってから、仏像を撮るようになったのであるが、確かに写っている仏像には感銘を受ける。「古寺巡礼」の作品群を見て、被写体そのものの力がすごいのか、それとも、それを写した土門拳の「写真」の力がすごいのか、記号としての写真は、どのようなメッセージを含んでいるのだろうか、と考えさせられた。単に、仏像を撮ったのようにも見える。そうであるなら誰でも同じ写真になってしまう。

深瀬昌久の1961-1991 レトロスペクティブ

「古寺巡礼」の感動を胸に抱きつつ、深瀬昌久の写真展へと足を運ぶ。美術館の評には、

「深瀬昌久は自身の私生活を深く見つめる視点によって、1960年代の日本の写真史のなかで独自のポジションを築きました。それは写真の原点を求めようとする行為でもあり、のちに「私写真」と呼ばれ、写真家たちが向かった主要な表現のひとつとして展開していきます。」

東京都写真美術館HPより


とある。
確かに「私写真」なのである。そして、2階から、当時の深瀬の妻・洋子を深瀬が撮影した、いわばタイポロジー的な写真は、妻の表情の変化が面白い。それ以外のシリーズ〈遊戯〉〈烏(鴉)〉〈サスケ〉〈プクプク〉も見ると、深瀬の精神の変遷が垣間見れる。ただ、最後の〈プクプク〉はいただけない。風呂の中で自身を撮影したものだが、自身の陰部までも写したセルフポートレートと称する作品群である。

「いただけない」と思うのはこの写真の記号性から受ける私の解釈だから、作家のメッセージではない。深瀬氏の写真は記号として、メッセージは伝わって来る。その内容をどう解釈するかは、鑑賞者側の問題である。

深瀬昌久の写真の評は、ここが詳しい。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/fukase_masahisa_diesel_art_gallery

これらを読んでみると、なるほど、と写真にではなく、その解釈に感心するのである。すなわち、作品たる「写真」の記号性に、それらを読み取ったキュレーターの評が加わって、「作品」となっているのである。

改めて土門拳の「古寺巡礼」

深瀬昌久の写真をみて、振り返って思ったことは、土門拳の「古寺巡礼」の写真の凄さであった。土門拳は、ストロボ一灯でライティングして撮影したそうである。仏像の前に鎮座し、じっと仏像を眺めて、どの角度でどのように光を当てて撮影したら、その仏像の本質が見えてくるのか、氏は、じっと考えていたに違いない。

土門拳の凄さを改めて認識した写真展巡りであった。


東京都写真美術館、土門拳写真展より


土門拳記念館~リアリズム写真の殿堂~(日本語字幕)

https://youtu.be/Ty5CQ4dhAwU

人は事実に悩まず解釈に悩む

ここで、「人は事実に悩まず解釈に悩む」という言葉を思い出した。これは、心理学者の国分康孝氏の言葉。人は、事実を見、それに自分なりの解釈を加えて、それを認識する。そして、それに悩む。悩んでいる対象は、事実ではなく、解釈だというのだ。例えば、向こうから同級生の女性が歩いてきたとする。すれ違いざまに、笑みを浮かべた。きっとおれに気があるに違いない・・・と自分勝手に喜ぶ。次の日、同じ場所で、同じ女性が歩いてきた。ところが今日はすれ違いざまに、こちらを見ずに眉を曇らせていた。アホな男は、嫌われたと悩む。

客観的に観察してみよう。女性とすれ違ったことはいずれも事実。最初の日に、女性が笑みを浮かべたことは事実。次の日に眉を曇らせた(表情をした)のも事実。しかし、男に気がある、男を嫌ったかどうかは解釈であり、定かではない。男の後ろにもっとカッコイイあこがれの男性がいたかもしれないし、親友がいてその親友に笑みを浮かべたのかもしれない。眉をひそめたのは、何か心配事があったのかもしれない。

情報=事実+解釈であるとするなら、伝わってきた情報をまず、解析して、情報=事実+0、すなわち事実自体なのか、だれかの解釈が加わっているものなのかを客観的にとらえる必要がある。事実を事実としてとらえることができれば、それは、「問題」ではないにもかかわらず、特定の色の付いた解釈が加わるが故に、「問題」視されることとなることがある。

自分をとりまく環境には、多くの情報が集まってくるし、自分でも取り入れる。それを客観視して、事実だけを見る。その事実が、どういう意味をもつのか、良い意味なのかも知れないし、悪い意味なのかもしれない、様々な解釈の可能性を確かめる。一つの解釈だけで見るとデメリットのように見えることが、他の解釈によればメリットとしてとらえることが可能となるかもしれない。

そこでは、「概念のフィルター」を捨てなければならない。国分氏の言うところの、ビリーフ(考え方)により、出力が変わってくる。事実+それに対する考え方(筋書き)=解釈(結論)となる。事実を事実としてありのままにとらえ受け止める。そこから様々な可能性が見えてくる。最初から、自分の持つ、偏狭なビリーフ(概念)で特定の解釈をしてしまっては、そこからの脱却はなく、悩みの深みははまるだけだ。

以上が、「人は事実に悩まず解釈に悩む」ということの概要であるが、ここでいう「事実」を「写真」に置き換えてみると、面白い。写真に写っているものは、誰にも均しくみることができる「事実」である。しかし、そこから受け取るメッセージについては、「解釈」によるところが極めて大きい。
深瀬昌久や土門拳による写真は、キュレター達により評価されることによりその地位が確立している。人間は「権威」による評価に弱い。キュレーターという「権威」による高い評価が定まると、その地位は揺るぎないものとなってくる。ただ、私の場合、その評価は尊重はしたいが、一度、白紙に戻し、自分なりの印象に基づく解釈を優先したいと思うところである。
















































































 


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