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釜炒り茶と私

動機、きっかけというものは様々。
お茶作りで言えばそれが好きだから自分でも作りたい、というのが理想だと思います。
対して私が釜炒り茶を作り始めた理由というか出会いは少しイレギュラーかもしれません。

存在はもちろん知っていましたし父も既に作っていましたが、正直飲んだ事は殆ど有りませんでした。
そもそも僕はお茶に対しどの様なスタンスで居たかと言えば、茶工場を出たら少しもお茶の話をしたくなかった。あくまで仕事として以上の深い関心は無かったですし、売り先や売子さんと茶揉みの大先輩である工場長の話くらいしか聞いていなかったと思います。釜炒り茶に限らず、生業である筈の蒸し煎茶ですら真っ当に向き合っていなかったのです。今となればとても恥ずかしく思います。

それは、確かとあるドリンク飲料メーカーが発酵茶に興味を持ち始め国内での原料供給源を求める一環で、知人を介し台湾のお茶師さん(こう呼ぶのが正確なのかは分かりません)を呼んで勉強会を行なってくれた。その時からです。
知人にとっては「言えば何でも製茶する男」だった私でしたので、コイツに覚えさせれば便利だと思ったのでしょう。
もっとも以前の私だったら上記の様に大して関心を持たなかったかもしれません。ですが、その時はなぜか少しワクワクしていた気がします。
プライベートでお茶の話を避けていた時と違い、妻や父とも少しずつ茶の話をする様になっていましたし、何よりも茶工場にこもって歪だと感じる意見を聞き続け、自分が作った茶がどの様に消費されているか、その姿を想像出来ずにモヤモヤしていたからかもしれません。私自身も、自分にとって画期的であるとかブレークスルーをもたらす何かを求め始めていたのだと思います。

台湾のお茶師さん、ここからはシン(仮名)と呼ばせていただきます、は同年代でとても朗らかな方でした。当時何らかの賞を取った?とかで(ちゃんと聞いていなくてスイマセン)、腕は確かな方でしょう。
果たして、目の前で繰り広げられる製茶手法は正に目から鱗でした。
こちら日本人サイドはついつい「〜は何分毎何回やるのか?」「〜は何度にするか?」「は何%で〜するか」と、もはや数字で茶を捉えきっていました。
それは、お茶そのものでは無く制御板と睨めっこしてお茶を揉んでいた、いや揉んでいる気になっていた私自身もそうでした。
シンは「・・・は〜(数字)か?」と問われる度に「数字では無い。とにかくお茶を見て」「とにかく葉を柔らかく」「とにかく青臭さを抜く」と、それだけを繰り返していました。
今思えば彼も具体的な目安等を持っていたとは思います。ですが製茶をとかく数字で捉えたがる私達日本人に五感で向き合う様に、もう少し言えば一枚一枚の茶の葉そのものにきちんと対峙する様に。そう言いたかったのではないかと思います。

当時120キロラインで一日10トンの生葉を揉む、効率最重視の工場に居た自分にとって「一枚一枚の生葉としっかりと対峙する」という点は最も耳の痛い点でしたし、同時に自覚しつつある課題でもありました。
そして何より「青臭さを抜く」「柔らかく」「水を芯から如何に抜くか」と言うシンの言葉。
それは正に蒸し煎茶の製造で通底している事です。
煎茶とは全く違う工程を経ている、全く違う概念で作っていると思い込んでいた台湾茶が、日本のお茶と同じ概念の元作られているという事に私は感動したのです。

それからです。父と共に町の施設を借りては釜炒り茶を作り出したのは。
お茶工場に入り製茶を初めて、何もかもが面白く感じていた頃を思い出しました。すっかりハマりました。
同時に、大きな工場で相変わらず大量生産する事に対する違和感はどんどんと膨らんでいきました。
釜炒り茶に限らず、蒸し煎茶も一葉一葉向き合うべきだしそうありたいという思いが芽生えてきたのです。
あの時シンに出会い一緒にお茶を作らなければ、僕は家を継ごうとも小さな自製工場を設けようとも思わなかったと思います。

翻ってここ最近の事。あれから幸いにして自分達の工場でも釜炒り茶を作る事が出来る様になって、ある程度の物が出来ればそれをどう量産していくか、と言う事ばかり考えていました。ある程度の物も碌に出来ない癖にです。
そんな時に茶農家の友人達と一緒に手炒りをする機会がありました。私より遥かに茶に対する造詣の深い友人と茶を作り、私はシンとお茶を作った時の感動した気持ちを思い出しました。
ここ最近の私は葉にちゃんと向き合っていたのか?
あの時の気持ちを忘れかけていた様な気がします。
蒸し煎茶の方は自分の理想に少しずつですが近い物になっていく一方で、釜炒り茶や紅茶はまだまだ程遠いです。それは経験の差も有ると思いますし、改めて自分がそれらのお茶を作る意味を問われた気もします。
自園内での商品としての位置ばかり考えてしまっていました。
初めて釜炒りと出会った時の事を友人が思い出させてくれました。
一葉一葉にしっかりと向き合って、一つ一つの工程の意味を真に捉えていく。

ここからが私達の釜炒り茶の本当のスタート地点なのかもしれません。末永くお見守り頂ければ幸いです。

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