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正義感ほど危険なモノはないー最近のネットを見てて思うコトー

正義感という言葉が苦手だ。正義感を振りかざして人を断罪する人はより苦手だ。

人間が正義感を振りかざす時というのは、相手を『悪』と断定していて、そこに相手を理解しようとする姿勢がない。相手の考えや背景を想像するという前提がないように感じるのだ。
「絶対に自分は正しい」とか「正義は我にあり」みたいな立場からの発言というのは白々しい。

「正義」を語る人は優しさがないのだ。

不祥事起こした芸能人叩きは『正義リンチ』

『正義』に『多数派の論理』が加わると、『正義リンチ』がはじまる。そうなるともはや自己正当化が完璧すぎて、相手をおもんばかる気持ちがなくなるらしい。「自分は正しくて、マジョリティ」という心理は、人間を残虐にする。不倫した芸能人なんて悲惨なもんだ。もちろん当人達の行いを肯定する気はないけれど、無闇やたらな誹謗中傷はもはや恐怖さえ感じる。

最近の「正義リンチ」は、まるでおなかをすかせて万引きした貧しい子供を取り囲んで責め立てているような胸くそ悪さを感じてしまう。そりゃ本人にも非はあるんでしょうけどね、、、

自分が『悪』と決めつけた相手に対しては人間は残酷になれるのだ。『悪』より『正義』の方がよっぽど怖い。

正義なんて相対的なもの

そもそも世の中に絶対的な正義というものはない。正義は反対はまた別の正義なのではなかろうか。それなのに「私は正しい、あいつは間違っている」と思い込めてしまう感覚が怖いのだ。

人間の歴史を見返せば戦争なんて「自分が絶対正義」と思い込んだ人間がおこす。戦争の相手は相手で「自分が絶対正義」だと思っているわけで、「正義」が唯一無二で定義されるなら世界はもっと平和だよ。

「マジョリティだから正解」とか「法律的に正しいから正義」とかで思考停止に陥るのはちょっと怖い。もっと寛容さがほしいのだ。

大切なのは「許容」

以前の記事で紹介したヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という名言。ここにあるような自分とは違った意見を受け入れる姿勢が大切なように思うのだ。

ユダヤの格言に以下のようなものがある。

『善と悪を区別できるだけでは、まだ賢者とは言えない。二つの悪の中から小さい方の悪を選ぶことができる者が賢者である。』

筆者は正義であるよりも、賢者でありたいと思う。『正義』を振りかざす人間は『悪』なんかよりよっぽど怖い。

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