ルイヴィトンと非連続な成長

ルイヴィトンと言えばいわゆるブランドの筆頭格に挙げられるラグジュアリーブランドである。ルイヴィトンを傘下に持つLVMHは現在は売上高291億ユーロ、営業利益率20%、時価総額710億ユーロの世界最大のラグジュアリーブランドのコングロマリットになっている。東京に居れば「ルイヴィトンを目にしない日は無い」というくらい浸透しており、同社の製品は日常風景に完全に溶け込んでいる。このような光景に慣れてしまうと、このブランドは昔から存在し(事実、創業は19世紀半ばである)、徐々に世界に浸透してきたという印象を持ってしまいがちだが、実は1977年にはパリとニースに2店舗しか持たない小さな鞄屋に過ぎなかった。しかし1980年代に急激に拡大し、1990年には世界130店舗を持つグローバルブランドへと成長した。本稿では同社がなぜこのような非連続な成長をしたのかを紹介し、そこから得られる教訓を考えていきたい。

【1977年以前は全く別の会社】
ルイヴィトンは1854年創業の鞄屋でパリ万博で高い評価を得たことで有名でヨーロッパの貴族に供給しており、変わり種だと明治維新の立役者の一人である土佐藩士の後藤象二郎もヨーロッパ視察の際に購入している記録が顧客名簿に残っている。一時期はロンドンに支店を出していたが1977年の時点ではパリとニースの二か所にしか店舗を構えていなかった。このように伝統があるが小さなファミリービジネスの域から出ていないルイヴィトンを大きく変えたのが1977年に社長に就任したアンリ・ラカミエ氏である。ラカミエ氏は1912年に生まれたフランス人で大学でビジネスを学んだ後に1949年にStinoxという鉄鋼商社を設立した。65歳になり引退を考えていた時にヴィトン家の直系で当時ルイヴィトンの社長だった彼の義理の父親がなくなったためラカミエ氏はルイヴィトンを継ぐことになった。

当時必ずしもビジネスとしては順調ではなかったルイヴィトンを継いだラカミエ氏はアジアに注目した。社長に就任した翌年の1978年には東京、大阪に合計6店舗を一気に出店した。また出店の際は価格体系が統一されていなかった代理店販売方式にメスを入れ全世界統一価格の直営店方式に切り替えた。今でこそラグジュアリーブランドでは一般的になったが当時としては珍しい販売方式であった。これによってラグジュアリーブランドでは生命線ともいえるブランドイメージの統制が取れるようになったのである。そして1980年半ばには世界に100店舗を構え2,600人の従業員を抱える巨大ブランドへと転身した。

【コンサルタント出身者が活躍】
実はこの成功の陰には秦郷次郎という日本人コンサルタントの活躍がある。秦氏は1937年生まれでダートマス大学タック校のビジネススクールを卒業したのちピート・マーウィック・ミッチャルという会計事務所に就職しコンサルタントとして活躍し、1976年にはルイヴィトンのコンサルティングを担当したのである。(因みにこの会計事務所は現在のKPMGである。PとMはピート・マーウィックの頭文字である。)そしてそこでの仕事が評価され1978年にはルイヴィトンジャパンの社長に就任し、日本を全世界の1/3超の売上高を日本が占めるまでに成長させたのである。また2006年にルイヴィトンジャパンの社長に就任した藤井清孝氏もまたマッキンゼーの日本の新卒採用第一号であり、同社は「コンサル好き」なのである。(ただし藤井氏はわずか一年で退職し、その後「ラグジュアリーブランドビジネスは自分には向かなかった」ことを認めている。)

【良い製品・サービスだけでは不十分】
さて、この事例から我々は何を学ぶべきだろうか。筆者自身は二つだと思っている。まず一つ目は「良い製品・サービスを提供しているだけでは不十分であり、戦略・戦術が必要である」ということではある。ルイヴィトンはラカミエ氏が社長に就任する前も恐らく非常に高い品質の製品を作っていたと推察される。しかし幾ら品質の高い製品を作り続けていただけでは間違いなく今のルイヴィトンは無く、せいぜいフランス国内で知る人ぞ知るブランドにしかなっていなかっただろう。「素晴らしい商品を作っていればいずれ消費者も気付き、結果的に経営としても報われる」という理屈は成り立たないのであり、言い換えると良い製品・サービスを提供している「だけ」では不十分なのである。何が足りないのか?それは戦略と戦術だろう。当社の場合、まだパリとニースに2店舗しかなかった1978年にアジアへの出店という戦略を策定し、それを実現するために現在のラグジュアリーブランドでは標準となっている直営店販売モデルという戦術を導入することで、わずか十数年でトップラグジュアリーブランドへと上り詰めたのである。(戦略と戦術には様々な定義があるが、ここでは「What」を戦略、「How」を戦術として述べている。)

【変革を起こすのは個人】
もう一つの学びは変革を起こすのは個人であるということである。ルイヴィトンはある日、突然、戦略と戦術を変えたのではなくラカミエ氏が社長に就任したからこそ起きたのである。変革は自然発生するものではなく、様々な抵抗を乗り越えて非連続な変化を起こすには高いエネルギーレベルを持った個人が出現しなければ起こらないのである。これを象徴する言葉としてLIXILの社長を務める藤森氏の言葉がある。藤森氏はジャック・ウェルチ、ジェフリー・イメルト両氏の薫陶を受けGEの本社副社長に上り詰めた人物であるが、その藤森氏はリーダーの仕事とは「変革を起こすことと、人を育てること」の二つだと述べている。非連続な変化を起こすことはリーダーの仕事なのである。

余談ではあるが筆者自身が投資担当者として勤めたヘンジファンドでも日経産業新聞が毎年二回出している新社長の一覧を投資担当者で読み込み、変革が起こす可能性のある企業を発掘する材料としていた。古くは日産のゴーン社長、最近ではヤフーの宮坂社長、カルビーの松本社長など意欲的な社長に交代するとともに業績と株価が劇的に上昇することは決して少なくないのである。(特に3年2期 計6年の予定調和の社長交代ではなく、突然の交代、大幅な若返りなどは大きな変革が起こる可能性は高い。)

【最終的には会社を「乗っ取られた」ラカミエ氏】
実はルイヴィトンの経営にまつわる物語にはまだ続きがある。ラカミエ氏は世界出店による業績拡大とブランド向上を順調に実現してきたが一方で、80年代に流行っていた敵対的買収に備えて1987年にモエヘネシーと合併し、LVMHを築いた。合併してからラカミエ氏は議決権を集めるために当時39歳であったベルナール・アルノー氏を迎え入れ、共同で47%の株式を握りモエヘネシー側の共同会長を追いやることに成功した。ところが今度はアルノー氏は今度はモエヘネシー側に付いており12%の株式を保有していたビールで有名なギネス社とともに最終的に40%の議決権を獲得し、1989年にアルノー氏は会長に選任された。一方のラカミエ氏は2年間の裁判を経て1990年には会社を追われることとなった。そしてそのときの店舗数は世界で130店舗、売上高12億ドルでアジアの売上高比率は40%を超えていた。78歳で会社を去ったラカミエ氏はその後もOrcofiというラグジュアリーブランドを立ち上げたが、それも経営は芳しくなく1993年には会社を去ることとなり以降は音楽とセーリングで過ごし2003年に90歳で亡くなったのである。

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如何であっただろうか。華やかなラグジュアリーブランドの裏には様々なビジネスのドラマがあったのである。普段見慣れたルイヴィトンというブランドも普段とは違う観点で見ると全く違う一面が見えてくるのである。

出所:Factiva、私的ブランド論、Speeda

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