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アパリセに入会して丸1年〜貯金0円からの這い上がり〜


【前書き】

どうもこんにちは!
トウマです^_^

今日(4月20日)は僕にとってすごく感慨深い日でして、胸に秘めてる想いを表現したくなったのでnoteを書いています。

タイトルにある通り僕がアパリセに入会して
今日で丸1年が経ちました。
(2021年4月20日アパリセ入会)

今このnoteは沖縄に行く途中の飛行機の中で書いているのですが、海や空を見ながらこの1年を振り返っていると余計に感慨深い気持ちになってきます。

この1年で本当に自分の人生が良い方向へと大きく変化しました。
この1年アパリセという環境を自分の意志で選択し、本気で頑張ってきてマジで良かったなと、心底思っています。

このような環境を作って頂いたTKさんはじめ、
幹部の方々や講師の方々に本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
本当に、本当に有難うございます。

そして今回僕は何を一番表現したいのか?
それを心に問うた時にまず浮かんだ存在は僕の妻でした。

もう少し細かく言うと…
僕と妻、そして子供2人の家族4人で突っ走ってきた…いや戦ってきた激動の人生を振り返り、マジのドン底からでも、どんだけ大変な事があったとしても、這い上がれる可能性はあるんだという事を思いっきり表現したいなという気持ちが溢れてきました。

だから今回のこのnoteでは僕だけの物語というよりは、
トウマ一家の今までの物語を描いていこうと思います。

完全にノンフィクションの物語をお届けいたします。
(一部過激な出来事もあるかもしれないですが、お許しください)


【妻との出逢い】

僕と妻が出逢ったのは、僕が当時仲間と共に運営していたBARだった。

そこに妻が僕の後輩に連れられてやってきた。

最初出逢った瞬間からお互い惹かれ合った…
という訳では全くなくて、
むしろ最初の半年間は妻がBARに来ても
僕は全然話さず別の仲間が妻とずっと話していた。

当時の事を妻に聞くと
僕がBARの店員なのかお客さんなのか分からなかったらしい。笑

なぜかと言うとそれぐらい僕はまともに仕事をせず
仲良い友達とだけ話す事しかしてなかったからだ。笑
本当に当時の僕はダメな奴だった。

そんな距離感だったところから、僕と妻がグッと近付いたキッカケがある日突然やってきた。

「トウマ君○○日って空いてない?」

そう声をかけてきたのは妻の親友のAちゃんだった。

「空いてるよー!なんかあるん?」
と返事をする僕。

「みんなで遊ぶ予定やったんやけど○○君が来られへんくなったから、トウマ君来れへんかなって思って(笑)」

なるほど。笑
欠員が出たから穴埋め役ってことか(笑)

こうしてみんなで遊びに行く事になり
そこに妻もいたのだった。

ちなみに当日指定された公園に行って何をするのかと思いきや、大の大人5人で鬼ごっこを2時間ぐらいした事は一生忘れないと思う。笑

大阪のミナミという街でBARをやっていたから
プライドが異常に高い女性が多かったりする中で
鬼ごっこでも楽しんでる妻を見て何か良いなと思ったのかもしれない(笑)

その日がキッカケで妻と仲良くなりしばらくして付き合う事になった。


【妻が両親から飛んだ事件】

付き合ってからしばらくして大事件が起きた。
妻が実の両親から飛んだのだ。

妻は両親とは昔から合わず、ずっと家から逃げたかったらしい。

何故かと言うと…

◾︎中学校の時から毎日家事洗濯掃除全てやらされていた
(小学校の頃からだいぶやらされていた)
◾︎夜以外寝たら怒られるからトイレで鍵閉めて寝たり、お風呂でちょっと寝たりしていた
◾︎買い物で一つでも買い忘れたら叩かれたり怒られる
◾︎タバコも買いに行かされる
◾︎友達と遊びに行けるのは多くても月に3回程度
◾︎高校卒業して友達との最後の打ち上げにも参加させてくれない
◾︎離れて住んでても常に状況を把握される
◾︎外ではしゃぐと調子乗るなと言われる
◾︎野菜の切り方で怒られる
◾︎家でゆっくりしてたら用事しろと怒られる

などなど、これでも一部なくらいだと妻は言っていた。
(これは妻の父親にも事実だったと確認済み)
そんな環境だったから妻は高校の時にも一度家出をしたがすぐに警察に見つかり家に戻された。

そういった事をすると妻の両親は妻を永遠に責め続けていたらしい。
お前は育ててくれた恩を仇で返すような人間だ!と。

まあそんな両親に妻も限界がきて
僕と付き合ってしばらく経ったあとの年末に飛んだのだった。
これが2019年12月末の出来事だ。

そしてここからが壮絶なる修羅場の始まりだった。

妻が飛んだ次の日あたりに僕の携帯電話に知らない番号から突然電話がかかってきた。

「プルルル、プルルル」

「はい、もしもし」
と電話に出る僕。

「トウマ君やな?○○の父親やけど。」

電話は妻の父親からだった。
妻が以前に僕の電話番号を伝えてしまってたらしい。


「あ、初めまして。トウマです。」

妻の父親
「お前なー、娘がおる場所知ってるやろ!?かくまってるんやろ!?どこおるか言えや!」

どうやらお酒が入っているようでいきなり荒々しい声がぶっ飛んできた。


「いや僕本当にかくまってないですよ。」
ちなみにこの時僕は本当にかくまってなかった。

妻の父親
「嘘つけや!お前が関わってるのは分かっとんねん!お前しばくぞ?お前は今どこにおんねん!?」


「いや嘘ついてないですしマジで匿ってないです。僕は今自分のBARいます。」

妻の父親
「おー!ほなそこ行くからお前待っとけよ?」


「すみません今日BARは休みの日なんで、もうお店は閉まっちゃいます。」

妻の父親
「はぁ!?お前舐めとんのか!ほなこっちにこいや!今すぐ来い!」


「いやもう終電も終わってるんで突然言われても今からは流石に厳しいです。」

"ドンドンドン"

ここでBARの扉を誰かが叩く音が。

「すみませーん!出前でーす!」

頼んでた出前が来たみたいだ。


「ちょっとすみません。頼んでた出前が来てお金だけ払うんでちょっとだけ待ってもらっていいですか。」

妻の父親
「は?舐めとんのか?無理や。それよりこっちが優先やろ!」

ここでちょっと怒ってしまう僕。


「いやおかしいやろ?じゃあせっかく出前来てくれてる人を無視するんか?そんなん意味分からんやろ!お前が舐めとんか?良い加減にしろよ。すぐ戻ってくるからちょっとぐらい待っとけ!」
(記憶を辿って書いてるが、ぶっちゃけこれよりもかなり荒々しい言葉を使っていたと思う)

妻の父親かもしれないが、
その前に1人の人間と人間。
僕もちょっと我慢の限界が来てしまった。


(自分達の問題を僕のせいにしてるような感じで突然キレてきた妻の父親に、ぶっちゃけ最初から腹が立っていた。心配なのは分かるが、そもそも自分達の問題やろ…と。)


「戻りました。」

妻の父親
「ごめんな。俺もちょっとお酒飲んでてヒートアップしてしまったわ。いきなり電話して声荒げてごめんな。」


「いえ。僕もすみません。ただ本当に匿ってないですし今も一緒にいないのは本当です。」

妻の父親
「分かった。ちょっとトウマくん娘に一回話す時間取るように言ってくれへんか?それか一回ちょっとまた別の日にトウマくんと話されへんか?」


「分かりました。僕が時間を作ります。どこに行けば良いでしょうか?」

妻の父親
「ちょっとそれはまた後日連絡するわ。」


「分かりました。」

これが僕と妻の父親との出会いだった。
そして後日連絡が来て僕は妻の両親と急遽会うことになった。

約束の日に指定された場所に行くと
そこはスナックだった。

なぜか妻の両親と妻の弟の他に、そのスナックのオーナーさんやその奥さんもいて、貸し切りにされたスナックの一番奥の席に座らされた。

まあヤクザに引きずり回された時に比べたらなんとでもない状況だった。
ぶっちゃけもうこんな事では何も動じなくなった。

そこで色んな話をした。
妻は両親と縁を完全に切りたいと言っていたが
僕としてもちゃんと妻の両親と関わった上で決めたかった。

あとは妻の意見だけを鵜呑みにして縁を切る選択をするのは違うと思ったし、何より本来であれば親子の縁は切らずに良い関係になれた方が良いとその時の僕は思っていた。

だから妻の両親とも約束をした。
もう一度妻を説得して縁を戻しますと。

こうしてその日の話し合いは終わり、
僕は1人電車で家に帰った。

そして妻に事情を話した。
当然だが妻は断固拒否だった。

ただ僕がこれから妻の両親と関わってみて、
本当にヤバイと思ったら一緒に縁を切りに行こうという約束を元に、僕の粘り強い説得に渋々折れてもう一度両親と縁を戻すことになった。


【妻の両親との壮絶なるバトル】

妻の両親と縁を戻すと同時に、僕と妻は同棲を始めた。
そして妻には当時3歳の一人娘がいてその娘とも一緒に住むようになった。

それからは毎日幸せな日々が続いていた。

一つの事を除いては…。

妻が両親と縁を戻してからは
1ヶ月に数回は妻が両親の家に手伝いとかに行かないといけなくなった。

手伝いというのは…
◾︎弟の大学の手続き関係
◾︎家計の振込み関連
◾︎犬の世話
◾︎買い物
◾︎妻の母親の持病の薬もらいに行く
(ちなみに妻の母親も自分で行けるけど行かない)

などなどだ。

ただ妻が実家から帰ってくると
毎回とんでもなく心を疲弊させて帰ってくる。

話しを聞くと母親から色んな事を言われるみたいだ。
(直接の時もあるしLINEの時もある)

「あんたみたいな汚い子産んでしまって申し訳ないわ」
「お前みたいな嘘つきな子が幸せになれる訳がない」
「あんたって本間に冷たい人間やなぁ」

もうあげだしたらキリがないくらいヤバイ言葉を浴びせられていた。
(LINEで送られてきたりしてたから僕も確認済み)

確かに妻は学生時代とかも嘘ついて遊びに行ったりしていたらしい。
でもそれは普通に遊びに行こうとしても絶対に行かせてくれない状況だったからだ。
僕からしたら嘘つかせてるのは誰やと言う話やけど
そんなのは妻の母親には通用しない。

冷たい人間というのも妻は両親の前では感情を表に出さないようにしていたらしい。
でも僕からすれば妻はめちゃくちゃ感情豊かな人間だ。

だけど妻の母親は絶対に自分に原因があるとは考えないタイプだった。
それは僕も関わっていってすぐに気付いた。

母親から妻に届くLINEを僕も常に見せてもらっていたが、本当にやばい人だと思った。

どんな事があったとしても
あんたは汚い人間やとか
あんたなんか幸せになられへんとか
あんたみたいな人間を産んで申し訳ないとか
そんな事を言うのは絶対におかしい。

だからその都度僕は妻の両親に電話をした。
どういうつもりで言ってるのか?を聞いたり。
そういう事を妻に言うなという事を伝えたり。

今思えばこのような相手に何を言っても無駄やけど
この時は僕も頭がおかしくなってたから色々とどうにか出来ないかを模索していた。
何回も何回も相手の考えも聞いて僕の考えも伝えてやりとりし続けた。

妻の父親はまだちゃんと話が出来る人で
正直このような出逢い方じゃなかったら仲良くなっていたと思う。
だけどパワーバランスとしては妻の母親の方が強いから、それに引っ張られてやっぱりちょっとおかしいと思うこともあった。

そんな妻の父親に僕が色々話して
もう妻の母親から妻に罵倒するような事を言わせないでくれと連絡した。
それは妻の父親も了承してくれた。

が、また数日経ったある日、
妻の携帯電話が鳴った。

電話越しの相手は妻の母親だった。
そこでまたなんか意味の分からない事をずっと言っていて、妻は今にも崩壊しそうだった。

その時にもう僕が我慢の限界が来てブチ切れた。
自分で言うのもなんだが、普段キレたりなんか本当にしない僕がこの時は本当にブチ切れた。

「お前ええ加減にせえよ?何回も何回もそういうの辞めろって言ったよな?そんなんするから離れたくなるねんって何回も言ったよなぁ?お前が正しいと思ってる事が全部正しい訳ちゃうねんぞ?そんなんも分からんのか?お前何年生きてきとんねん?マジでええ加減にせえよ?お前ら今どこおんねん?今からそっちいってしばき回したるから居場所言えやコラァ!」

みたいな事をとにかく叫びまくっていた。笑
(流石にここまでヤバイ奴と関わったら僕もキレるみたいです。笑)
そこで妻の父親が間に入って一旦収まった。

その事がキッカケで妻と話し合い、縁を切る話をしようと決断した。

数日後に妻の父親に電話をした。
そこで2つの選択肢を伝えた。

①縁を切る(無理だと言われても僕含め強制的に切るし、住む場所も変える)

②教育のプロを僕と妻の父親と2人で一緒に探して、間に入ってもらう。その教育のプロにお互い思う事を全部さらけ出して、第三者の意見を取り入れて本当に良い方向へとやり直せるようにする。
(もう自分達だけで解決しようと絶対にしない。今まで何十年とそれをやってきて解決出来てないのだから。)

妻の父親は一旦考えさせてくれとの事だった。
妻の父親は電話を切るのも忘れて、
電話越しで「マジかぁ…」と呟いていた。
何十秒もそのままだったからこの時だけは僕から電話を切った。

後日妻の父親から②の教育のプロをいれてやり直す道はちょっと…という連絡が妻に入った。
そして妻はどうしたいのか聞いてきた。

だから迷わず縁を切る事を伝え、縁を切ることになった。
こうして半年ほどに渡る長い長い妻の両親とのバトルに幕が閉じた。

※後日談


妻のご先祖様にちゃんと挨拶をしにいこうと話して、お墓に挨拶をしに行った。
両親とは縁を切る事になったけど、ご先祖様の縁が繋がって今があるということ。本当に感謝をしていますと。

ただそれから数日経って妻の両親から電話がかかってきた。
「墓参り行ったんか?頭おかしいんか?」と。

妻の両親的には縁を切るという事は
ご先祖様達とも全て切るという事らしい。

僕達からしたら縁を切ったのは妻の両親とであって、
ご先祖様達と切った訳ではないし、
ご先祖様は誰かの所有物じゃないんやから、
妻の両親に決められるのも意味が分からなかった。

が、もう対抗してもラチがあかないので
もう関わりませんと約束をして完全に縁を切った。

この時を境にもう全く連絡は取っていない。

こうして晴れて僕達トウマ家は自由の身になったのだ。


【再スタート】

妻の両親と縁を切る事が出来た僕達は
本当に長い長い暗闇からようやく抜け出せた気分だった。

その分僕達家族の絆はより一層深まった。

ただ僕達はそこからまだまだ乗り越えていかないといけない壁が沢山あった。
妻の両親とのバトルの最中に妊娠が発覚して、出産を控えていたがまともに仕事もしていないからお金もない。

ちょっと前までは僕は戸建て向けに訪問販売の仕事をしていてある程度は稼げていたが、妻の両親とのストレスと仕事のストレスが重なって鬱みたいな状況になり、ある日突然戸建てを見るだけで吐きそうになってしまった。

家を見て吐きそうになるって本当にヤバイと思う。

それで営業場所の最寄り駅から一歩足りとも出れなくなってしまって、駅のホームの椅子に何時間も放心状態で横たわっていた。
その時に自分の精神がおかしくなってるかもしれないという事にやっと気付いて、上司に話して仕事を辞めた。

その時から僕は元々やっていた路上パフォーマーに戻り、それで生計を立て始めた。

だがその時はまたコロナが流行っていた時期だったので、7時間ぐらいパフォーマンスをしても1万円も稼げない日もよくあった。

12時〜16時
18時〜21時

この辺りがパフォーマンスで稼げる時間帯だったから、
基本この時間に大阪でパフォーマンスをしていた。

だから妻が妊娠中なのにも関わらず帰る時間は毎日22時を過ぎていた。
にも関わらず警察にパフォーマンスを止められたりして、1日で5000円程しか稼げない日も多々あった。

その時は妻にも極限まで節約をしてもらってたから
食費も3万円しか渡せてなかった。

4歳になっていた娘の服とかは
毎回メルカリで安い服を探したりジモティーで貰ったりしていた。
冷蔵庫などの家電製品もジモティーで激安で購入した。

購入したほんの一部の物👇

とにかく収入が低いから支出をなんとか抑える事だけを常に考えていた生活だった。
稼ぐ術を知らないからそうするしかなかった。

後で聞いた話だがおかずを買うお金がなくて、妻はこの時白ごはんしか食べていない時もあったらしい。
(厳密に言うと妻は僕に何回かその事を言ってたらしいが、僕は正直全く覚えていない。それぐらい切羽詰まってたのか…。)

それでも正直、妻の両親と関わっていた時期や、
訪問販売をしていた時期に比べたら、
精神的には僕も妻もめちゃくちゃ楽な方だった。

そんなこんなで時は過ぎ2021年3月1日に
僕達の2人目の子供がこの世に誕生した。

僕も大変だったが
妻こそ本当に頑張ってくれたと思う。

正直普通の奥さんだったら離れられていてもおかしくないと思う。
付き合う前から僕がこんな人間だと分かった上で付き合ってくれたからこそ、ついてこれたところもあると思う。

振り返ると本当に激動の1年を歩んできて
よくぞ無事で産まれてきてくれた息子。

妻が白ごはんしか食べれてなかった時もあった影響か、
少し小さい体で産まれてきたが、今となっては食べ過ぎなぐらい食べてるからかなり大きくなっている。

この日から僕は
血の繋がっていない娘と
血の繋がっている息子の
2人の子供の父親になった。




生まれたばかりの時は親父という実感はなかなか
湧いてこなかったが、日に日に色んな事を深く考えるようになった。

子供が生まれてきたのに仕事と言えば安定しない路上パフォーマンス。
考えれば考えるほど、このままこの生活がずっと続く未来を考えると、正直不安でしかなかった。

だけどじゃあここから正社員になったって、自分達の理想の人生に辿り着ける訳がないのは明白だった。

世界中を旅したり
おもしろいと思う事をとことんやったり

そんな僕達の理想の人生を歩むには支出を極限まで抑えるだけじゃ不可能だった。

理想の人生を諦めさえすれば選択肢はいくらでもある。
でもそれは絶対にしたくなかった。

じゃあどうすればいいか?
それは何かしら稼ぐ力をつける。
それしかもう選択肢はなかった。

子供が出来たという理由で
結婚したという理由で

理想の人生を叶えるのを諦めたり
理想の人生を叶えるのを先延ばしにしたり

そんな事を僕は意地でもしたくなかった。
むしろ息子が産まれてきた時から、
より一層挑戦してやろうという気持ちになった。

だって
人生ってたった1回キリなんでしょ?

いつ死ぬかなんて分からないんでしょ?
これは僕が常に自分に問い続けてる事。
子供が生まれたからこそ更に強く問うキッカケになった。

だったら諦めたり先延ばしにしたりなんか
"僕は"絶対にしたくないし、絶対にしない。

子供が大きくなった時に
子供を理由に夢を諦めたなんて口が裂けても言いたくないし、思いたくない。

それが"僕にとって"納得のいく人生だ。


【新たな挑戦】

"このままじゃ本当にヤバイ"
"何かを変えないと何も変わらない"

子供が生まれたからこそ強くそう思うようになった。
この時が2021年3月辺りだ。

それからは…

12時〜16時
18時〜21時

この時間で路上パフォーマンスをしながらも
休憩時間で何か稼げる仕事がないかをYouTubeやTwitterで探し続けた。

・動画編集
・WEBデザイナー
・アフィリエイト
・投資
・ブロガー
・プログラミング

調べて調べて調べまくって色々出てきた。
とにかく何かを変える糸口はないかと探し続けた。

そうして辿り着いたのが「アパレル・ブランドせどり」だった。
そしてそこから「アパリセ」に辿り着くのに時間はかからなかった。

僕は過去に勢いで300万ぐらいはコンサルにお金を払っていた。
だから今回はアパリセという環境がどんなコンサルなのか?をまず知ろうと思った。

YouTube動画は全部見たし、
Twitterも見まくった。

見れば見るほど
「ここで学べばマジで人生変わるかもしれない。マジで稼げるようになるかもしれない」
という、期待が心の底から込み上げてきた。

そして僕は一回店舗に仕入れに行ってみようと思い、仕入れにいった結果、1着だけパーカーを仕入れる事ができた。
そしたらすぐに売れて利益が5000円ほど出た。


当時のアカウントのツイートを発見。
👇👇👇

この時に衝撃を受けた。
たった5000円かもしれないが、この5000円は僕にとってはとてつもなく衝撃だった。

売れた時は実家にいたのだが、
めちゃくちゃ嬉しくて妻にも僕の両親にもテンションブチ上がりで売れた事を伝えた。

だって今まで自分のスキルで稼げたのって、
営業とかしかなかったから。

こんな風に自分の知識がお金に変わる経験なんて今まで一度もした事がなかった。

「マジで知識さえつければ稼げる」

それを体感した瞬間だった。

その時に僕は気付いた。
YouTubeに出てくるTKさんやTAさんやダイワさんのような知識を、僕も同じようにつける事さえ出来れば稼げる!と。

能力の差ではなく、知識の差なのであれば絶対に稼げるようになる!と確信した。
だってYouTubeに出てくる内容を勉強しただけで稼げたんだから。

後はこのアパリセという環境が、
「てきとうに教える環境」じゃなければ身につけれる!と。

YouTubeやTwitterを見ればてきとうに教える環境ではなくて、本当にちゃんと教えてくれる環境なのは一目瞭然だった。

だから僕はアパリセに入会する決断をして、妻に熱弁した。
コンサル費も安くはない。
妻は正直めちゃくちゃ不安そうだった。

「本間に稼げるん?」
「稼げる保証はあるん?」

不安だから出てきた言葉だと思う。
そりゃそーだ。
この状況よりドン底に行ったらもう飯が食えなくなる。

でも僕はこう答えた。

「保証なんかどの世界にもない。やけど稼げるまで絶対にやり続ける。3ヶ月で100万絶対に稼ぐからやらせてくれ!それまで子供の面倒を見て欲しい!」

と頼み込んだ。

もう僕に何を言っても止められないと悟ったんだろう。
妻もアパリセ入会を了承してくれた。

こうして2021年4月20日に僕は晴れてアパリセ生となった。


【アパリセに入会】

アパリセ入会後の快進撃は多くの人がご存知の通りだ。

4月20日 アパリセ入会
5月   月利16万
6月   月利53万
7月   月利115万
8月   月利70万
9月   月利103万
10月 月利250万


このように自分でも予想していなかったスピードで
稼げるようになっていった。
ただ僕もめちゃくちゃ頑張ったが、妻が子供の面倒をずっと見てくれていたおかげだ。
本当に大変だったのはきっと妻だ。
妻がいなかったら僕はここまでのスピードで成果を出せていなかった。

そして本当に大変だったけどアパリセという環境に関わって稼げるようになった事で、結婚指輪を買うことも出来た。

2021年1月に結婚した時は指輪を買うお金なんかなかった。
だけどこうして1年で這い上がって結婚指輪を買ってあげる事も出来た。



今では妻や子供との時間も作ったり、旅行に行ったりもしながら稼げるようにもなったし、本当に1年で人生が変わった。

宮古島に行ったり…


スノボーに行ったり…


キャンプに行ったり…


家族で沖縄に行ったり…


こうして振り返るとやっぱりアパリセを選んだ自分の選択は間違ってなかったと断言できる。

今まで300万ほどコンサルにお金を払ってきたが、
ここまで的確に熱心に指導してくれる環境は初めてだった。
正直この時アパリセに関わっていなかったら、
トウマ家の人生は今でもドン底のままだったに違いない。

だから本当にアパリセには、
感謝をしてもしきれない程の恩がある。

今ではアパリセは生徒の総数が1000人近くなっているが、しっかりと組織化されているため多くの人が稼げる環境になっていることが本当に凄いと思う。

正直アパリセは僕が関わった1年前よりも
もっと稼げる環境へと進化し続けている。

僕がこの1年間アパリセという環境に関わってきて
多くの人の人生が変わる瞬間を見てきた。

僕の友達も後輩も先輩も、そして弟も僕の紹介でアパリセに入会している。
本当に良い環境だと確信しているから、身内に自信を持って紹介できる。
むしろ僕はTwitterで情報発信をする前は、身内にしかアパリセを紹介していなかった。

本当に良いと思ってるんだったら、まずは身内に紹介するのが当然の話だ。

その過程があって僕は今アパリセを身内以外にも紹介している。
それは僕がまだ出逢ってもない人達の中にも
このアパリセという環境を必要としている人が必ずいる。

このアパリセという環境に出逢った事で
人生が大きく変わる人間が必ずいる。

そう確信しているからこそ、
僕はアパリセを全力で広めてるし全力で売っている。

そして僕はこれからも全力で情報発信をして
アパリセに関わって人生が変わる人を増やしていきます。

【最後に…】


今あなたはどんな人生を歩んでいますか?
人生を本気で、愉快に、幸せに生きれていますか?

1年前の僕は胸を張ってYESとは言えませんでした。
けれどそれから本当に本気で1年間突っ走った結果、
こんなにも人生が変わりました。

1年でここまで人生を変えれた要因は2つだけです。

①成果が出る正しいレールを選択した事(選択の質)
②その道を全力で突っ走った事(行動力)

このどちらかが欠けてもここまで変わる事は出来てなかった。

どんだけ本気で全力で突っ走ったとしても
成果の出ないレールを走っていてはダメなんです。

逆にどんだけ成果の出せるレールがあったとしても
全力で走らないとそれもダメなんです。

でも

成果を出せるレールを全力で突っ走ったら
マジで1年でとんでもなく人生が変わるんです。

今ドン底にいる人でも
今上手くいってない人でも

必ず人生を切り開く活路はあります。
自分が諦めなければ必ずあります。

ただ…

待っているだけでは何も変わりません。
受け身なままで人生が変わる事は120%ないです。

本当に本気で人生を好転させたければ
自らの意志で自ら動くしかないんです。

もし何も動かなければ、また今のままを続けていては…
1年後も3年後も10年後も全く同じ人生になるのは当然なんです。

だから本当に本気で何かを変えたい方は
自ら動いて欲しいんです。

今上手くいってない人は…
このままのレールを突っ走って本当に人生変わるのか?
このまま中途半端に過ごしていて本当に良いのか?

それを一度立ち止まって考えてみてください。

そしてもし…
一歩踏み出したいんです!
正しいレールを進みたいんです!
マジで人生変えたいんです!


このような方がいれば
僕のLINE@を貼っておくのでメッセージしてきてください!

僕はいつでも全力であなたの気持ちを受け止めて
全力で最良の道を提案させて頂きます!
だから一緒に人生を変えてやりましょう
‼️

LINE@👇


ここまで読んで頂いた皆さん。
本当に有難うございます!

人生は本当にたったの1回きりです。
そしていつ死ぬかなんて本当に分からないんです。

それを常に自分の胸に問い続ける意識を持ってほしいです。
そうすれば少しずつ人生は変わっていくかもしれない。

そんな時に僕という存在が少しでもあなたの人生のお役に立てれば、こんなに光栄な事はありません。

いつかあなたとお会いできる事を楽しみにしています。

終わり。

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