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利他学X3

「利他学」(小田亮、新潮選書、2011年)P125-130より

感謝と間接互恵性

 感謝もまた、利他行動に関係する感情として重要だ。私たちは他人から親切にされると、そのことに対して感謝という感情を抱き、恩返しをしなければ、と思う。互恵的利他行動はお返しがないと成立しないので、そのお返しを動機づけるために感謝という感情が進化したのでは、とトリヴァースは考えている。感謝がなぜ重要なのかというと、利他行動のやり手に対するお返しを動機づけるだけなく、やり手以外の人への利他行動を起こさせる働きをするからだ。

 第一章では、傘のエピソードが紹介された。見ず知らずの他人から傘を差し掛けられたことから、自分もそういう機会があれば知らない人でも傘を差し掛けよう、と決心た、という話だった。おそらく感謝の心がそういった決心をさせたのだろう。ということは、感謝という感情があることによって、いわば親切の連鎖のようなものが成り立っているといえる。間接的互恵性を成り立たせる要因の一つに、利他行動のやり手が評判を通じて、受けて以外の他者から助けてもらえる可能性が高くなる、ということがあった。これは「順行的互恵性(downstream reciprocity)」と呼ばれている。一方、このような感謝の気持ちから、第三者への利他行動が増えることは、「逆行的互恵性(upstream reciprocity)」と呼ばれている。

 ただ、感謝以外の要因が影響している可能性は無視できない。例えば人は楽しい気分のときにより利他行動をしやすい、という研究もあり、単に他人から助けられていい気分になるからではないか、ということも考えられる。

 ノースイースタン大学のモニカ・バートレットとデイヴィッド・デステノは、このことを実験によって検証してみた。彼女らはまず、実験参加者に実験室においてある課題をやってもらった。それは参加者が二人で協力してやるものだが、そのうち一人は実験者が用意したサクラである。次に、それぞれ個別に別の課題に取り組んでもらう。これはモニターに一瞬映し出される文字の羅列が単語になっているかどうかを、なるべく早く、正確に答えるもので、かなり骨が折れる課題である。

 さて、参加者は課題を終えて、モニターに成績が表示されるのをしばらく待つのだが、ある条件では、その前に突然モニター画面が消えてしまう。実はサクラがこっそりとモニターの電源を抜いたのだ。そこに実験者が入ってきて、修理のために技官を呼ばねばならず、参加者は最初からこの課題をやり直すことになる、と告げる。

 実験者が技官を呼びに行っているあいだ、サクラはモニターの様子を調べ、それを何とか修理するフリをする。ちなみに、このときにサクラが言う台詞は最初から決められたものだ。しばらくして、サクラは電源が抜けていることを参加者に教えてあげる。戻ってきた実験者は、最初から課題をやり直す必要がないことを参加者に知らせる。つまり、サクラは参加者を助け、骨の折れる課題を最初からやり直すことから救ったということになる。

 その後、参加者は実験室の外で待つように言われる。サクラは常に参加者よりも早く課題を済ませているので、そこには既にサクラも座っている。一分ほど経った後に、サクラは参加者に近づき、自分が指導教官から命じられた調査を手伝ってくれないか、とお願いする。それは複数の問題に回答してもらうものだが、全部やると最低でも30分程度かかるもので、参加者は自分が好きなだけ問題に答えてくれればいい、と説明する。つまり、この課題にどれだけ時間を費やしたか測ることによって、今度は参加者がサクラに対してどの程度の利他行動を行うのか調べてみようということだ。

 別の条件では、同じように参加者が単語の課題を行うのだが、モニターの電源が落ちることはない。サクラは参加者に話しかけるが、実験の意図についての推測を話し合うだけである。

 バートレットとデステノは、もう一つ実験条件を設けた。そこでは、単語の課題の後に参加者にコメディ番組の一部を見せる。つまり、参加者に楽しい気分になってもらおうというわけだ。もちろん、唐突にコメディ番組を見せては不審がられるので、番組内で出てきた単語の記憶について調べる、という理由付けをしている。ビデオが終わった後、サクラはやはり参加者に番組のことについて話しかけ、少し会話をする。

 実験終了後、参加者には事後質問紙を渡し、他の参加者(つまりサクラ)に対してどれくらい感謝を感じたか、あるいは実験がどの程度楽しかったかといった質問に答えてもらった。これら三つの条件間で比較してみると、やはりサクラに助けられた条件では、他の条件よりも強く感謝を感じていた。また、コメディ番組を見た条件では、他の条件よりも楽しさを強く感じていた。つまり、意図した感情を起こすことに成功したといえる。

 では、参加者がサクラを助けた時間はどうなっただろう。比較してみると、サクラに助けられた条件のとき、他の二つの条件よりも長くなっていることが明らかになった。さらに条件とサクラを助けた時間、感情の感情の間の関係を調べてみると、感謝の感情が条件とサクラを助けた時間を有意に媒介していた。つまり、参加者はサクラに助けられたことにより感謝の感情を覚え、それがサクラへの利他行動を引き起こしたといえるのだ。また、単に楽しい気分になっているだけでは、そのような行動は起こらなかった。

 さて、問題は、同じ条件下で参加者がサクラ以外の人を助けるかどうかである。助けてくれた人を助けるのは単なる互恵的利他行動でしかなく、新設の連鎖が起こるには、逆行的互恵性、つまり関係のない第三者への利他行動が起こることが必要になる。

 そこで彼女らは、同じ条件だが、参加者がサクラではない別の人から調査の手伝いを依頼される状況での実験を行った。すると全体的に助ける時間は少なくなったものの、やはりサクラに助けられた条件での方が、そうではない条件よりも長くなっていたのである。つまり、ある人から利他行動を受けると、全然関係ない別の人への利他行動を起こす傾向が強くなることが、実験的に示唆されたのだ。

「『逆行的互恵性』の進化」へ続く

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