反出生主義に見栄えを

 月一くらいで書きたいなぁと思っていたnoteだが、気がつけば2年も放置してしまった。せめて盆くらいはまとまった文章を書こうと思い、重いスマホを上げてログインした次第である。
 2018〜2020年の間は、いい年こいて3度目の大学生をやっていて、反出生主義をテーマにした卒論を仕上げるために、ベネターその他を読み込んでいたが、今となっては労働のつらさにかまけてすっかり離れてしまった。
 時間が経っても僕の反出生主義は1ミリも薄まりはしないが、一方で、ベネターのような分析哲学的な手法による説得は効果が薄いな、とも感じている。ベネターの理論は、もともと反出生主義に親和的な人に理論的な支柱とある種の癒しを与える効果はある。あるいは、反出生主義者ではないが哲学に興味がある人に問いを突きつけることはできるかもしれない。しかし、大多数の中道の人々、および出生主義者を動かす力に、あまりにも欠けている。
 たとえば、同じ倫理学の極論でも、ピーター・シンガーによる動物の権利論に影響を受けて肉食をやめたという人は一定数いるだろう。が、ベネターに影響を受けて、もともと子供を作ろうとしていた人がそれをやめたという話はほとんど聞かない。もちろん、絶対的な知名度の差はある。が、根本的にはライフスタイルとしてかっこいいかダサいかの違いだろう。

 ところで、人が反出生主義に至る動機は何だろうか。僕はこれにはかなり性差があると見ていて、男性は挫折、女性は性嫌悪によって反出生主義に向かうケースが大半だと感じている。男性は競争に敗れたとき「こんな世界に子供なんて……」となり、女性はいわゆる負の性欲の発露として、産まない自由を行使することになる。後者は想像でしかないので、このあたりは女性の意見を聞いてみたい。はっきり言えそうなのは、男性の反出生主義者はその大部分が弱者男性の集合に含まれるが、女性はそうではないということ。

 上で、ベネターの理論はある種の癒しを与えると述べたが、一方で、ベネターに触れないほうが楽に生きられただろうな、という気もする。あの理論を知らなければ、結婚して子供を作る普通の人生を送っていただろうな、という意味ではない。(一定の前提を共有できれば)反出生主義は正しいという自信を得てしまったがゆえ、たとえば知人の出産祝いを求められるといった状況に、多大な精神的苦痛を覚えるようになってしまった。それこそ、隠れキリシタンが踏み絵をさせられるレベルの苦痛だと言っていいだろう。ベネターを知る以前も反出生主義者ではあったが、ここまでではなかった。ひいては、自身の弱者男性性に磨きがかかってしまったように思う。

 思想は他人に影響を与えてこそ価値がある、とすれば、男性の反出生主義者の最適解は何なのか。一つ言えることは、挫折の正当化のための手段、つまり負け惜しみであってはならないということである。
 子供を作ろうと思えば作れる境遇にある男が、それでも反出生主義を主張するとき、はじめて中道の人の共鳴を得る可能性が出てくるのではないだろうか。
 ネットを徘徊していると、まれに、元反出生主義者だったが子供を作ったという女性を見かける(匿名掲示板レベルだけど)。サンプルが少なすぎてはっきりしたことは言えないものの、転向の理由は「子供に会ってみたい」という開き直りと、出産のタイムリミットの問題が主なもののようである。
 一方で、男性の転向者は、今のところ見たことがない。いるならばぜひ教えていただきたいし、可能であれば意見を聞かせてほしい。
 あまり男女を分断するようなことは言いたくないが、現実問題として、女性の反出生主義は自由の行使であり得るが、男性のそれは不可抗力で行き着く場所という気がしてならない。もちろん、挫折や厭世によって反出生主義に至る女性もいるのだろうが、それが主ではないはず。

 とっ散らかってしまったので暫定的な結論を言えば、現状最も影響力がありそうな反出生主義の形は、競争を勝ち抜いた男性が子供を作るか否かの葛藤を乗り越えた末の美学的なもの、あるいは作品、ということになる。異論は認める。

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