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初めまして。

世人もすなるnoteといふものを、茶農家もしてみむとてすなるものなり。
始めまして。静岡の真ん中、川根本町という田舎町で茶を作っている鈴木茶苑の二代目鈴木健二と申します。
茶を作りながら送っていく農家ライフ、とそれとは特に関係のない趣味や日々思った事考えた事を徒然と書いていこうと思います。どうかお付き合い下さい。

当苑をご存じ無い方へ先ずは自己紹介を。
当苑は父勝彦が始めて私健二で二代目の、歴史の浅い茶農家です。歴史が無い分それに煩わされる事も無く好き勝手なお茶を作ろうと、その様な姿勢でおります。
当地へ祖父と共に移住した父が茶農家を始めた理由は…聞くたびに変わるので割愛します(笑)。
ただ、茶の全盛期から下り坂に差し掛かった頃から茶業に関わり始めた私が想像するに、父が始めた頃の茶業の熱気は想像するに余りあります。茶の消費と生産が大きく拡大する局面であった当時は、衰退し廃業や放棄茶園が増える現在とは比較にならない明るい展望が開けていたと思います。
今ではレジェンドとなった方々が活躍していた当時、父の目には茶業は眩しく写ったのではないでしょうか。

さて、私自身と言えば幼少期から自分の家が茶農家である事は全く、本当に全く意識した事がありません。というのも当地では当時多かれ少なかれ茶畑を所有しているのが当然であり、少なくとも自家用茶を作っているのはごく当たり前でした。
茶畑に囲まれて家が建つ様な土地です。子供の私は、日本人なら茶を育てているのが当たり前とナチュラルに思い込んでいたのです。
その様な始末ですので、自分の家が茶農家、ましてや小売まで行うお茶屋さんである事は全く意識もせず、手伝いもせず、興味関心も無いまま育ちました。次男だし。

そんな私がなぜ茶農家になったのか。
1ミリもそんなつもりが無いまま高校卒業を迎え、大学受験に失敗し特に将来に展望も無いまま何の肩書きも失いました。
そう、当時聞かれ始めた言葉「ニート」です。
いや、当時はまだニートはあまり言わなかったかな?フリーターという言葉が当たり前に通じる様になり、折からの就職難もあって「会社に永久就職する」と言う価値観が揺らぎ始めた頃でした。
展望も無いが自分自身の生き方をまだまだ絞りたく無かった私は、何をして良いのか、もう少し正確に言えば「何かを選択しそれに固定された生き方をしたくは無かった」というのが本音でした。
だからプラプラしていました。どうしようも無いヤツですね。

そんなどうしようも無い息子を見かねた父が、半ば無理矢理連れて行った場所。それが当時平成初めの茶の最盛期からは少しずつ衰退し始めたとは言え活気に溢れる現場。
そう、茶工場でした。ここから私の茶業人生が始まったのです。(続く、のか?)。


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