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【県社協シリーズ】No.18

【県社協シリーズ】No.18 心のふれあい

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県社協シリース"Nol8
昭和48 年2 月
心のふれあい
ー一家庭奉仕員体験記録ー一
徳島県社会福祉協議会
発刊のことは‘
わが国に均ける社会福祉の水準は,近年急速に向上しつつありますが,なかでも大きな国民的課
題は,人口の老令化にともなう老人問題といえましょう。
特に本県は全国で5 番目に多い老人県でありますので,老後対策の重要性は一層増大されなけれ
ばならないのであります。
ところで在宅老人対策の1 つとして,家庭奉仕事業制度が昭和3 7 年頃から設置され,ねたきり
老人やひとりぐらし老人,あるいは介護を必要とする重症心身障害者の方々の杖とも柱ともなる活
動が続けられ,多大の成果をあ心ざめてお辺るのであります。
これら,家庭奉仕員の日頃の献身的な体験記録を,奉仕員相互の研修に役だてるばかりでなく,広
く社会の人々にその活動の実態をご理解いただくとともに,この問題を国民的視野でご検討願う目
的で体験記録を募集いたしたのであります。
幸い多くの家庭奉仕員の方々から貴重な体験記録のご寄稿を賜わりましたo 衷心より感謝いたす
ものであります。
ご応募されました作品は,何れも血のにじむような生々しい第1 線の方々の貴重な記録であり,
使命感と善意の躍動を感ずるものばかりでありましたっ
選考委員会においては,制限された入選点数のため比較的,表現力と文章形態に優れたものを1 7
編選ばれましたので,これを「心のふれあい」一ー家庭奉仕員体験記録一ーとして発刊することと
いたしましね
この発刊に際し,ご指導とご協力をいただきました関係各位に厚く必礼申し上げますととも陀,
この冊子が家庭奉仕員活動ひいては,本県社会福祉事業にあらゆる分野で活用されるよう期待いた
しております。
昭和4 8 年2 月日
社会福祉
法人徳島県社会福祉協議会
会長伊東董
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~〜〜もくじ〜〜〜
◇特選
心のふれあい・・・3
◇入選
第 1 席 まごころと愛情で・・・滝川岩子・・・ 5
第2 席一握りの奉仕・・・武岡キクヱ・・・ 7
第3 席私にもふばあちゃんがいる・・・村田和子・・・9
◇秀作
詩・短歌・俳句・・・元木絢子・・・11
気力で勝ち得たしあわせ・・・藤本登志子・・・13
老人家庭奉仕員となって・・・河崎貴美子・・・1 5
ホームヘルペーの喜び・・・貞野典子・・・17
この仕事妃生がいを・・・板谷チョ・・・19
私の思うこと・・・中田洋子・・・2 1
ひとナじの光求めて・・・南良子・・・23
◇佳作
身障家庭奉仕員体験・・・•金釣文子・・・2 5
無題・・・松田ハナコ・・・ 27
奉仕日記・・・谷房子・・・29
奉仕負雑記・・・奥森ヱミ子・・・31
老人家庭奉仕員として想う・・・藤川トヨ子・・・33
私が歩んだ道・・・加茂美距栄・・・35
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•~•~•~•~•~• i特選{ •~•~0~•~•~•
心のふれあい
那賀川町鈴木ジゲ子
私が老人家庭奉仕員としてこの職についてから満1 年の日が来ようとしている。昨年の今頃,担
当世帯の1 老人の家を尋ねた日,私は今までの決心が急に崩れそうになっfc.oこの仕事はとても私
には勤まらない3 自信がない。どうしても駄目である…………と。
その人の家は町の通りから少し路地を這入った小さな借家である。先輩に連れられて,背を丸め
せまい入口をはいる。暗い部屋,薄よごれた畳,積み上げられたぼろ布の山,それにいいようのな
い悪臭が鼻をつく。私は一瞬唖然としてしまった。老人福祉がこれ程声高く叫ばれている現代の社
会に,未だこのようた環境の中妃生活している人があろうとは想像もしなかっit.o裸電球の下で坐
っているその人は,白内障の身体障害者でもある。その上,耳も不自由なのか驚くような大きた返
事がかえって来る。私は何を話す勇気もなく,先益の背に小さくなっていた。さすがに先輩は経験
者だけ尻何の頓着もなく,豊富な話題でその人の心をとらえてしまっている。こうしてその日の勤
務は終ったのであるが,多年家庭に埋もれていた私は,今まで知らなかった社会の側面に触れ,想
像以上に今後の仕事の困難さを思い,すっかり意気消沈してしまった。併し帰途につきながら先輩
陀励まされ,自分の考え方の甘さを反省し五翌日から気持ちを新たに再び巡回する事となった。
一般に老人は頑固だと云われる。その人も又例外ではなかった。加えて目が不自由なので気むづ
かしく最初は容易になじむことが出来なかっfc.o今日もどなられるのではないかと,おどおどして
座敷に上る。頼まれた用だけして時間が来れば帰って来る。と云ったそんな訪問の状態が続いた。
或る日,距離をおいて話をする私に,「もっとこっちへ寄って来んで。咽みつけへんけんな。」と
の言葉に自分の心を見すかされた思いがしてはっとする。こんな調子であるから2 人の間には心の
交流等と云うものはない。形式だけの偽善の奉仕では老人の心を安らげる事は出来ない。と私は次
第に自責の念にかられた。
次の日の訪問から私はもうおどおどしなかった)社をすえて汚れた座敷へどんどんと上る。強い
て汚い物に体当りする事とした。異臭の強いシーツを取り替えた。衣服を洗い破れを繕っfc.oそし
て今まで正視する事が出来なかったその人の目を真直ぐに見た。みつめていると本当に可愛いヽ顔
をしたおじいさんであり,多分若い頃は男前だっただろうな等と思ったりする。表面ば頁固である
が根は善人であるという性格も除々に解って来た。私は随分気持ちが軽くなっfc.oその人も何時の
-3 -
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間にか弾んで話をするようになり,気嫌のよい日は「又来てよ。」と出口まで私を追って来る。
こうして何ヶ月か経った初夏の頃,その人は入院する事となったコ病院の白いベットに寝かされ
坦隻せたその人を見舞った瞬間,私は他人のような気がしなかっ尤コ何だかいとなしく思わず手を
握って,「CO さん鈴木ですよ。」と云うと「あ口来てくれたんか。ありがとうよ。ほんまに遠方
ありがとうよ。」と繰り返しよろこんでくれた。今にして思えばこれが心の触れあいと云うのだろ
うか。何故か解らないが均互いに温かいものを感じ,その入院がきっかけとなって私達の距離は一
層近づけられたような気がする。そこを退院して白内障手術の為再び他の病院へ入院する事となっ
ね私はそれに付き添い,今度は何の抵抗もなく病院の長い廊下をその人の手を引いて歩い九3 診
察室,食堂,そして便所,風呂場へもみちびいて行った3 終始その人は安心し切って,ふんふんと
うなづきながら私に寄りかかって歩く。信頼されているというよるこびが始めて私の胸を熱くした)
「早く目があいて鈴木さんの顔が見たいな。」とその人は云う。「土浬告,沢市のように目があいた
ら『世女誰ですか』って云わんならんね。」とそんな冗談がとび出す程になった。
「もう大丈夫。自信がついた。」と今私の心はこの秋空のようにさわやかである。今後も色々の
困難にぶつかるであろうけれども1 年間に得た尊い体験によって,それに対処する姿塾は整ったと
自負している。私の毎日は6 人のふじいさん,均ばあさんと共に明け,暮れる。私はこの孤独な人
達と話しあい,笑い,そして泣き,その人々の心を理解し,残された人生の持ち時間を大切に過ご
させて上げたいと思っている。又それを通して今までしあわせ薄すかった自分の人生も共に光ある
明かるいものにしたいと願っている。
作者紹介
・住所徳島県那賀郡那賀川町大字黒地7 0 番地
•氏名鈴木ンゲコ
(大正1 2 年1 0 月2 0 日生)
•担当地区・職務別那賀郡那賀川町全般
老人家庭奉仕員
•原稿の表題“心のふれあい/9
家庭奉仕員体験記録
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0~•~•~•~•~•~•f入選第1 席{
まごころと愛情で
板野町滝川岩子
午前8 時半,町役場で朝礼をうけます。そして町長さんや助役さんの「今日もよろしく頼みます
ょ」との笑顔の激励に送り出されてから,奉仕員としての私の1 日の活動が始まるのです。
思えば4 4 年5 月1 日,私達の町,板野町に初めて「老人家庭奉仕員」なる制度ができて,私が
ただ1 人,つとめ出したのでした。
私は自分の口で言うのも変ですが,生来困っている人とか病弱な人,頼まれた事などに知らぬ顔
のできぬ性分だったものですから,長い人生の辛酸をなめつくしたお年寄りの世話をするのは,む
しろ社会人としての当然の義務ではあるまいかと考えていました3 そこで「滝川さん,一つやって
みてくれませんか」との話があった時は,どちらかと言うと勇んで張り切った気持で引き受けたも
のです。
ところが実際たお世話をしてみますと,そんな甘い感傷なんか吹き飛ばされる出来事が,次から
次へと起こってきて,当初の張り切った気持をかき消される思いがしました。3 年6 ヶ月の奉仕員
仕舌の中で,私が一番悲しい想いをしたのは,ゃはりお世話をしていた老人が5 人も亡くなった事
ですが,誤解をされて泥棒扱いされた事も,忘れよう陀も忘れる事のできないつらい事件でした3
それは或る7 5 歳になる老人が,もらっている生活保護のお金を受け取って来て欲しいと頼むも
のですから, 2 つ返事で引き受け「ハイこれですよ」と確かに渡したのです。それをどう勘違いし
たのか「もらっていない」と言い出し,隣近所へ「お金をあの人に盗られた」と言いふらすのです。
どう話しても聞き入れてくれず噂が伝わったとみぇ,私は役場の係りの方にたずねられる始末でし
た。この時ほど善意が相手に伝わらず,それどころか誤解をされて身に覚えのない泥棒扱いまでさ
れた口惜しさ無念さで,もうこの奉仕員を止めようと何度,夜の寝床の中で口惜し涙を流したか知
れませlu:,また,家の中で麦殻をたいている人があるかと思えば,忘れっぼい老人の常とて電気コ
ンロをつけたまま隣家へ遊びに行き,私が訪れた時は床まで黒くこがしていました。私がもう少し
遅かったらと,直ぐ裏に幼稚園があるだけに「ゾッ」とさせられたものでした。
それに持って行ってあげた梅干しをぷどうと勘違いして,ひどく怒ったお婆さんの事も忘れる事
ができませlu:,可愛いく私を叱るのは孫達です。孫に与えられているおやつであるお菓子を,よる
こぶお年寄りの顔を見たさに急ぐまま持って行ってしまうものですから「ぼくのおやつをおばあち
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ゃんがまた持って行っちゃった。おばあちゃんなんかきらいだ」と,帰った後,なじられる事は再
三です。農家ですので,四季とりどりの果物や野菜も家族の口に入るより,先ずお年寄りにと,っ
い持って出かけてしまうものですから9 息子夫婦から「姦母さんて,本当の親子の気持で尽くして
いるのね」と感心される事もあります。
色々の苦労話を記していけば枚挙にいとまがありませんが,でも寝ずめ(床ずれ)ができて身体
も満足に動かせない老人に「今度はいつ来て下さるの。頼みますよ」と,帰る私をさびしそうなひ
とみで見つめたり,休日でも誰かに頼むとみえ電話で「ちょっと来て下さい。待っています」と,
言伝されると,ああ,この私でも頼りにし期待して待ってくれている人があるのだと,何もかもう
っちゃって飛んで行く私なのです。
ぬいもの,炊事,洗濯,掃除,買物等々,身の回りすべてのお世話をして上げるのが私達奉仕員
の役目ですが,それを知った知人の中には「大変ですね。いくら給料もらってるの?」とたづねる
向きもあります。が,この仕事は老人につかえるという愛情がないと,均金の為にと考えていては
駄目です。
私が現在お世話している老人は8 名, 1 人に週2 回の割りで訪問していますが,通っている中,
しだいに実の親妃つかえる気分になるものです。またそうした気持でなければ長続きしないでしょ
う。最初は苦虫かみつぶした表情で迎えた人も数回通う中には,につこりとした優しい笑顔て~待っ
てくれています。亡くなったお年寄りから手を合わせて「おヽ世話になった,ありがとう」と感謝さ
れた時たは,この仕事にたずさわる生きがいを感じ益々励げまねばと強く心に誓ったものでし1t.o
いま世間で駁がれている「悦惚(こうこつ)の人」老人対策は色々と問暇はあるでしょう。でも
究極はまごころと愛情と話し相手を欲っしているのが老人の本当の姿であり心だと思います。私は
今日も明日も明後日も,私を待ってくれている1 人1 人のひとみをまぶた妃浮かべながら炎天の下
或いは冷めたい雪の中を必死にペク)レを踏み続けるでしょう。「寝ずめでき,こわごわ替える,ぉ
むつかな」自作の下手な句でも口ずさみながら…•••…。
作者紹介
•住所
・氏名
徳島県板野郡板野町唐園4 1 番地
滝) II 岩子
(大正5 年1 0 月2 3 日生)
•担当地区・蹴務別板野町全城
老人家庭奉仕員
•原稿の表題 ” まごころと愛情で II
家庭奉仕員体験記録
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•~•~•~•~•~•~• i入選第2 席{•~•~•~•~•~•~•
一握りの奉仕
半田町武岡キクヱ
私がこの仕事に就いたのは,昭和4 5 年1 月でした3 子供も大きくなったので,何か世の中のお
役に立つ仕事はないものかと考えていた時,ある人のすヽめで働く事になりました。でも社会に出
て働くには,非常な勇気と,世間の批判に耐える覚悟がいりました。
先づこの仕事をする上妃大切な事は,仕事の内容をよく知り,それぞれ係の方との連絡をとり,
訪問先きの老人に対しては,相手の立場に立って,考える事だと思います。私の今迄妃受持った方
は1 4 名です。訪問する家は, 6 世帯を週2 回,午前と午後にわけています。今までに世話をした
人の内容を,な話して見ますと,ねたきり老人の介抱は,身体の清拭,床づれ防止にパウダーや円
座を使います。爪切り,髪そり,散髪等もします。布団は日光消毒したものを交互に使い,寝.巻..き
も取りかえます。中には特に大きな人もいて, 2 人で自由にならず,とっさの思いつきで,タオJレ
2 本をつなぎ,病人の肩から脇の下にかけ,両端を結んで私の首にかけました。こうすると万一手
がすべっても落す心配もなく,容易妃動かす事が出来ました。又この人は夏だというのに電気毛布
の中たねていました。身体の清拭,着がえ,洗濯は私がしましたが,おじいさんの世話なので思う
様にならず, 3 ヶ月後に特別老人ホームに入れてもらいました。又1 3 年もねたきりの人もいて,
この方のつらさもよくわか_ります。時々,私の手を握って,「有推う。有難う。」と言って喜んで
くれた事もありました。こんな時程この仕事にたづさわった事を嬉しく思いました。
又その他の人の殆んどが,身体が不自由で歩けない人が何人もいます。1 人暮しで生活保護をう
けて暮しています。ラジオもテレビもありませんが何時も感謝の生活を送っています。ガスもなく
いるりで火をたいているので,とても心配です。又,嵐の夜等は近所へ電話をして安否を確めない
と眠れません。又このかた達にはこれ以上自分の身体を悪くしないために,適度の運動と日光浴,
マッサージ等もよいとすヽめています。この方たち尻する私の仕事は,掃除,洗濯,炊事を始め,
生活保護のお金や,病院から薬をとゞけたり,買物に行ったり,話をきいたり,肩もた`バいたり,
髪もといたり,又時々手紙の代筆や縫物等もします。こうした仕事の中で特に私の心を嬉しくさせ
てくれたケースがあります。今年の5 月6 日から受持っている6 7 オの女の方ですが,手足が不自
由で立つ事が出来ません。今迄お世話した中で, 7 3 オのおばあさんさえ歩ける様になったのだか
ら,この人の場合,ょくなるかも知れないと思いました。先づお互いをよく知るため,話をきいた
り,肩や腰をもんだり,又病院から薬をとゞけたりしました。貧血気味なのでそのつもりで食事を
とり,少しづヽ時間を増して日光浴もしています。手でも助ける様になったらと,編物や縫物もし
て見ましたが,中々巧く行きません。半ばなげやりになっていた時,「私だったら字や絵もかきた
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いと思うし,お花もいけたい」というと,はっと思いついた様に,「ほんなら,筆字でも書こうか
しら。」という事で,早速筆と紙を買ってきました。それから毎日字のけいこです。若い時いくら
上手であっても,手が不自由なので思う様に書けません。「む」の字1 つ書くのにも工夫し苦労し
ました。上手に書ける様になったので,役場へもって帰り,厚生課長さんや係長さんに見てもらい
ました。「これは上手だ。長生きする楽しみとして,しっかりやって下さい。」とおほめと励まし
の言葉をいたゞき,大変喜んで毎日精出しています。唯書くだけでは進歩がないので,先生に見て
いたゞいたらと思っていたら,同課国民年金係長さんがその道の達人で,心よく引きうけて下さっ
て御指導をうけています。1 0 月9 日,今日も,「ホラ,こんなに高くあがるようになった。」と
嬉しそう妃手をあげて振っています。私は驚いて大きな声で,「まあ,よかった。」と言いました。
最初は前に伸びるだけで,顔にもとゞかなかったのです。今では口の中の熱もとれ,食事もあ、いし
くなったと喜んでいます。自分の趣味を生かして楽しく過すこと,これがどんなに健康に役立つか
を知りました。書道を通して,歩ける日のある事をお祈りしています。
奉仕員生活, 2 年1 0 ヶ月,まだ日が浅いが,私なりにこれが正しいと信じつふ歩んできました。
どんな仕事でも,自分がその人の立場に立ってお世話してこそ,心がとけ合うものだと解りました。
そして私が歩んだこの道は,決して無益ではなかった事を嬉しく思います。世話をした人の顔が,
そして思い出が浮かびます。「あんたも気をつけてなぁ。」と後を追う様にして見送ってくれる。
こんな美しい心に応えるためにも,掃除や洗濯にとゞまらず,話をき\,共に考えてあげて,何時
も元気で明るい生活を送って行ける様頑張り続けたいと思います。
今日もまた心たのしく我が家出ず老いらとともにしばし語らん
今日もまたつめがなかれと祈るなりわびしく住まう老いのくらしに
久々た歩けし事のうれしさにお礼まいりに行きしとぞきく
若き日を思い出してか盆おヽどり我におどれと老母もいえり
目はうすく腰はまがれど若かりし思い出たのしいくたびか語る
作者紹介
・住所
•氏名
徳島県美馬郡半田町6 9 2 番地
武岡キクエ
(大正9 年8 月1 3 日生)
•担当地区・職務別半田町全城
老人家庭奉仕員
•原稿の表題“ 量りの奉仕”
家庭奉仕員体験記録―--]
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i入選第3 席}•~•~•~•~•~•~·
`私にもおばあちゃんがいる‘‘
鳴門市村田和子
「青」。「赤」。今日の訪問家庭状況を,単車のエンジンをかけながら,役所前の信号で占って
見る。(医者に行って留守かな? それとも,松かさの様に垢の着いた手で練炭火鉢をか\えてい
るかな? おばあちゃん,今日もコルセットを腰陀巻いて内職に精を出していそうかな?..`...)
役所を出たとたん陀信号が青になり,ぁ\よかった。とほっとする。今日は運が良い,あの猫のお
じいちゃんの部屋,風があるので悪臭が消えていそうだな,と1 人言が飛出す。
国道とは云っても一車線,しかも,市街地のあたりでは単車は歩道すれすれのところを通らねばな
らず,一方右側は1 0 屯もあるかと思われる様な大きな冷凍車,ペス,そしてダンプカー。
「あっ./ あの土ヽじいちゃん今日青野菜買って来てあげるの忘れてる……」と思い出しつヽ走って
いる横を,「ビューン,ピューン」と,大きな車,また車に追い越されながら走り,この車の風速
で,単車はハンドルがその度妃,グラ.ノグラ./ とゆれる時が度々ある。へJレバー妃なって日の
浅い日々のこと,身の危険を感じ,今日でもうやめてこようかな。明日は自転車で行こうかな。い
や自転車で十何キロの道を行くのは無理よ./ と,自問自答しつ\,また翌日となり,「おばあち
ゃん,コンニチワーー」と,今日迄続いている。
老人家庭奉仕員。名前だけは1 人前,でもむづかしい福祉の知識等,全々皆無,何も勉強して居
らず,又,上司からも, 1 日1 日が実地で勉強を重ねて行って下さいとのことだけ。結婚して十幾
年,井の中の蛙から,外界に接触を許された事のうれしさで,取りあえず飛び込んだ職ながら,
(続けられるか? られないか)思案に暮れているある日のこと,単車を山の裾野に置き,細い坂
道と石段を「ヨッコラジョー」と,小山の中腹迄登り着<,1DK ,軒先の透き間から薪で炊く炊
事のすす,が幾すじも,されはて口ひるひとみ板に,ポーと形となって残っているおばあちゃんの
家,朝顔2. 3 本,ホウセン花2. 3 本,他に2. 3 種の草花が植えられているだけの,ほんのわずかの
庭の草むしりをしていた。しばらくの間,草抜きを手伝いながら,彼女の若い頃,他家の娘さんも
持っていないミシンで,自分は流行のズボンを縫っていたと,自慢話を聞かされる。抜き取った草
をパケツで,更にもう少し登った草捨て場所に持って行く,「おばあちゃん捨てヽ来て上げよう」
と云うも聞き入れず,「私も行くよな」と,杖を突き突き重い足どりで,それでも口だけは若い人
に負けない位おしゃべりしながら後に着いて来る。帰り道,道端の山小屋で,折れた片方の腕をか
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ばいながら,枯れた小枝を集め縄で束ねている1 人の老女に少し手をかして上げた。此の老女私に
礼を云いつゞ,「この人どこの人で」と,受持のおばあちゃんに尋ねている。この時,この受持の
おばあちゃんの返事は忘れることが出来ない。満面の徴は奥深く,細い目は涙と,目やにでくしゃ
くしゃ,今にも落ちて来そう,<ぼんだほほに格別大きな口元,中から覗いている歯は,鉄のさび
た様な色が1 本=ュー,喉元は肉の無い皮だけが,垂れ下っている,そんな顔を得意げにほころば
せ,しばらくして「これ家(うち)の嫁(ねえ)さん」と,答えた。幸せな家庭では手紙の一醤に
もならないこの言葉であっても,世帯を持った事の無い薄幸の彼女にしてみれば,一生一度の家庭
的な言葉であったに違いない。と思9 時,さりげなく云ってのけた彼女より,聞いていた私の方が
胸が熱くなり,そっと後を向いてしまった。この時始めて,自分の仕事に自信を持ち,そして彼女
にもまた自分の存在価値等問うぺくも無いと思っ1to
友達,近所の人々に,「貴女何処へお勤め?」,と開かれてもその日迄は,「老人ヘルパーよ…
…」と素直陀返事をすることはなかった。しかし今はもう違う。洗濯場の私達に,役所の職員の冷
やかに送られる横目にも「ええままよ.'I やれるものならあんたもやって見てよII 」,色の附いた
下着も恥かしがる事なく,横を通り抜ける後姿に胸を張って無言の言葉を送り返す,昨日,今日の
新米ヘルバーさんである。
おばあちゃんが種を蒔いたヘチマが大きく実のり,私は喜んでもらってヘチマタワジを作った。
人妃物をあたえた喜びで一杯の土`ばあちゃん,来年もきっときっと元気で大きな実を作ってね。
作者紹介
•住所
•氏名
徳島県嗚門市撫養町木津4 8 2 番地
村田和子
(昭和1 0 年1 0 月1 2 日生)
•担当地区・職務別鳴門市鳴門町瀬戸町北澁町高品堂浦櫛木
老人家庭奉仕員
。原稿の表題 ” 私にも おばあちゃんがいる”
家庭奉仕員体験記録
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•~0~0~0~•~•ー。‘‘f作秀•~•~•~0~0~•
詩・短歌。俳句
徳島市元木約子
短歌
•病みたれば奉仕員の介護うけたしと答えし人よ君は独居老人(ひとり)か
・「ヘルバーです」と言えば肯く人に遇う8 年すぎにし風薫る朝
・ねたきりのベット妃伏して君は1 人この台風の夜半を過ごすや
•手を引いて這うごとく歩む我が背より良さ嫁なりと語る声する
•熱さらぬ老婆をあとに帰える道奉仕員我れの限界を知る
•もの言わぬテレビと共に住む老婆(ひと)はただおまいりを待つだけと言う俳句
•菊薫りまつる人なき君思う
•五月雨や病む手に老女猫を抱き
。春風もとどかぬ家にひとり伏す
•主かわり華やぐ家に鯉のiをり
・タ暮れて梅の香あふれひそと逝く
詩ありがとう
「ほんまにな転車には気いつけなよ。
わたしは寝とるけんええけどなあ。」
ああ,ありがとう均ばあちゃん。
金貨匠埋まった王様だって
こんな幸せしらないでしょう。
握り合う手のぬくもりが
パット心に広がって
ああ,ありがとうおばあちゃん。
ヘルバー続けていけそうよ。
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「おまはん,ほんまにへたやなあ
ちょっとわたしにかしてみない。」
おこらないでよおばあちゃん
ミジンばかりのわたしには
綿入れ半てん無理なのよ。
寝床にいながら手を出して
教えるしぐさに亡き母を
思い出してる昼下り
ああありがとう土ヽばあちゃん
ヘルパー続けてよかったわ。
作者紹介
「今度はほんまに遅かったなぁ。
もうやめたんかと思うたでよ。」
ごめんなさいねおばあちゃん。
わたしを待ってる人がいる。
この喜びを大声でカーばい叫びたい。
あなたの言葉に励まされ
暑さも寒さも忘れ果て
ああありがとう必ばあちャん
ヘルパー続けていけるのよ。
「あんたにみんな言うたらなどしてか
心がおさまって安心するんや。ほんまでょ。」
ああありがとうおばあちゃん
わたしはただの女です。
そんな力がどこにあろ
あなたの心の悲しみを
真心こめて聞くだけよ。
信じてくれてありがとう。
わたしが力忙なれるなら
ヘルバー続けていきたいな。
•住所
•氏名
徳島県徳島市南佐古5 番町1-3 番地
元木絢子
(昭和5 年4 月1 4 日生)
•担当地区・殴務別徳島市内
老人家庭奉仕員
•原稿の表題詩・短歌・俳句
家庭奉仕員体験記録
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•~0~•~0~0~• {秀作i • ~ 0~•~•~•~• ” 気力で克ち得たしあわせ”
鴨島町藤本登志子
「望み,心に満つれば人老ゆることなし」私は今日も大好きなこの詩を口吟みながら訪問予定の
S 老人宅へ向いました。「おはようございます」声をかけると待ちかねたような弾んだ口調の返事
がかえってきた。この家庭は, 8 4 オになる寝たきりのおじいさんと実の娘さんの2 人暮しで平凡
な日々を送っていたのですが,ある日突然不幸にも娘さんが不慮の事故にあい入院してしまいまし
た。寝たきりの老人にとってどんなに大きなジョックだったろうかと思います。私が訪問をするこ
とになったのはその時からでした。最初訪問した時は,たゞ話し相手は猫だけで1 人暮しの寂しさ
を猫によってまぎらわしていたのですn 仲良く枕を並べて寝ている老人のわび住いが私の目に痛く
やきついて離れませんでしたo 老人は悲喜交々いろんなことを話してくれました。「娘の入院期間
は早くて半年はかかる8 4 オにもなる•こんな身体では娘が退院する迄生きておれるだろうかn 老
い先短かいこの謳にとって出来る限り近所の人に迷惑をかけないように」と,とても心細い事ばか
りです。生きるための希望は閣かれませんでした。私は老人の気分を転換さすため今迄の歩んでき
た道での楽しかった想い出話を•また全盛時代の頃の話題など努めて聞き出すようにしました。そ
のうちに明るさを取り戻し楽しい思い出話に得意満面で語ってくれるようになりました。この老人
はかっての菊作りの権威者で大正天皇の御即位の式典に献花までした程の名人だったのです。ある
日枕元にあった広告ピラで蝶々の折り紙をして見せてあげ,ものを作る楽しさを話しますと,大変
気に入ったようでした。次の訪問日に,早速私の前四壁掛けを出して「蝶々に花がなくては寂しい
だろうから作ってやりました」と,とても美しい菊花の壁掛けを作っていました。私はその立派な
作品にみとれ,またそれ以上に「蝶陀は花を」と,人間的な愛情を示したこの老人に大きな期待を
かけるようになりました。また一面,孤独な心の底をみせつけられて淋しい気持でした。それから
私はかねて用意して来たテープレコーダーで,大好きな浪曲を聞かせてあげたり,自分の声を吹き
込むなどして,たとえ,ひと時でもすべてを忘れ心の底から笑えるよう妃と,っとめましたo 訪問
する度ごとに次第と表情も明るくなり,いろいろなものを考案して創作に意欲を燃やし生活の中に
喜びと楽しさが甦えってきたようでした。「おじいちゃん今日は歩く訓練をしようね」一歩も歩け
ない老人陀とって大変なことを云う人だと思ったことでしょう。「望み,心に満つれば人老ゆるこ
となし」この詩の意味や両手両足がなくとも立派に生涯を生きぬいた人の体験談など,話している
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うちに意欲が湧き,不自由な老謳四鞭打って一生懸命訓練しました。先づ最初はタンスの引き手に
つかまって,立ちあがろうとしても,そううまく立てる筈がありません。2 年余りも寝たきりです
もの…… だがおじいさんも私も挫けず必死になって頑張りました。ちょうどその頃,身障者文集
「流れのさなかで」が発刊されたので読んで開かせてあげると感動されまして益々訓練に拍車がか
かりました。訪問の度ごとに体調には充分気を配り乍ら訓練を重ねているうち妃•努力の甲斐あっ
てやっと自力で立つことが出来たのです。その時ばかりはうれしさの余り思わず「おじいちゃん」
と叫び,手を取り合って喜び合いました。それから3 ヶ月後やっと待望の入院中の娘さんに面会に
行くことが出来ました。親娘共々どんな妃喜んだことか,ご想像ください。今では杖をついて戸外
ヘ散歩がてら近所歩きが出来るようになりましたへその上•娘さんも退院なさってとても明るいし
あわせーばいの日々を送っています。
週2 日の訪問日が老人には一番楽しい日だと.待ち佗びてくれる,その心が私陀とって何よりも
勝る,得難い,報酬であったと思います。
老人福祉問題が大きく浮びあがってきた今日,明治,大正,昭和と激動の中を生きぬいてきた人
たちのため妃私たちは老人家庭奉仕員の一員として,その重大さと使命感を痛感し,無知無能の私
ではあるが,たゞ真心のみを以って奉仕し,多くの老人に親しまれる,ヘルパーになりたいと願い
つつ今日もまた頑張っています。
作者紹介
•住所
0 氏名
徳島県麻植君鵬島町西麻植中筋1 7 6 番地
藤本登志子
・担当地区・職務別
•原稿の表題
(昭和6 年9 月3 日生)
鴨島町
老人家庭奉仕員
気力で勝ち得たしあわせ
家庭奉仕員体験記録
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0~•~0~0~ •~ •{秀作{• ~ •~ 0 ~•~ •~ •
老人家庭奉仕員となって
石井町河崎貴美子
私は昭和4 6 年1 月石井町の老人家庭奉仕として就職しました。未だ経験も浅く駆け出しのホー
ムヘルベーですが,今迄のお仕事を振り返って記してみました。私の受持老人は1 1 名で盲目の男
女1 名づい寝たり起きたりの老人達で,老人と病気は結びついている様に,お医者様に薬をもらっ
ている気の毒な生活保護家庭の老人ばかり,この小さな町にも孤独で閉鎖的な1 人暮しの老人が町
の片すみでそっと暮している様子妃おどろきました。この人達に奉仕するのが私の仕事である。誰
に教わる事も無く,自分の良心に従って,自已を欺くことの出来ない瞭業に勤まるであろうか,と
案ぜられた。訪問を重ねて行く内に最初は何者かと心の窓を開かなかった老人達も日を重ねる内妃
打ちとけて昔話や身上話へと話合いの時間も長くなり,遠慮していたな仕事も次々と言い付けて下
さる様陀なり,今では待ちかねていて心配ごとの相談等,近所の人や親類の人にも聞いてもらえな
い事迄話して下さる様になりました。
「ご免下さい」何度声をかけても返事がない。入口が開いているのにと思い座敷に上ると仏前に
座っている。声をかけると振向いて泣き声で座布団を進めて下さる。どうしたの? 「私妬は可愛
いい1 人娘がありました。美しく優しく大きくなってそれはよい娘になり隣り村の青年に望まれて
嫁に出しました。壻も優しくて私は幸せ者でした。それが2. 3 日の病で娘が死んでしもうて」と声
をつまらせる。「その娘が生きていれば私はこんな生活をしなくても皆様にお世話をかけなくても
昨夜娘が夢に出て来てやれ嬉しやと思う内に目がさめてつらうてつらうて」と線香を上げて早う迎
えに来て,よそ様妃迷惑をかけぬよう,そっと死ねる様おがんどったところだと言われる,皆が養
老院へ行け行けと言われるけれど,私はじいさんも可愛いい娘と共に暮したこの家で死にたい。そ
ればっかり神仏た祈っております。そしたら貴女の様な人が来て色々とお世話をして下さる様にな
りこんな嬉しい事は無い「もし私が病気になり寝込んでもしたらあの箱の中に着替を作ってありま
すからよろしくお願いします」と云われる。竹取の翁(おきな)の物語りを聴いている様な気がし
て,お気の毒な老人達にこんな私でなぐさめられるのなら,日当りのよい緑側で柿の色付を眺め乍
ら肩た\きやら髪結いしつ\冗談話の会話の中で聞く笑声に世間の雑音を忘れのどかな心の安らぎ
を感じます。童顔に似た年寄の可愛らしい笑顔こそ私達奉仕する者の一番の喜びであります。何の
心配も悩みも無く安心した老人の笑顔こそ平和な国民のシンボルであろう。ひとけ◎無い家の中で
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1 人ぽっちで生活している老人に家庭的ふんい気を与え孤独を慰め,とざされた心に社会的な接触
の窓を開かせるのも私達の役割である。からだのみならず,心の病気に笑を忘れている老人の心を
ほぐし,共に喜び悲しみを分ちあう連帯感が切実に感じられるのも奉仕員のみが知る実感かも知れ
ぬっ帰る時どの老人もが「未だいいではないですか」「次は何時来てくれますか」と強く相手を求
めている。孤独な老人がホームに入りたがらないのは何故だろうか,昔の養老院の風習のみ信じて
いる老人に現在のホームのよさを一目見せてあげたへ)昨年1 0 月私達の勧めで神山老人ホームに
入所された大栗さんの慰問に行った。とても血色がよくなり色白く太って来て見達える位若々しく
変られていて「大変お世話になりました皆様と楽しく仲良く暮しております」と涙を流して喜んで
下さった。この幸せを他の老人に分けてあげたい。面倒だから食事の回数を日2 回にし不規則な時
間にお`茶漬サラサラですませ,ほとんど保健栄養が取れていない。入院して滋養食だ薬だと騒いで
も間に合わぬ。常た体力保持をしてほしい,買物をたのまれても商店ではセルフサービスで「一山l
「ーベック」「一袋」何円と盛合せ販売が多く一品買えば少食の老人達では同じ物を何回も食ぺね
ばならず,何品も買えば経済が持たず,味覚の点,経済的にも負担は大きい, 1 人暮しの老人に豆
腐半丁,ネギ何本と小口買が出来たらと思う。国民福祉優先,老人医療費無料の行なわれている現
在,老人の自殺が世界的に多いのはなぜだろうか。私の受持っている老人だけはそんな悲しい事は
させられない。一日でも幸せ妬この世の楽しさを味ってほしい。テレビもラジオも何ら文明の恩典
を受けてない老人達,いくばくも無い余生をせめて心安らかに暮してほしい>私達もやがて老人た
なるのである。私達のお仕事は金銭的取引で勤まる職業ではない。上司陀気兼も無ければ人と競争
もいらない,良心の積み重ねで出来る仕事である。自分の心妃良心の貯金をしている様なものであ
る。首を長くして待っていて下さる老人達の顔を思い出すたびに自伝車を踏む足妃も自然と力の入
る思いがする。今日も明日も明後日も私の土ヽ勤めの続くかぎり,私達の後をついで下さるヘルバー
様達に胸を張ってバトンタッチ出来る様安心してお仕事をしてもらえる様,侵秀な先輩の方々の貴
重な体験等も教えて頂きへJレベーとしての向上に頑張りたい。
作者紹介
・住所
•氏名
徳島県名西郡石井町浦庄下浦357 番地
河崎貴美子
(大正1 D 年8 月1 2 日生)
•担当地区・職務別石井町
•原稿の表題
老人家庭奉仕員
老人家庭奉仕員となって
家庭奉仕員体験記録
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•~0~ 0~•~ 0~• ‘‘l•`J'J作秀• ~•~ •~•~ •~•
ホームヘルバーの喜び
山川町貞野典子
「ねえさんよな恥」
今日もまた,いつもの話が始まるのかと思うと,いつものことで••••••と思いつヽも,片付けるわけ
にもいかない,いろんなことが含まれていることに気付く。
老人のくりごとには違いないのだけれど,老人の心理は老人になってみなければわかるものでは
ない学者や知ったかぶりの若い者が推測してあヽだ,こうだというが,どれもあてずっぼうで,
決して真実をついていないという。
日本のような老人冷遇の国では,現実に,希望を失っているし,人を信ずることも神仏を頼み信
ずることもできず,明日か明後日か,いずれ未来に生を終わるやるせなさは,自分1 人しかわから
ない。少しでも助けになるというなら親身になって世話して下さるねえさんのような方と,お金ぐ
らいなものだが,赤貧洗うが如き老人には,それすらもない,楽しい余生など考えも及ばぬ,後は
たゞ死を待つばかりである。と云う。
自分の問題と思えば,人ごとにしたり,突き離したりしないで,自分も将来なるんだから,自分
が年寄りなら,どうしてもらいたいか,ということで判断し,この職業を大切にしている自分のこ
と,身につまされる思いがし,生き甲斐をも感じている昨今。時には,自分だけ責任逃れして,ど
こかでだれか妃押しつけたいという気になる時もしばしばあった。
「今日はねぇ,おじいちゃん,お餅をもって来たんでよ。おじいちゃんは好きだって言ってたで
しょう。」眼つきは私を見ていながら,奥がどろんとして,遠くを眺めているような具合い,部
屋の中は無人に等しへ)ゴロゴロと物が倒れている。まずスイッチを入れ,湯を沸かす。あちこち
と片付けをする。最も1 日おいてのことだが,それにしても,iまこりの溜り方は予想以上のもの,
米をたっぶりみがいて電気ガマにしこむ,味噌汁と野菜の煮付けのようなものが何よりという。洋
風物は口にもしない。せいぜいグチを言うのがせきの山,亡くなった奥さんのよいところばかりが
しのばれるのか,ポッリボッl) とくりごとが始まる。と引きつゞいて,中風の発作が出はじめる。
よだれが絶間なく口の両端から流れ出る。一つ一つ腫物にさわるように処置していく………。片付
けをすませ,家を出る。木の間から,かいま見る宵の明星が山の端にぼつりと一つ。なぜか報いら
れないものが体のどこかを襲うのが物悲しい。
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__________________________________「おじいさん今日は。」
こちらのおじいさんは,老人哲学をぶつくせ者。
「登條するのは心がまえの悪い奴,頭も体も動かさないと早く逢[緑してしまうな。」と口ぐせ
のように言う。とはいうものの余.り体を動かしていない証拠に家の中は雑然としている。この前整
頓しておいたのに……。炊事場は食べた器がそのまんま,ひどいのは机の上の食器まで,ちょこん
と置かれたままであるっ若い時代あくせく働いて,家に帰っては何もせず奥さんを使いまわって,
自分では何もしない人だったんだから,こんなことがつい慣れてしまって,口先きのわりに体が登
條しているおじいさんでもあるわけだ。
「おじいさん,体を使って後片づけなさってはいかが? 老人呆けも遠のくのとちがいますか」
と問い返したい心境にかられる。でも,言うこと陀一咀且あり,私もそうしていきたいものだと考え
ている。
「おばあちゃん,お元気でいらっしゃい主すか。」
「… •••••b 」今日は天気がいいので外出でもなさっているのかしら,と家の中へ入る。さすが
は女性,台所はきちんとととのっているo 洗濯物は,ちゃんとカゴに入れ,洗濯しやすいようにし
て下ださってある。心救われる思いがする。その点,男の老人はなんにもできていないし,しもし
ない。おばあちゃんと話すことがらは決まって,世のはかなさ,人の情の有難さである。
「世の中は娘が嫁と花咲いて,ジ\ヽとしぼんで,婆と散りゆく」
と人の無情さをじっくりと話してくださるが少しも,しめっぽさのないあっさりしたもの,聞いて
いてもなるほどとうなづかされ,身につまされることも度々。
今日はお話を聞くこともなく時間が経過してしまった。おばあちゃんの帰りを待ちわぴる私だっ
たが,洗た<物を整理し,「おばあちゃん,あすまた参ります。土`元気で」と置き手紙をして帰る
私妃とって,今日は価値ある一日であったのか,西空の夕焼けが一際映えて,心がはずみ吾が家へ
と急ぐ一人の幸せな,幸せな,主婦となっていた。合掌。
者紹介
•住所
•氏名
徳島県麻植郡山川町3 6 9 番地
貞野典子
(大正1 5 年3 月1 6 日生)
•担当地区・職務別山川町全般
老人家庭奉仕員
•原稿の表題
If
ホームヘルパーの喜び,I
家庭奉仕員体験記録
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•~ •~•~•~0~• }秀作{ • ~ •~ •~ •~ •~ •
この仕事に生甲斐を.[9
貞光町板谷チョ
私が此の仕事を始めて3 年数ケ月が過ぎ去りました。町長さんの奥様が「あの人がクリスチャン
だから此の仕事に向いているのではないだろうか」と,おっしゃったので,ある人が私の所へこの
話を持って来て下さいました。その時私はふと年老いた両親の事を思いました。さだ健在でおりま
すが速方の為何も世話をする事が出来ませんので,此方で困っている方のお世話をさせて頂いたら
私の両親もどなたかに,お世話して頂けると思って此の仕事をさせて頂く決心をしました。
でも最初はとても不安でした。1 人1 人環境も,性格も違いますから,そのつもりで接しなければ
なりません先づどなたからも信用して頂かなければ何事もうまく行きませんので,誠心誠意で事
に当ります。
初めは,かたくなな人も,だんだん心を開いて下さいます。今ではお互い陀何でも話し合える間
柄妃なりました。奉仕の内容について私のしている事は,他のヘルパーの方にくらべて,行届かな
い点があるかも知れません。でも私は私なりに誠意をつくしてやっているつもりです。洗濯機など
ない家が多く,大きな物は自分の所へ持ち帰って洗います。つき'物にしても,ミジンでする物は,
みな持って帰ってします。知らない方は私が家でして居れば自分の仕事をしていると思います。
でも,たとえ人様から何と思われても,お年寄の方妬喜んで頂ければ,それで満足でナ。それに相
手の立場や,気持ちがわかったつもりでいても,実際には中々わからないものです。次に私の失敗
談を書いて見ようと思います。O さんと言う全盲の方がおります。週に2 回診療所へお連れします。
神経痛で右肩が痛むのです。o さんの手を引いて歩いて3 a 分の道のりです。県道から1 D D 米ば
かり坂道を登ります。登る時右側は道より高い山ですが,左側はふみ外すと下の山へ落ちます。
診療所の玄関前5, 6 米の所は両側とも落ちる様な所です。ある日何時もの様に0 さんの手を引い
て診療所へ向いました。県道と言っても,せまい道で,片側は山,片側はJ II です。大きな車に出あ
うと,山はだ妬くっつく様にしなければなりません。道のいたんだ所はさけなければならず,相当
気を使います。診療所の往復が0 さん四准一の運動です。歩きながら0 さんは今まで誰にも話した
事もないと言う事を話してくれます。或る人が0 さんに「何時も診療所ヘー諸た行く人は,あなた
噂さんですか何時も楽しそうに話し合っていますね」と言われたそうです。それだけ信頼されて
いますが,私の一寸した油断から大変な事になる所でした。先生に診て頂きましたら,その日に限
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って先生が「0 さん,人にばかり頼っていないで自分で杖を使って歩く練習をしなさい」と申され
ました。帰りに玄関を出た所は道巾も広いし,車も来ないからと思ってせいぜい2 分間位私が0 さ
んから目を,はなしました。それまで只の一度も手をはなした事もなかったのに,先生からも言わ
れたし少しでも1 人で歩いて見様と0 さんも思ったのでし九コふと見ると0 さんが見えません。び
っくりして坂をかけ下りて見ましたが見えません。ふり返って見ると道の下の木がゆれています。
行って見ると0 さんが落ちています。道から2 米近くあります。M さんに手伝って頂いて助け上げ
ましたが,もし手足が折れていたらどうしようかと思いました。もう一度先生に診て頂きましたが
幸い手にかすり傷をしただけですみましたo 此の時ほど,tまっとした事はありません。
私は朝出掛ける時に,今日も一日の使命を無事に全うさせて下さい。と,お祈りして出掛けます。
この時はほんとに神様に感謝しました。道が広いとか,せさいと言う事は見える人の言う事であっ
て見えない人には大して関係ないと言う事た初めて気が付きました。この事を通して,どんた時で
も油断は禁物だと,っくづく教えられました。
もう1 人全盲のおばあさんが居りますが,この方も,(,和がらかな人で全盲とは思えたい様です。
一恒]も泣事なんか申しません。家がやはり坂を登った所にあるのですが坂道には慣れているので歩
くのも早いものです。私がお風呂へ連れて来て帰りには坂を登るので疲れますが,おばあさんは,
さっさと歩きます。私ょb 背も高いので,私がおばあさんに手を引かれている様ですね。と言って
笑います。中にはほとほと手をやく人もあ`りますけれど,こんた事は書きたくありません。私の様
な者でも人様に喜んで頂けるかと思う時,しみじみ自分のしあわせを感じます。
これからも出来る限り続けたいと張切って均ります。
作者紹介
•住所
•氏名
徳島県貞光町西浦7 7 番地
板谷チョ
(大正8 年1 2 月8 日生)
•担当地区・職務別貞光町全城
老人家庭奉仕員
•原稿の表題” この仕事に生甲斐を.I!,、
家庭奉仕員体験記録
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0~•~•~•~•~ 0{秀作{ • ~ •~•~ •~ •~ •
私の思うこと
鴨島町中田洋子
私逹家庭奉仕員の仕事は,めぐまれない対象家庭を訪問して,家事介護相談助言等,身のまわり
のお世話をするのが任務です。
戦後の日本では,家族制度が崩壊し,核家族が急速妃増えたためか,老人や身障者の1 人暮しが
目立っておりさす。日本は今日では経済大国妃なっていますが,今の時代に取り残された不幸な人
々に私達の仕事汎筍の中のかすかな光りになれたら••…• こんなに尊い仕事があるだろうかと,今
更ながら責任の重大さを痛感致しております。
私は心身障害者家庭奉仕員として, 1 年と1 0 ヶ月になります。昭和4 6 年の1 月福祉の仕事に
未経験の私が,友人〇紹介で不幸な人々のお役に立てたらと思いこの仕事を選んだのですが,当時
私に取って初めて対象家庭を廻って見て人間関係のむつかしさがひしひしと感じられ季節の厳しさ
と同様前途の多難さを感じたものです。
とかく社会と断絶しがちな対象者にとって当初家庭奉仕員の存在が,どのよう妃うつっていたか
というと,掃除や洗濯をしに来る人で,役場から給料を貰って来ているのだから使わないと損だと
ばかり,障子をあけ,訪問を告げると,ほうきを取って仕事を強要する人,なるほど理屈には,か
なっていますが,当時給料は少なく奉仕員のなり手の少なかった時だけ妃奉仕精神がなければ勤ま
らないといっても過言ではないと私は思っておりましたので,給料を貰っているので使わな損だと
か,対象者自身の口から「あんたこんな仕事をどうしてするの。」と言う言葉を聞くと,自分の持
っている尊いものや誇りをきずつけられたように思いそんな事のあった日は,暗い気持ちになり,
せめて対象者とは上でもない下でもない互角のおつきあいがしたいものだと願い,社会の目も対象
者とあまり変りないのではないか? 私達はたゞ金儲けのために掃除や洗濯だけをしていればよい
のだろうか。それならば,もっとほかに体裁や給料のよい職場があると思うのですが,すくなくと
も福祉の一端を背負うのであれば,そこに対象者との心の交流があり広い愛情がなくてはならない
と私は思います。
私の訪問している家庭は盲人の一人暮しが比較的多いのですが,この世に生れて盲目の世界に生
きる人の心中を察して余りあるものがありますが,社会との断絶,孤独,病気,貧困のすべてが,
盲人の二重苦になっているように見受けられます。ある日の対話から,「うちのおばあさん(現在
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特養に入所中)が死んでも,隣からは誰も手伝ってくれないのであんた妃は是非手伝って貰いたい」
と頼りにされる。この話しを聞いた時,障害があると人との交りにも傷つきやすく近所とのつきあ
いもない事を知ったのですが,せめてお隣からは,あたたかい言葉の一つもかけてほしいと思う。
私達が研修会に行くと,「資源活用をしなさい。」と教えられますが,自分の力で出来ない時,他
の人の協力を得て対象者をよい方向に持って行くとの事ですが, 1 人暮しの方は夜間万ーの事があ
った時隣所とのつながりがなければ,最近新聞紙上で見るような,いたましい死に至るので,横の
つながりを持つために私自身が土、隣りとのつながりを持つように働きかける必要があり,対象者の
不安を少しでも取りのぞくのが私の務めでもあるように思います。人間にとって孤独がどんなに苦
痛か,この仕事をするまで考えてもみなかったのですが私が訪問すると何時間でも昔話しをしてつ
きることがない。どんたに部屋が汚れていても,まず話しを開いて孤独を埋めてあげなくてはいけ
ない。そして対話の中から相互の信頼が曲たる大切な時間でもある。「あんたが来たらー諸に食べ
ようと思って待っとったんじゃ。」と娘の来るのを待ちわびるように慕われ,「私の一生面倒を見
てくれるように。」と頼まれ,「何でもあんたに相談する。」と頼りにされる。考えてみれば,世
の中の甘いも辛いもかみわけたお年寄りから,私のような至らない者にこのような信頼が寄せられ
ているのかと思うと,やりがいのある仕事に就けたよろこびと誇りで胸がいっばいになb ます。
また食事を作ってさしあげー諸にいただくと「2 人で食ぺるとごはんがおいしい。」と大変よろ
こんでくれる。本を読むのが好きな人が盲目になった場合,本を声読して慰さめる。耳の遠い人に
は箸談でと,最近の対象者のニードは,多種,多様と言われておりますが,私達奉仕員が,これ妃
対処していくにはどうすればよいのかと常々考えているのですが,家庭奉仕員の仕事が,専門職と
して通用するように研修の場がもっとほしい。そして自らの肱務向上をはかり,対象者のニードに
対応して,たえず心の琴線にふれていきたいと私は願っております。
作者紹介
•住所
•氏名
徳島県麻植郡禍島町西麻植字田淵9 番の2
中田洋子
(昭和9 年2 月2 2 日生)
•担当地区・職務別鴨島町
身障家庭奉仕員
•原稿の表題“ 私の思うことII
家庭奉仕員体験記録
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•~•~0~•~•~• {秀作i • ~•~•~•~•~ 0
ひとすじの光求めて
徳島市

良子
数ヶ月前,施設に入所したA 君(9 オ)の母親から今も時々電話がある。元気に暮していると云
って。
私が彼のヘルペーとしてお世話したり,家族の話し相手になって訪問したのは,それは2 ヶ月程
度の短い期間であったが,一生忘れることのできない架い感銘を与えてくれ,そして又この仕事へ
の情熱をもえたたせてくれた大切な日々でした。
A 君は甕唖者でありそのうえに動く重度精薄児です。彼の家族は両親と7 オになる妹の4 人暮し
です。大阪で事業陀失敗した父は行くあてもなく徳島に来て誰1 人知人のないこの地で,過労のた
め倒れ入院してしまったのです。
やがて母は生活を支えるためバーで働くようになりました。昼間週2 回掃除当番で出かける母,
彼はダンポールが大好きで大小の箱をならべ,何時もその中に入ったり引っばったり,押したりし
てよく遊びま十。その合間に私をたたいてニコニコする。それは何時ものように一緒に遊べと云う
合図なのです。
そうしてしばらくは遊んでいてもすぐ飽きてくる。私は持参した折紙で飛行機を作ったり,絵本
を見せたり,でもそれも長続きはしない彼は「ワーワー」と奇声を発しながら部屋中を走りまわ
るのです。見かねて外に連れだすと途端妃走りだしました。
人と車の中を彼はまるで超人のようにその維とうを縫いながら駈けだしてしまったのです。私は
交番に事清を話し,保護をお願いする一方必死で捜していると向うから,例のニコニコとした笑顔
で彼が姿を見せたとき,思わず「ほっ」として涙が出てしまいました。
彼は感情の起伏が激しく,そのうえ放浪癖があり,隙を見ては脱けだすのです。夜,母親が出か
けた後,幼い妹は兄を連れ,帰えりの遅い母を,町をさまよいながら待つのです。そして看板を突
き倒したり,時には黙って店のジュースを飲み,やがて近所からの苦情と度重なる警察の呼び出し
に,母親は幼い兄妹を残してついに家出してしまったのです。今でいう蒸発でしょう。病院から帰
った父親とともに八方手をつくしたのですが行方はわかりませんでした。途方妃くれ男泣きする父
親,幼い兄妹も母の姿が見えないので落ちつきません。
「今夜は是非泊ってほしい」と云う父親の申し出に私は迷いながら,でもとうとう帰ってきまし
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た。アパートの管理人と民生委員たくれぐれもそのことをお願いして………。
翌日,その父親が一家心中を計ったが未遂に終ったことを知らされました。
私は昨日の事が悔やまれ,奉仕員としての自分のしたことに深く反省してみました。
それから数日後, A 君は施設00学園に,そして妹もある養護施設へとあずけられることになり
ました。大好きなおもちゃと身の廻りのものを持って。
後に残った父親と,かってA 君がダンボールを引っばりまわした部屋を片付けました。入口に母
親宛の置き手紙をし,父親が病院に帰ってゆくのを見届けて私は帰宅しました。
それから幾日かが過ぎて母親がたずねてきたのです。ゃつれた母親は泣きながら「何処迄行って
も子供の声が耳から離れたい」といいました。大変ジョックの多かったA 君一家は今は私の身辺か
ら遠ざかったが,このA 君らのような在宅重度身障家庭に接して私は始めて世の中の隅々に明るい
光りがゆきわたっていないことをつくづく痛感しています。
こうした人々のために私は毎日懸命に働きつづけていますが, 1 日も早くこうした人たちにあた
たかい光.りがそそがれることを祈ってい主す。
作者紹介
•住所
•氏名
徳島県徳島市城東町1 丁目5 番地1 9-2
南良子
(昭和1 2 年1 0 月1 4 日生)
•担当地区・職務別徳島市内全般
身障家庭奉仕員
•原稿の表題” ひとすじの光求めてII
家庭奉仕員体験記録
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0~ •~•~ •~ •~ • {佳作{ • ~ 0~•~ •~•~ •
身障家庭奉仕員体験
小松島市金釣文子
4松島市に於て,初めて身障家庭奉仕員が出来たのは,昭和4 2 年1 0 月でした。以来,私は,
この仕事を続けて居ります。今月で,満5 ケ年になりました。初めのうちは,奉仕員とは,どんな
仕事かと家庭訪問をして驚きました。まずし因家庭がほとんどでその上体が不自由な人ばかりが単
独で暮して居るのにびっくりしました。最初は,これはまあえらい仕事だと感じました。上役の言
われるまヽに働きました。私の受持っている身障の人は全部単独世帯で現在1 1 世帯です。半分が
全盲の人で大変気の毒な人ばかりです。さてこのおばあちゃんはもう亡くなりましたが全盲で1 人
ぽっちで小さなひとましかない小屋で住んでいました。年は7 3 オで生活保護で細々とした生活で
した。私の週2 回の訪問を鶴首して待っていました。「こんにちはふ士[あちゃん」と私の声を知っ
て「待っとったんでよ。来てくれたんで」とうれしそうにいヽますn この声をきくと来てあげてよ
かったこんなにまでに私を待っているのかとうれしくなり仕事に張り合いを感じます。そして急い
で買物,掃除,洗濯と次々にしてゆきます。この土ばあちゃんは何時も「死ぬまで来てよ,たのむ
でよ」と,口ぐせの様にいっておりました。ある日訪問すると病気で寝こんでいました。おかゆを
たいてたべさしたり大変でした。終いには下の世話で,おむつをとりかえしたりするのに大変でし
た。死ぬまでたのむといったおばあちゃんとうとうその日が来て私の訪問を待って私の手をとり,
安らかに死んで行きました。この時本当に世話してあげてよかったと,つくづくうれしく思いまし
た。それからも1 人気の毒な女の人で5 5 オの人なんですが領の毛がうすく真っ白でその上白目が
とびぬけている様で,ゃせ細ってまるでおばけ同様でした。それで親類からは見はなされ独りぼっ
ちで歩くことも出来ず家の中をひざではう様妃していましたo 目が全盲で大変でした。私の訪問を
自転車のとまる音ですぐ「金釣さん来てくれたんで,待っとったんでょ」と,さもうれしそうです。
早速買凶物をして来て食事を作ってあげると,おいしそうに「あんたが作ってくれるとおいしい」
といってたぺます。それから掃除,洗濯をしてあげると,にこにこしてすわっています。ある日,
目が痛いから病院へ連れて行ってというので,うば車にのせて眼科へつれて行きました。ゃせ細っ
ているから,そんな車にでものれました。この人も「死ぬまで来てよ」とよく言われました。ある
晩急に風雨がはげしくなって来たのでその家が気になり自転車でカッパを着てとばしました。雨戸
をしめようと思って入ると返事がありません。びっくりしてゆりおこすと目をあけて「すまんな,
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来てくれたんで」とうれしそうでした。あ口来てあげてよかった。ガラス障子だと吹きとばされた
のにこの人も昨年死んでしまいました。私が世話をしてあげてそして死んで行く何だかいやな気が
頃しい気がしてなりません。今度は身寄りのないおじいさん,戦時中徳島で坊空ごうで妻子が焼
死して独りぼっちで年は7 3 オ,目が全盲に近く肢体が不自由大きなちんばです。何時も火鉢の横
で煙草ばかりふかしています。風呂が大きらいで困ります。それで夏中,お湯をわかし行水をさし
てあげました。こう寒くなるとそれも出来ず手や足をふいてあげるとじっとして,にこたこしてい
ます。先日も「おまはんにたのみがあるから手引きしてくれ」というので一諸妃行きましたo 徳島
の寺町たある墓地へ自分の妻子の墓で「わしが死んだら骨をこの中へ入れてくれ,それだけはたの
む」というのです。どの人も死ぬまで来てよってたのまれます。このおじいさん現在は元気です。
もう一軒のうちは,大変土地の底い所で大雨が降ると床下まで入ります。マッサージをして全盲で
独り暮しです。っい先月の台風の時なんです。夕方大雨なので浸水したら困るので畳を上げに来て
との電話で大至急とんで行き荷物,たヽみと階上にかたづけました。翌朝6 時頃又電話で「沢山浸
水したけん早く来て」との事で,すぐ出かけましたo 途中鳳栄町あたりは一面海のようで泳<•よう
な気持でその家に着きました。その時床下まで完全に浸水し大変困っていました。私がゆくとそれ
はそれは喜こんでくれましたn 水のひくのを待って後の掃除が大変でした。便所も何もかも一儲に
なってどうする事も出来ないくらいでした。全盲で水が一番恐しいと,何時も話しております。本
当に来てあげてよかったとつくづく感じました。奉仕とは字の如く仕え奉る真心を持って気の毒な
人達の必世話をしてあげねばと心に誓いました。私は誇りを持ってこの仕事に不幸な人達の力にな
る使命があるのだと,我が心妃誓って今日も又明日も·,又希望を持って「待っとったんでよ」の人
達の言葉を思い出し私の体の続く限り頑張る毎日です。
作者紹介
•住所
0 氏名
徳島県小松島市中郷町桜馬場95-2 番地
金釣文子
(大正9 年9 月2 3 日生)
•担当地区・職務別小松島地区
身障家庭奉仕員
•原稿の表題 ”身 障家庭奉仕員体験”
家庭奉仕員体験記録
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0~ 0~ •~ •~•~ • {佳作} •~•~•~•~•~•
“無題JI
川島町松田/、ナコ
私奉仕員をさせて頂いて早5 年になります。
始て町長さんが私に奉仕員をしては,とおすすめを頂きました。私も始めての事で人の世話をす
る仕事を私に出来るかどうか不安な気もしましたが「そヒ懸命にお仕えすればお年よりも喜んでく
れるのではないかと思ってさせて頂く決心を致しました。それから私の奉仕の仕事が始りました。
始めての訪問を致しました所,大へん喜んでくれさして私のような1 人ものの所へきて洗濯や掃除
炊事までして頂いてと涙をながして両手をついて喜んでくれた時,私はあ\この仕事をしてよかっ
た。これからもこの人達のお世話をしてあげねばと思いました。もう1 人のおばあさんは朝早起き
すると神様にどうか奉仕員さんが今日一日無事でお仕事が出来ますようにと拝んでくれるそうです。
ほんとう妃心と心のつながりが出来れば親子のような気がします。私も川島町のお年寄りは私の父
母であり,又兄姉であると思っています。何年かお世話をしたお年よりが病気の為,亡くなられる
前に私の手をしっかりとにぎり」てっこりしてこの世を去ってゆかれました。この時が奉仕員とし
て一番かなしい時です。もう1 人のおじいさんは,ねたきb で口もきけません。「おじいさん,何
かいいたい事ありますか」といいますと,「うん」といいます。私は大きな紙にあいうえなを書い
て見せ,おじいさんに字を手でおさえさしました。1 0 分もかかってやっとおさえた字が「奉仕員
がきてくれて,うれしい」とふヽしてくれました。私も思わずうれしくなり泣きだしました。その老
人も7 8 オでこの世を去ってゆきました。もう1 人のおばあさんは「あす訪問しますよ」といって
帰り,あくる朝私が駈けつけると寒い冬の日でしたが,家の前に立って西へむき,東へむき,私を
待っていました。「おばあさん,だれかまっているのですか」といいますと.「あんたを待ってい
た」と申します。そして私を家の中へおしこむようにして入れました。私達奉仕員をこれだけ頼.り
にしてくれているかと思うと私もとの人達の手足となって一生懸命にしてあげねばと思っています。
ある日施設へいっているおばさん陀面会にいってあげました。役場のおばさんきてくれたといって
だきついて泣きました。色々話をして別れましたが,それから半月ほどして,こんどは電話をかけ
てあげましたら,生れて始めての電話機を耳にしたと思います。「どちらの耳が閣こえるかと誰か
がいっています。おばあさんは「こっちの耳じゃ」といって,私が「もしもし」というとおばあさ
んは喜んで「はい元気でいます」と声をはずましていました。「松田さんも元気ですか,そして毎
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日年寄りのお世話をしていますか。また) II 島の人は変りはないか」となっかしそうに問いました。
もう1 人のおばあさんは,がんで入浣をしていましたが決くなって退院致しましたので,今日は,
おばあさん◎昆院祝いをしてあげようと思い,すしをとってあげ,たべながら昔頌伏を2 人で歌い
阿波おどりを踊り出すと,こんなしあわせがあったのかと喜んでくれ,私も苦しいことや不平不満
も忘れ,この仕事の価値をつくづくとかみしめることができました。
これからの私の人生は老人とともに,ささやかな光りを求めて歩むことでしょう。
作者紹介
•住所
•氏名
徳島県麻植郡川島町学町吉本2 0 0 番地
松田ハナコ
(大正5 年4 月2 5 庄ヒ)
•担当地区・職務別川島地区
老人家庭奉仕員
•原稿の表題’’ 無題/1
家庭奉仕員体験記録
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•~•~•~•~•~• i佳作{0 ~ •~•~•~•~•
”奉仕日記“
石井町谷房子
8 月4 日金曜日晴れ
今日も朝から暑さがきびしい。国道1 9 2 号線を西べ旬って自転車のベダルをふむo 舗装道路の
熱気が蒸風呂の中を走っているような暑さで目に汗がしみる。
訪問先へ急ぐ。家族がろうあ者で話はいつも手まねばかり,字を知らないのでカレンダーや写真
などをたよりに話をする。手の動きは何一つ見落さないように見てるのだが,なかなか理解できな
い。私がうなづくまで何度もくり返しくり返し説明してくれる。何度も訪問している内に少しづつ
その手まねもわかってきた。
奉仕員になってまだ日が浅いので何にもわからないが何よりも手まねの話が一番困ります。私も
いろいろと手まねをしているうちに相手に通じた時の喜びは何とも言えません。こんな喜びは奉仕
員にならなければとても味わえない事です。夫婦喧嘩の仲裁も思うように私の意思が表現できず,
いらいらします。今まで気にもしなかった話の通じ合うという何でもない事がどんなに大切か,ろ
うあ者に接してつくづく感じました。
先日も知人と逢い,その家族陀身障者がいます。私がホームヘルバーの仕事をしている事を話し
ましたところが強く励まされました。自分のしている仕事がとても大変なことに気がつき一日も無
駄に過してはならないと思いました。
9 月1 9 日晴れ
秋晴れの良いお天気,庭先の菊も美しく咲き川淵のすすきの穂も風にふかれて秋の来たことをし
みじみと感じます。
訪問先の庭先へ行くと,身心~章害者なのに外に出て来てうれしそうに迎えてくれます。この家は
農家なので,いつも1 人で留守をしています。この人は年令は3 0 オに成るのですがお話をしても
子供のような事を言ったり,突然大声を出して笑ったりします。時には気味が悪い事もありますが
何事も相談してくれます。年令的には遅いが思青期の女の子のような質問に,答えるにも,理解し
てもらうのに困る事もあります。
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1 0 月8 日雨
稲穂もすっかり色づき頭をたれて後は稲刈りを待っているように見えます。
雨合羽を落て雨の中を走る。親子が身障者の家庭の玄関をはいると,痛い痛いと大声や母親の叱
る声で思わず足がすくんでしまいます。母親も白内症で病院へ通っています。病院の薬取りから洗
濯,次は買物とできるだけの事を手伝ってあげる。
先日も身障者親子の自殺ニュースを見て気になり,まだ訪問日ではないがちょっとのぞいてみま
した。私の受け持ちの中からは,こんな事のたいようにできるだけのことはしてあげたい。受け持
ちの家をできれば毎日訪問してあげたいのだが, 1 0 軒を廻っている為にそれはとてもできない事
です。どうしてもうすく広くなりがちだが自分の身体に気をつけて少しでも皆に喜んでもらえたら
と毎日頑張っていきたいと思います。
作者紹介
•住所徳島県名西君既辺井町藍畑西覚円7 5 4 の1 番地
•氏名谷
•担当地区・職務別
•原稿の表題"
房子
(大正1 0 年3 月2 0 日生)
石井町全城
身障家庭奉仕員
奉仕日記”
家庭奉仕員体験記録
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0~0~•~0~0~• {佳作{•~•~•~•~•ー、,.
奉仕員雑記
一宇村奥森エミ子
奉仕員として5 年,仕事もヤッと落着きを見て多少の無理難題も老人に心のやわら宮を与えられ
るかとよろこんで張切っている今日ですが,余りにも一宇村は地形上かけ離れた村内一円の山の中
に住む老人達,過疎のため若い人は都会へ老人は故郷をはなれまいとするために老人の独居は年々
ふえるばかり, A 家庭を訪問しようと出かけても途中B 独居者の家にて子供や孫への手紙書きや小
包作り,又作った小包は持ちかえって送付など全く仕事は多種多様毎日どこ妃いても老人の健康状
態の安否が胸妃しみついている。何か前進し向上させて老人の淋しさをなくしたいと考えながらも
5 年1 日としての主婦業,その生活があまりにもわびしく笑いのない人生である。訪問の日は炊事
をして共に食事をしてヤッパリ,プロの味はとてもおいしいと目を細めてよろこんでくれる。土噌湯
を沸かし黒光りする手や,しわだらけの顔をふいてやる時,行く先みじかいこの老人がたよ.りにも
ならないこの私だけを老いの友としてすがっていると思うと,ふと胸がいっばいにつまされ,あふ
れ出そうな涙をこらえて外へとび出す自分,これではいけないと自分をはげまし又わい談に話しを
そえて笑いにまぎらわす,ど勾訪問家庭も足の踏み場もない取りちらかした,みすiをらしい家,家
財道具といえばポール箱が衣類入れや食糧入れ,情報を知るラジオもテレビもなく字を書く事も読
む事も出来ない何の楽しみもない実にわびしい人生を送っている人ばかり,私が訪問して村内や新
聞のニュースなどに耳をかたむけて泣き笑いの一日をすごすのが何よりの楽しみという。仕事に追
っかけられて訪問が長びくと,話しに来てほしいとだれかにことづけられて待たれる。むづかしい
問題がとても多く自分の力の弱さをひしひしと考える。老人福祉が向上しても,やっば.り心の淋し
い老人のなげきを知るのは目のあたりに見たり閣いたりしている者のみではないかと私の胸は強く
打つ,老人という言葉とても淋みしい言葉である。「老い」まだ若いなど思う自分も「老い」のか
げは不気味に忍びよって来ていると思うと何となく自分も淋みしい。一度はどうしても経験しなけ
ればならない「老い」実感として受けとりにくいであろう若い人,雨の日も雪の日も5 年1 日ズッ
ク靴と長靴のはなれない急な坂道を1 時間も2 時間も上り下りしなければならない所ばかりの独居
者の老人。人それぞれ道によって賢しとか私達の仕事をまだまだ誰も分ってくれないのが,とても
残念で泣き出しそうだが,いつの訪問もたのまれた買物を背負い袋につめ込み老人の安否を胸ーば
いにヨイシ•,ョイショと上って行く自分のこの姿も何とあわれな事か,机上論ではとても分って
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もらえない。でも待ってくれる人がいると思えば暑さにも寒さにも負けないでがんばらなくては,
この道に。
追記1 0 月5 日(おばあさん7 2 オの1 人者)
いつ訪問しても留守ばかりなので丈夫で遊び廻っているものと思い一寸忘れがちになり他の仕事
に追っかけられていた所,今日は生活保護費支給日なので来られるかと待っていたが午前中に来ら
れないので一寸気がかりでいた折, 2 時頃近所の人から溢死しているという電話を受け課長と2 人
で早速訪問,種々話しを聞けば家に1 人居るのがとても淋みしくアッチコッチと歩き廻って淋みし
さを主ぎらしていたとの事,なぜもう少し早くこの老人の心の中を知らなかったかと,<やまれる。
今後このような事のないよう努力しなければと, 1 人っ子に先だたれ,又孫もたった1 人大阪から
かえり葬俵をすませたが数万円も持っていたとか, 1 ヶ月1 万円にも足らない生活保護費を少し宛
でも残していた,いじらしい老人の気持に頭が下る。今は空家妬なっているが,そこを通る度にセ
ッセと運んだであろう冬じたくの薪がのきーばいにつまれて淋みしそう。庭の大根も青々と茂炉手
入れも行き届いて手及1されているのも何とあわれた事かと胸がいたむ。村内に老人ホームを設置す
ればこの様な心の淋みしい老人も話し相手も出来てすくわれるのではないかという感がする。
老人笑話(一宇村方言)
A さん
B ばあさん
A さん
B ばあさん
A さん
B ばあさん
A さん
B ばあさん
ばあさどこいっきょるぞえ(ばあさんどこえおいでよりますか)
年しゃ8 1 でわ(年令は8 1 オですわ)
年が8 1 かえ(年令が8 1 オですか)
孫3 人あるでわ(孫が3 人おりさす)
孫3 人あるかえ(孫3 人ありますか)
なんの孫が銭(ぜに)くりょに(どうして採がお金をくれようか)
ばあさんつんぼじゃのう
ありがとう存じます。まあいてさんじます。
(ありがとうございます。まあいてきます。)
どの老人も耳の遠い人ばかりで自分も自然自然に大きな声になってしまう。
A ばあさん眼(がん)が悪四恨が悪いということを聞いていたが合うて見りゃ目も悪げな
じゃないかえo
B ばあさんえヽ眼(がん)も悪かったり目も悪かったりして全快しちゃ,なおり全快しち
ャなおりしてやっばりプラプラしとるんぞよ。
作者紹介
•住所徳島県美馬郡一宇村2 8 8 番地
•氏名奥森エミ子
(大正9 年1 2 月3 日生)
•担当地区・職務別一令2村老人家庭奉仕員
•原稿の表題奉仕員雑記笑話
家庭奉仕員体験記録
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0~•~•~•~•~• f佳作{ • ~•~•~•~ •~•
老人家庭奉仕員として想う
三野町藤川トヨ子
昭和4 6 年4 月より老人家庭奉仕員として活動する事になった。最初は民生委員さんに担当地区
内で奉仕員の必要と思われる者の名簿を提出してもらった。提出された5 0 名の家庭を一応全戸訪
問し,その中より特に必要と思われる者1 5 名を選び,その必要度に応じ1 週間か2 週間の割合で
訪問している。老夫婦や独り暮しの老人が多く,ほとんどの人が病気がちで生活も苦しく,食事も
つくだ煮とお茶漬といったもの,独り暮しの老人は食事をするにしても独りでは何を食べてもおい
しくないという。そこで私は昼食を老人と一緒にとるようにした。心と心のふれあいで孤独な老人
がひとときでも楽しかったと思って下さればと思う。老夫婦の世帯,夫7 1 才,妻6 1 才,夫は視
力障害でほとんど見えない状態,妻は神経痛,リュウマチで手足が立たず,ねたきりの状態である。
食事をとるのも不自由で家の中は荒むしろでノミが一杯湧いていた。玄関に入ればすぐ飛びついて
くる具合で老夫婦は身体全体変まれ夜も寝られない毎日が続いていた。そこで役場より薬剤を持っ
て行き大掃除をした。道具を外に出しム、ンロを上げ薬を主いて取り片づけをした。その後一週間位
でノミがいなくなった。この喜こびは言葉でいいあらわせない程うれしかったと感謝された。蒲団
も何年来洗濯していない,汚れたり破けたり不潔であったので綿を取り出して洗濯し補修をしてあ
げた。又篭球が切れていても誰も買ってあげる人もなく私の訪問さで暗やみの生活をしていた。こ
のケースの家は役場より1 OKm余り離れた山間部にあり最初の訪問以来1 週間に1 度は必らず訪問
している。また8 7 オで1 人暮しの老女は神経痛,視力障害でほとんど動けぬ状態である。冬の間
は手足が氷のように冷えきっている。寒くなるとひばちで木炭をおこすのだがマッチをすることも
アンカの蓋を締める事も出来ないでふるえている時が多い。食事も1 日1 回ないし2 回,お風呂は
夏は,たらい風呂,寒くなると清拭のみ,掃除,洗濯,買物,身の廻りの世話,ごみ処理,水くみ
薬を病院へ取りに行くことを奉仕すれば忙がしくて十分な事も出来ないで時間が過ぎてしまう。あ
る日訪問すると何度声をかけても返事がなく,玄関も健がかかっていた。不断よりあまり元気な老
人でないので1泣記になり,もしやと思って破けたガラス窓から家の中を見ると老女が蒲団の上で倒
れていた。私はもうただ胸がドキドキして,とっさにどこかに連絡しなければと考えながら何度も
何度も声をかけている内,やっと小さな声がかえってきた。私にとって初めての経験であったので
やつれた老女をみつめながらほっと胸をなでおろした。この老女も老人ホームの生活状態を説明し
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入所を進め説得したが自分が建てた家だからこの家から外に出たくない。どんなに苦しくても我慢
するといって承知しない。またねたきり老人は家族が看護に当っているが,何年も床についている
ので十分な看護も出来ず医者妃治療を受けている人も少ない。食事面妃しても最を制限され,十分
に食事をとることすら出来ない。身体は汚れ浩物もいつ洗ったかわからない物を着ている。だが奉
仕員が訪問する事も家族の方がきらう。でもねたきり老人紀は訪問する日を待たれる。奉仕員に世
話になりたくとも毎日きてもらうわけにもいかないし,奉仕員が帰った後の事を色々と考えればど
んなにみじめにされてもやはり家族妃世話になるより以外にないと話す。こうして老人家庭奉仕員
として就職して以来現在まで様々のケースを経験しながら奉仕の手をどこ主で拡げて良いのかわか
らぬまさ,毎日の業務の中で体当りしてきたつもりであるが,今この様な体験記録を書きながら静
かにふり返ってみると,あのケース花はもっとこの様な援助をして上げたらよかった。またあのケ
ースにはこの様な方法でしてあげたらよかったと反省している点が多い。しかし私自身老人家庭奉
仕員として就職する前までは家庭の一主婦であったため,この仕事妬対して,いささかの理解はも
ちその上に実母が長年ねたぎりの状態で苦しい毎日を送っているのを現実に見,又看護していた為
老人妬対する理解と愛清は誰陀も負けないつもりです。奉仕を終えて帰る時涙ぐみながら見送る老
人「又今度いつ来てくれるんで」「待っちょるけんな」といわれると1 日の苦労も一片に吹き飛ん
でしまうような気持ちになり今日は少し苦しいので休もうかと思っても「待っちょるけんな」の声
に励まされ出勤している。この老人達をより幸福に出来る道は只奉仕員の活躍のみでは解決し得な
いあらゆる組織の人達の援助指導と連絡を密妃することが最大の近道であろうと思う。幸い当町は
ホームヘルベーの活動に対して上司の深いご理解を得又他機関の援助を指導を仰ぎながら毎日の業
務陀自信と誇りを持って精進しています。
ロー作者紹介
。住所
•氏名
徳島県三好郡三野町
藤JI I トヨ子
•担当地区・職務別
。原稿の表題
老人家庭奉仕員
老人家庭奉仕員として想う
家庭奉仕員体験記録
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•~•~•~•~ •~• {佳作{ • ~•~•~•~•~0
私が歩んだ道
上那賀町加茂美佐栄
この仕事を町長さんより初めて云われた時,いったいどんな仕事をするのであろうか,私のよう
な者が出来るであろうかと随分迷い主したn 老人福祉問題,ねたきり老人等の事はマスコミでよく
知らされ色々と善処されている事を心強くは思っていましたが私がこんな仕事にたずさわろうとは
夢にも考えておりませんでした。突然の土噂舌しに随分思案したあげく,私のような者でも不幸な方
たちの少しでも必役妃立つならと決心しお受けして早や2 年がたち主した。不安な気持一杯で初め
て知らぬ土地を目的地に急いでいる途中,ふと知人に逢いました。思いがけない所を歩いている私
を不審に思い聞かれるまヽに自分の仕事を打明けた所,それは「人の為になるよい仕事だ,しっか
り頑張って」と励まされました。でも私のようた者がと不安を訴える私の言葉に「それは真心よ」
と云われ,ほんとうにそうだとうなづいた事でした。それからは真心の2 字をモットー陀私なりに
努力して来たつもりです。仕事そのものは一般誰でも出来る事ではあったけれど老人と家族の場合
両者の間に立って複雑な気持尻なり頭の痛い事もあるけれどそれを解決して行く事が私達の仕事で
あると自覚して頑張っておりさす。若い者なら再起する希望も楽しみもありさすが老人にはそんな
望みもなく余生を唯安楽にと希う事だけなのです。次から次へ他界されて行く度に云い知れぬ淋し
さはある,けれどその最後に私達の仕事を喜んで貰える事はこの仕事を持つ者のみが味わえる幸せ
ではないかと思うのですn 2 年間の数々の思出の中で一つあげると, 1 D 年近く目と足の不自由の
為,寝たきりの方でした幸い忙も家族には恵まれ充分の看護はされており主したが,長い病床生活
は立変る人の訪れを待っだけであったのです。それだけに私の訪問を大変喜んでくれました。そう
したある日,手さぐりで取出した硬貨を私の手にその上より自分の手をしっかりにぎりしめて「こ
れは私のお礼の気持だ。僅かだけれどどうぞ収めてくれ」と云われた時,こみあげる涙に鼻をつま
らせながらこれは当然私の仕事であるといくら説明しても「私の気持だから」と無理に押しつけた
硬貨を仕方なく心より礼をのべて一応は受取り,そっと気付かれないよう家族の方にお返しして帰
ったものでした。それが最後で遂に亡くなられたけれど長い病床生活の最後にあんなに喜んで貰え
た事がこの仕事の趣旨妃そえたものと大変嬉しく思っていさ十。老人には過去はあっても未来はな
いもの昔の思い出話しを夢中でする時その楽しさをこわすまいと閣いてあげることも,この私の仕事の一つです。
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今一つ私が思う事は寝たきり老人ホームが同じ町内にあってほしいと思うのです。人の愛情のみ
を求めたい老人を見知らぬ遠い土地へ離す事はその淋しさを増すばかりで…••…•そんな気もします。
交通事情が良くなったとは云ぇ,まだまだ山村では徒歩で遠い道のりを行かねばならない所がある
のです。自分の体力にも限界があります。いつ迄続けて行かれるであろうか,私は若い方がこの仕
事を理解されてどしどし後継者として活躍して下さる事を望んで土ヽります。
□ |
作者紹介
・住所
•氏名
徳島県那賀郡上那賀町海川
加茂美佐栄
(大正1 0 年6 月2 2 日生)
•担当地区・戦務別
•原稿の表題
老人家庭奉仕員
私が歩んだ道
---__----―-―一家庭奉仕員体験記録
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