見出し画像

人生の振り返り(幼少期中心)

お世話になっている皆様、初めましての皆様、こんにちは。
トクナガ ダイスケと申します。
※画像のテンション高い子は私です。

実は2024年4月から2つのチャレンジが始まります。
1つ目は転職で新たな職場に部門責任者としてJoinする事と、2つ目はMindsetCoachingSchoolという認知科学コーチングのスクールで約8ヶ月間ゴリゴリに学ぶというチャレンジです。

MindsetCoachingSchoolでは早期申込者限定で開校前に先行授業を受けられまして、ざっくり内容は本気で学ぶ覚悟の醸成とコーチとは自身が在りたい姿に向けて真っすぐに挑戦的であるべきという土台にあたる心構えをお聞かせ頂く内容でした。

その授業のコンテンツの中で早速自分に欠けている伸びシロに気づかせて頂きました。

私を含む大半の人は「自分の心の底からの欲求とその欲求を自分の人生にどう適用し社会にどう活かすか」の整理が甘く、この問いに真っ直ぐ明快に答える事が出来なかったのです。

一応それっぽく言葉を紡ぐチャレンジはしましたが自分自身を腹落ちさせられる内容にはならず、つまり今までは自己理解が曖昧な中で「それっぽい自分の強みや特徴」的なものを頼りに生き方を選択してきたことになります。

この問題を速やかに解消しようということで、先ず1stStepとして素の自分を思い出す課題に取り組むことなりました。

内容は自分の人生を幼少期を中心に振り返る文章をアウトプットすること(最低1万文字以上)になり、本記事ではそれを表現したいと思います。

振り返りによって自分の心の底からの欲求の把握とその欲求を人生に最大出力で適用するためのリソースを手にしたいと思います。

結果2万7千文字ほどになってしまい全部キッチリ読むのはしんどいと思いますので、ザザザーっと斜め読みして頂けたらと思います。

※なお、本記事はCoachingSchool同期のナカザワナオコさんに1on1で記憶の掘り起こしのご協力頂いた事と幼少期を一番間近で見てくれていた母親の協力を得て当時の写真や記憶を表現しました。

長時間お付き合い頂いたナカザワさんと母に感謝です🙇



生まれながらにして生命の危機

※保育器のイメージ図※
未熟児や酸素管理が適切に出来ない赤ちゃんを一時的に保護する医療機器

1980年8月10日に東京都武蔵野市にある日本赤十字病院にて35歳の父と20歳の母の間に誕生しました。

いきなり重たい話になりますが生まれながらにしてガチの仮死状態でして、人生の幕開けなのか幕引きなのかよくわからない波乱のスタートでした。

背景として出産予定日が2週間ほど遅れている状況で母が定期検診を受診した際に、胎内にいる私の心拍数が死ぬ寸前の老人のような微弱な反応だと判明し緊急で帝王切開(お腹切って出す出産方法)での出産に踏み切ることになったそうです。

母の思い出によると、定期検診中に心拍数の反応を見た看護師さんから「あらあらあらあら♫ 赤ちゃんちょっと苦しいって言ってるから今日お腹を切って緊急出産するように医師に伝えますね★」とNHKの歌のお姉さんみたいなテンションで言われたそうです。

母を不安にさせないように敢えて明るく伝えてくれたのだと思いますが、それにしても今日腹を切るというエグすぎる宣告をサクッと受け入れてくれた侍並みの覚悟を見せた母(当時20歳)には感謝しかありません。

健康な赤ちゃんは母の胎内から出た直後に大泣きする事で正常に肺呼吸を開始しますが、私は母の胎内にいる時から酸欠状態にあったようで胎内から出ても全く泣かずにだんまりでした。

呼吸は浅く不規則、手足がだらんとしてる、顔が青白いというドラクエで言う残りHP1みたいな状態だったそうです。

無理にでも泣かせて呼吸を安定させるべく助産師さんがお尻を叩いてくれたようですがそれでも泣かずに「うすーーい不規則な呼吸」のままで、いよいよこれは危険だということで保育器という母体の環境に近い温度や湿度を保てる要は生命維持装置みたいな機器の中に収容されました。
容態が安定するまでの数日間はほぼその中で過ごしたそうです。

母は全身麻酔が解けてからも中々私を抱っこ出来ず、更には命が危険だという情報まで耳に入り出産当日は相当に不安な思いをしたそうです。

そして翌日に医者から「予断は許さないものの亡くなる事はなさそう。但し脳障害や何かしらの後遺症を持つ可能性が高い」という説明を受けたようで、手渡された診断書には「第1度新生児仮死」と記載があったようです。

※新生児仮死とは、出生時の呼吸循環不全を主な症状とする症候群の事であり、この状態を新生児仮死(仮死状態)と呼びます※

何とか生き延びた生後10日弱の私。
保育器で長期間過ごし症状は安定したが、あまり元気はなかったようです。


仮死状態の出生から嘘のように元気な幼少期

生後1ヶ月は体調がやや不安定だったようですが、その後の経過は極めて良好で障害や後遺症らしさも見当らず、何事もなく発育していく過程を見たお医者さんからは「奇跡に近い」言われたそうです。

生後8ヶ月くらいで順調にハイハイを習得する様子に一安心。

保育園に入る前の1〜3歳頃の私は母から言わせると元気でとにかく手がかからない子だったという事でした。

家族構成は父、母、姉、私、弟の5人ですが父は私の母とは再婚であり、父は最初の奥さんをガンで亡くしたそうです。
その最初の奥さんの娘が姉であり再婚相手の母の息子が私(後に弟追加)という家庭環境でした。

つまり姉(当時7歳)と私の母は継母関係にあたる事から実の息子の私にかかりっきりになると「本当の自分の子の方が可愛いんだ」という疎外感を与えると考えたようで、私が安定的に歩ける1歳ちょいくらいまでは最低限の応対は仕方がないとして、それ以降は表立って私を可愛がるなと父から命令されたようです。

父は熊本出身の長男であり、その跡継ぎの長男として生まれた私に対しては1〜3歳であっても「長男は強くあらねばならず我慢して当然」という考え方だったようです。

例えばお腹が空いたり、トイレでグズったり、転んだりで泣いたりすると「男が泣くんじゃねぇ!」と結構な圧力で怒鳴られ、頭を小突かれ、一層激しく泣くと更に大声で怒鳴り散らし、酷い時は真冬に外に放り出されバケツの水を頭からかけられたり、泣き止むまで押入れの中に閉じ込め続けられたり、この時点ではまだ命に関わるレベルではないにしても1〜3歳の子に対する接し方としてはやや虐待気味だったと思います。

1〜3歳の話ではありますが断片的な記憶はあり、確かに泣いたり騒いだりすると危険な目に遭う感覚があったので幼少ながらも父が家にいる時は泣いたり騒いだりを意図的に控えるよう我慢し、幼少ながらに父の表情や仕草を観察して機嫌を読み取ろうと心がけていたように思います。

そんな状況なので親から構われない程度でツライという感覚にはなるはずもなく意図的にディフェンシブに空気を読んで静かにしているので、つまりは「手がかからない子だった」という印象に繋がったのだと思います。

未だに母からはその頃の事を申し訳なかったと言われますが私からすると母には感謝の気持しか無く、炊事や洗濯や日用品の手配を含めて最低限の事は丁寧にしてくれましたし姉がいない時間帯に紙芝居を読み聞かせてくれた記憶もあります。

確かに年齢の割に1人の時間が長かったかも知れませんがTVが大好きだったのでそんなにQOLが低くい感覚は無かったです。

いい意味で1人で過ごせる耐性が早期に出来たと思いますし小さい事に動じない逞しさも育まれたように思います。父がいない時間帯をボーナスタイムとしていかに楽しむかという制約条件の中で工夫する感性も育まれたかもしれません。

という感じで3歳半から保育園に入園します。
保育園時代の私は↓↓こんな感じでした。

4歳。家の庭でふざけている様子
保育園の課外学習。グレーのスエット姿でピースして先生に注意されてる子。
5歳。保育園のひな祭り行事で撮影。
一番右。何かにつけてふざけて目立とうとする。
保育園の運動会。大好きな先生を独り占めしている子が私です。
言う事を聞かないめんどくさい子だったと思いますが、その割に可愛がられていたと思います。

ご覧の通り「ふざけてばかり、目立ちたがり、わがまま」でルールや先生の言う事を平気で破る子なのでよく叱られましたが、一方で愛嬌があったのか先生達からは可愛がられていたと思いますし、わがままな割に友達も多い方だったと思います。

当時母が保育園の先生から私の様子について報告を受けたというエピソードを3つ記載すると、

①給食の時間に突然失踪し小さい子のお世話をしていた
給食の時間に私が突然いなくなり先生達が校庭を中心に園内を探し回ってくれたようですが、結果1つ年下の子達のクラスで何事もなくランチを食べている姿が見つかり「何でここにいるの?」と先生に聞かれ「この子達にご飯の食べ方を教えてあげた」と返事したようです。
下の子達から慕われている様子だったようでそのまま引き離さずに食べさせてくれたようです。
以降も1つ下のクラスへの出張は定期的に継続していたそうです。

②保育園の門をよじ登り園外に抜け出す
校庭で自由に遊べる自由時間中に保育園の門をよじ登り外に出てしまい、しかも最終的に「車に轢かれる」という最悪の事件を起こました。
園内で私の姿が見当たらないと大騒ぎになり30分ほど探しても見つからないため私の母にも連絡がいったそうです。
ほぼ間違いなく交通ルールを完全無視で予測不可能な動きをしていたであろう私のせいで車に轢かれたと思いますが(幸い怪我は擦り傷程度)私を轢かされてしまった運の悪いおじさんが私の胸に付いていた名札をヒントに保育園へ連絡してくれたようです。

結果無事に病院で先生と母親に保護されまして大好きな先生達が大声で泣いて抱っこしてくれた事を覚えていますし、この時はいつも仏のように優しい母に始めて顔をぶたれて驚いたのを覚えています。

ただ本当に恐ろしい事にその翌週も再度保育園を抜け出してしまい、その時は大好きな先生にも顔をぶたれました(当然です)。
※以降、私が飛び越えていたやや背の低い門に追加の障害物が設置され、抜け出しは不可能になりました。

③保育園のお泊り会で1人だけお祭りテンション
4歳の時に保育園でのお泊り会が実施され多くの子にとっては始めて両親がいない環境での夜を過ごす事になるのでほぼ全員が泣いたり最低でもグズるのがデフォルトだそうですが、私だけ唯一全く不安な顔すら見せずに非日常感を元気いっぱいに楽しみ、みんなで遊ぼうと声をかけて周り、はしゃぎすぎて疲れたのか就寝時間には早々に寝落ちしたそうです。

保育園の先生から「全員が不安そうにする中、息子さんは逞しかったです!」と褒められたようですが普段から家で放っとき過ぎている事で家族との絆が薄いだけではないかと不安になったとの事でした。
私自身この日の事は何となく覚えていて「おっかない父親がいない開放感があった」事と「非日常間が楽しかった」という2つが合わさった感覚だったように思います。
なんでみんな元気無いんだよ!もっと遊ぼうぜ!みたいな気持ちだった事を覚えています。

保育園の運動会のかけっこ。写真右から2番目の子でいつも一等賞でした。

続いて自分自身の記憶を辿った話ですが、運動神経が良く元気がいいリーダー気質な感じで毎日一緒に遊ぶ6人の仲間が大好きでした
剛君、たかちゃん、げんちゃん、ひろちゃん、他2名(名前忘れた)と自分を含めた7人がレギュラーメンバーで、他にも都度何人かそこに加わる感じでほぼ毎日10人ちょいのやや大所帯で遊んでいたと思います。

かと思えば突然1人で積み木や粘土やパズルに全集中する日もあったり、1人遊びをするか大勢で遊ぶかの0か100かみたいな感じもあり、グラデーションがなくやや極端な子だった様に思います。

大勢で遊ぶ時は遊び方を仕切ったり、何かしらに困っている子がいるとやや押し付けがましいレベルでお節介焼きをしていたように思います。
遊びの内容を決める役割は概ね私で、鬼ごっこ、ドッジボール、花いちもんめ、砂場で泥投げ合戦、縄跳び、ジャングルジム内での鬼ごっこ、ヒーロー戦隊ごっこ、先生へのイタズラ(お尻触るとか)みたいな事をよくしていたと思いますが、私の思いつきで勝手にルールをアレンジして全体が楽しめているかを何となく観察し順調だと悦に浸るような感覚を持つお山の大将タイプでした。

仲が良かった6人は比較的普通〜大人しいタイプであり、我が強い自分との組み合わせが良かったと思います。

というのも自己主張の強さから誰とでも仲良く出来るという感じではなく、同じく自己主張の強い子とはよくケンカしてた記憶があって、こっちが泣かしたり泣かされたりと頻繁に先生の手を煩わせていました。

あと他の子が率いるグループと遊び場の取り合いでよく争っていた記憶もあり、例えばジャングルジムを占拠して貸し切り状態にしたり鬼ごっこの場所の取り合い的な子供なりの縄張り争いのような事をよくしていました。
そういった時も私が6人の仲間に縄張りを抑えるポジション取りみたいな事を指示してたり、仲間が泣かされると自分が仇打ちにいくような感じだったと記憶しています。

性質のところで言うと、先生から叱られても意図&理由が不明なルールは守れないという性質は強かったように思います。
父からの命令は激しめの暴力が伴うので聞かざるを得ませんでしたが、保育園の先生や母が相手だとややキツめに注意されても「叱られたから言う通りにしよう」とはなりませんでした。

他の子達は理由がわからずともダメと言われたら徐々に端正されていく感じがあったと思いますが、私は基本的に自分が怪我をしたりダメな理由を理解するまでは悪気なく自分の意志を貫くタイプだったと思います。

つまり中々に自己中な性質ですが、一方で人の顔色をよく観察し感情の動きに敏感な面があったり面倒見がいい側面は特徴的だったかなと思います。
大勢で遊んでいても流れに乗れていない子がいると敏感に感知し、その子に声をかけてどうにかならないか改善を試みるようとする感じです。

他にも自分が遊んでいるおもちゃを欲しそうにしている子がいると(自分の仲間内だと判断している子限定で)すんなり譲ったり、ニュアンスで言うと「身内(子分)には良い思いをさせてやる」的なやや上から目線の親分肌的な心遣いに近かったように思いますし、観察力と勘所の良さ(非言語からの特徴量の抽出力)は幼少の割に得意な方だったかも知れません。

纏めると幼少期の自分の特徴は下記5つだと思います。
・新鮮な環境を求める
・誰かが作ったルールよりもマイルール優先
・仕切りたがりの親分肌で責任感が強い
・目立ちたがりで人を楽しませるのが好き
・人の顔色をよく観察し面倒見がいい

3〜4歳から本格化した父の強烈な虐待。外弁慶で家では息を潜めて暮らす生活。

※イメージ図※
一歩間違えれば死んでもおかしくないようなことが何度もありました。

簡単に父の説明をすると熊本生まれの7人兄弟の長男で、地方特有の長男は無条件に偉く家庭内で優遇される&長男は当たり前に優秀で何事も人より秀でて強くあらねばならぬの環境で育った人です。

父方の爺さんは戦争でそこそこの成果を挙げ地元では尊敬を集める人だったようで、役所務めで何らかの責任者の地位を与えられていたそうです。
性格は旧日本軍の軍人気質そのままという堅物で極めて気性もプライドも高く父も相当に激しく育てられたとお婆ちゃんから聞きました。

その系譜があっての事だと思いますが前述の通り次世代の跡継ぎにあたる私に対して父は相当に厳しく、1〜2歳の頃でも泣いたり騒いだりするとややキツめの暴力を受ける事が多々ありましたが保育園に入った頃からそれが一気に過激化しました。

小学校低学年くらいまでは厳しいながらも機嫌がいい週末はどこかしらに唐突に連れ出してくれることもありましたし、例えば徒競走で1位になったり父の命令をスムーズにこなせた際にはご褒美を貰えるような事も多々あったのでケチくさいタイプでは決してなく、流行の新しいおもちゃ等は早々に買って貰えるような点に感しては大変に感謝すべき人でした。

つまり父も悪いところばかりではなかったですが、それにしても非人道的な面が際立つ人間であり幼少期の家庭内の記憶を思い起こすと怒りや怨念に近い感情が思い起こしてしまうというのが本音です。


※注意※
ここから先はあまり良い気分では読めない文章をお見せすることになりますので、今日1日を明るく清々しい気持ちで過ごしたい方はそっとこのページを離れて下さい😂


会社経営者だった父からはずっと「お前に会社を継がせて、その後俺は熊本の家を継ぐ」と呪文のように言われ続けていました。
その期待が相まってある種の帝王学的な厳しさのつもりだったのだろうと思いますが、本当に命に関わるレベルの暴力行為が年に数回くらいの頻度で起き、軽く出血する程度の暴力は日常茶飯事でした。

いくつか例を紹介すると、先ず4歳の時にその日は父がやや深酒気味で機嫌も悪かったのですが私の夕飯の食べ方が汚いみたいな事から怒りを買い、頭や顔を唐突に何度も殴られ鼻血で赤く染まったで上着とズボンを脱がされ、間もなく12月に入ろうという11月下旬の雨の日の夜19時にTシャツ&パンイチ&鼻血ダラダラの状態で外に放り出され、恐らく気温は10度を切っていたと思いますがその環境の中約3時間ほど外に締め出されました。

母と姉が何度も私を家に入れようとしてくれましたが、その都度父は母と姉を怒鳴って殴って阻止するため母も姉も大泣きしながらずっと家の中から私を心配そうに見守っており、そんな地獄絵図みたいな2人の姿を外から体育座りで震えながら見ていて自分のことよりも2人が怪我しないか心配していた事を覚えています。

酔った父が居眠りをした隙を見て家に入れてもらえたのですが、その時の時計が22時30分を少し回っていました。

運悪く私が家に入ってすぐに父が目を覚ましてしまい、母が私を勝手に家に入れたことに気付くと今度は母を床に正座させ「あいつ(私)が長男に相応しくない乞食の様な所作をするのはお前のせいだ」と母を怒鳴りつけ、殴り、お湯割りの焼酎を顔にぶっかけ、母は何をされてもじっと下を向き微動だにせず泣くこともせず耐えていました。

そんな説教が夜の23時過ぎから夜中の2時頃まで続きます。

自分のせいで怒鳴られ暴力を振るわれている母を放って寝ることが出来ず、恐らく私は熱が出てたと思いますしかなり酷い頭痛もあったのですが、柱の陰に隠れながら父の説教が終わるまでずっと様子を見続けていました。

極めて体調は悪く隠れながら2回ほど床に嘔吐してしまいました。

自分のせいで酷い目にあっている母を助ける勇気が持てずに、ただ隠れて眺めているだけの自分が情け無くて仕方なかったことを覚えています。

恐らく母は私がずっと見ていることに気づいていたと思います。
長い説教が終わった直後に私のところに来てくれて泣きながら「ごめんね」と何度も何度も言い、床の嘔吐物に気付くとそれを早々に片付け、その後にベッドに連れて行き寝かしつけてくれました。

因みにこういった私の出来の悪さを母のせいだと押し付ける深夜までの説教は不定期ですが頻繁に起きており、多い時期は週の半分とか少ない時期でも月に1〜2回は発生する定期イベントでした。

その都度私は物陰に隠れて母が開放されるまで寝ずに見届け、終わった頃に母に謝られ寝かしつけてもらうを本当に何度も何度も何度も繰り返したことを覚えています。

私の年齢が上がるにつれて頻度は減っていきましたが、中高時代になっても父の機嫌の良し悪し次第で月に1回程度は発生していたと思います。

他に命に関わるレベルの暴力ですぐに思い出せるもので言うと、5歳の時に家の2階のベランダから1階の庭に落とされました。
幸い庭が比較的柔らかめの土質だったので肩が脱臼気味になるだけで済んだのですが、恐らく父も本気で落とす気はなく、落とす素振りで怖がらせて反省を促そうとしたら誤って本当に落としてしまったのだと思います。

私を落とした直後に下に降りてきて怪我の状態を見るやいなや「お前が勝手に落ちたんだろ!どうしても我慢できないなら病院に連れてってやるけど、俺にやられたって病院で言うなよ」と言われたことはすごく嫌な記憶として残っています。

似たケースでもう1つ、父と風呂に入り体の洗い方を体得出来ているかのテストのようなことをさせられた際に、体を洗い終わったと父に伝え全身を見てもらった際に恐らく洗い方が甘い部分があったのだと思いますが、それがカチンときたのか私の髪を掴んで頭を風呂場の壁(タイル壁)にドカンッ」「ドカンッ」「ドカンッ」と大きな音がする強度で3回ぶつけられ、風呂場だったので頭がのぼせていましたし鼻血が止まらず意識が薄れてその場に倒れ込んでしまいました。

壁にぶつけられた音に驚いた母が様子を見に来て風呂場の扉を開けようとしたのですが「男の風呂を覗くんじゃない!滑っただけだ何でもない」と母に嘘をつき制止し、母がいなくなった後に「男なんだから我慢しろ、もし病院に行くなら俺にやられたって言うなよ」とこの時も言われ意識が朦朧としつつも凄く嫌な気持ちになったのを覚えています。

カッとなって力加減を間違えたのだと思いますが焦った様子で直ぐに自分の身の保身に走る感じがあり、その男らしくなさに幼少ながら父の男らしくあれという言動との矛盾を感じ嫌悪感を抱きました。


父からはあれこれ要求されましたが、ざっくり纏めると下記3つです。
・何事も1位または1番優秀と評価されて普通
・何事も自分で出来るようになれ(出来ないと言わない)
・九州男児らしく、正直に男らしく振る舞うこと

上記に反するような事があると、
お前はゴミみたいなやつだ
お前は本当に駄目なやつだ
お前なんか生まれてこなければ良かった
どうしてこんな駄目やつが生まれたんだ
他の優秀な人間を養子にもらうからどっかいけ
お前は橋の下から拾っただけだから早く出ていけ

色々言われてきた中からの抜粋ですが、人道的に言っちゃいけないやつじゃんって言葉を一切フィルター介さずに言えてしまう感じです。

しかもしつこいんです。
これでもかって位に相手が絶望的な顔をするまで徹底的に叩きのめすように繰り返し言い続けるんです。

最初は毎度嫌な気分になっていましたが人間の慣れとは恐ろしいもので徐々に言われ慣れて気にならなくなってくると、今度は私が気にしていない様子が気に入らないらしく「こんだけ言われても悔しがらないなんて間違いなく俺の子じゃない。おいお前(母)俺と結婚する前に浮気してそいつの子供生んだんだろ(笑)」というウルトラエキセントリックなブラックジョークまで言いだし、本当にこの人みたいになってはいけないとパーフェクト反面教師として心から認識しました。

3歳から1人でお使いに行かされていました。

とは言えそんなパーフェクト反面教師のお陰で身についた事もありまして、それは小さい頃から1人行動できる胆力が付いたことです。
父からの命令で3歳からお使いに行かされていました😂

おつかいデビューは家の前に来た石焼き芋屋さんでその後は家から歩いて数分のカメラ屋さんで写真の現像やお菓子屋さんで自分のお菓子を買いに行くことから初めて、4歳になる頃にはスーパーや酒屋で醤油とかお酒を買う程度までは普通にしていました。

お使い初期の頃に近所の商店街の人達から迷子と間違われて保護され「お使いに来た」と答えるとちょっとした騒ぎになり、商店街の会長のおじさんが代表して私を家まで一緒に連れ帰ってくれて「こんな小さい子を1人でお使いに出すなんてどうかしている」と父と口論していたのを覚えています。

5歳になると電車に乗ってのお使いも普通に1人で行くようになり、6歳か7歳か忘れましたがその頃には1人で母の実家の静岡まで在来線と新幹線を乗り継いで行きました。

これすごくないですか?
親戚が駅まで迎えに来てくれたのですが「本当に1人で来た!この子天才じゃない?」と凄い褒められたのを覚えています。

ただお使いにも苦い思い出があり、多分4〜5歳の頃ですがお釣りを失くしてしまったことがあったんですね。

お使いから家に帰ってお釣りが足りないと指摘され「自分で探してこい!」と父に怒鳴られ探しに行きました。

探しに行ったものの見つけることが出来ずに家に帰った所「見つかるまで返ってくるな!」と追い返されまして最初昼過ぎに行ったお使いでしたが18時過ぎくらいまで何度も何度も同じ道程を探しました。

それでもどうしても見つからず、外も真っ暗で疲れ果てていたので再度家に帰ったところ「見つけるまで帰ってくるなって言ったろ」と頭をガッツリ殴られるというパーフェクト反面教師力をフルに発揮されたので致し方なく「貰ったお釣りでお菓子を買いました」と敢えて嘘をつきました。

ネコババをしたという怒りの燃料を追加されたのでめちゃくちゃに殴られましたし、数日間に渡って「こいつは将来強盗になる人間だ」とかゴミだのカスだのと呼ばれましたが、あのまま嘘をつかずにいたらどうなっていたんだろうと思います。

保育園時代の思い出は他にも
・東京駅でドラマ撮影中の国生さゆりと京本政樹がいて、国生さゆりに可愛いーって抱っこされて頭ナデナデしてもらった
・親戚の女の子に観覧車の中でプロポーズしてOKしてもらい(口に)チューした。

などかわいい思い出もあるにはあるのですが、その場の勢いとか突発的な出来事で自分の内面には関わらないと思うので次に行きます。


小学校低学年期(7〜10歳)

競馬場と競艇場とパチンコ店が乱立する賭け事の街で育ちました。

出生は東京都武蔵野市の病院でしたが、隣接する府中市で育ちました。
家から10〜15分圏内に競馬場と競艇場と多数のパチンコ屋が並ぶような環境で治安が良いとは決して言えない所でした。

賭け事を目的に多くの人が各地から集まる性質上、府中駅近辺の繁華街は比較的栄えており遊びや買い物には困らない感じでしたが中心地から数キロも離れると途端に田んぼや畑や多摩川等の自然に溢れるコントラストの激しさが特徴の街だったように思います。

多摩川で泳いだりザリガニ取りをしたり、少し開けた場所でサッカーやドッジボールやドロケイ等をしてよく遊びましたが、そのすぐ横には賭けに負けて一文無しの歯がないおじさん達が安い焼酎を片手に寝っ転がってるようなスラム街っぽい世界観をイメージしてもらえればと思います。

小学校2年生の時の思い出として、私と友人は賭けでスッカラカンになったであろう危ないおじさんAから小銭をカツアゲされ、その様子を見ていた危ないおじさんBがおじさんAに襲いかかり、私達から奪った小銭を再カツアゲするというガチの食物連鎖を直接目にするような環境でした。

小学生になりましたが私のキャラクターは保育園の頃と大きくは変わらず、学校の先生の発言の意図や意味が腹落ちしないと基本無視でよく先生からも怒鳴られたり小突かれましたが、父の暴力による耐性が強すぎて全く気にならず宿題もほぼほぼ全く手を付けませんでした。

因みに父は私に対して勉強する事は全く求めませんでした。
父の経営する会社は薬品を管理する機器メーカーであり、必要な知識は工業高校で学べると考えていたようで事業を私に継がせたい父からすると普通科の勉学の偏差値や内申点なんぞどうでもよく、工業高校には勉強しなくても問題なく入れるからOKという事で宿題やらなくても勝手にしろという感じでした。

話は戻りますが、学校では明るく元気なクラスの人気者という感じで、当時俺達ひょうきん族という明石家さんまさんやビートたけしさんを中心に大勢のお笑い芸人が1時間コントでふざけ散らかすみたいな番組が流行っていたのですが、私は明石家さんまさんが大好きで特に関西に縁があるわけでもないのに関西弁風の話し方を真似てふざけていました。

授業中も積極的にふざけてクラス皆が笑うとそれに対して悦に浸るようなところがあり、休み時間は自分が中心になり遊びの内容を決めて仕切るようなところも大きくは変わりませんでした。

9歳の時、多分ドラゴンボールかなんかの真似をしてると思います。

一転して家では過剰に騒ぐと危険な目に合うので基本静かにTVのお笑い番組を見たり、当時発売されたばかりの初代ファミコンに夢中でした。

父は極めて厳しい人でしたが世間で評判になるようなおもちゃ類は真っ先に買い与えてくれましたし、七五三等のイベント事も比較的キッチリやりたがるタイプだったように思います。

自分も熊本の長男として欲しいものは何でも最優先で与えられていた事から私に対しても同様に欲しがる物は基本買い与えるという感覚があったのだと思います。

7歳の七五三。
普段はじっとしてられない子でしたが、父の前なので大人しく取れた1枚です


小学校高学年期(11〜12歳)

やや色気づいてきて、とにかくテンション高くふざけ倒すというよりは女の子を意識し始めて少しだけテンションは控えめになったと思います。

とはいえニヒルでクールなタイプではなく、ほどほどのテンションでギャグを飛ばすようなキャラクターではあったのでクラスの盛り上げ役っぽい位置付けからは大きく変わりませんでした。

相変わらず先生の指示をすんなり聞くタイプではなく、運動神経は抜群で友だちが多いが宿題や勉強にはほぼ無関心な子という感じです。

家では相変わらずTVやファミコンに夢中でしたが、色気付いてきた影響か少しずつ繁華街に友達と出かけるようになり服装や髪型も意識するようになりました。

またこの頃から音楽に対する関心が急激に高まり、当時流行っていたユニコーン、TMNetwork、BOWWY、Wanzs、B'z、サザンオールスターズあたりに憧れ、当時流行り始めたカラオケBOX(懐かしい!)にも行ってました。

歌は誰に聞かせても褒められましたし自分でも良い感じで歌えている感覚があったので気分良くのめり込んでいき、将来歌手になりたいという夢を持ちました。

当時は自分の部屋で歌の練習を一生懸命していましたし、歌声が大きすぎて母親に聞こえてしまっていたこともあり「上手だけど、もう少し声に緩急つけると良くなるね」と唐突に部屋に来て余計なアドバイスされた時には顔が真っ赤になり「いきなり入ってくんなよ!」と母を部屋から追い出したのを覚えています。

因みに母は中学時代ブラスバンド部に所属し全国大会の金賞2回、銀賞1回を取った人で絶対音感を持っており、歌もメチャクチャ上手かったので音感に関しては母の遺伝子を授かったのかもしれません。


突然文脈変わりますが、小5の時に1つ強烈に苦い思い出があります。

私は学年で1,2を争うレベルで足が早かったので学校行事として催される運動会や陸上競技大会では常にリレーのアンカー(一番早い人が選ばれる役割)でした。

小5の陸上競技大会でも例年通りアンカーに選ばれたのですが、競技会の3日ほど前から突然スランプのように早く走る事が出来なくなりました。

これは今でも原因不明ですが、妙に息切れが早くなり身体に力が入り切らないという症状(日常生活は問題なし)で 当時の私はクラスの人気者でしたし、期待を集めるヒーローのようなつもりでいたので身体の異変を伝えてアンカーの役割を降りることを意地が許さず出来なかったんです。

自分の体に起きた異変を誰にも言わないままクラス対抗リレーの本番を迎えて、私にバトンが周ってきた時点で順位は2位でした。

1位のクラスとは僅差であり、いつもの私なら先を走る子を追い抜いて1位フィニッシュが普通に出来たと思います。

自クラスのメンバーもそれをイメージ出来たのだと思いますが、私がバトンを受ける際に「イケるぞ!」「勝てる!」「おっしゃー!」というような既に勝ちが確定したような言葉と空気が飛び交い大盛り上がりでした。

そして身体がいつも通りに動かせない私は、先を走る子を追い抜くどころかむしろ後ろの1人から追い抜かされ、3位フィニッシュで終わりました。

一体何が起きたの??という周囲の不思議そうな視線や腫れ物に触るような優しい気遣いが凄く心に刺さり、周囲の気遣いを素直に受け取れない自分のプライドの高さも恥ずかしかったですし、結果に対する自分への失望感と周囲へ面目が立たない気持ちも複雑に絡み子供ながらに本当に思い出したくないほどしんどい時間でした。

大勢の目線と期待が集まる環境下で、自信と周囲の評価も併せて高い領域でとんでもない期待外れの結果を引き起こしたトラウマです。

私は1週間くらい先生や友達の目をまともに見れませんでした。

人前で泣くのは意地が許さなかったので、(父に見つからないように)家で自分の部屋を真っ暗にして布団に顔を埋めて大泣きしました。

心の中は屈辱と恥ずかしさと突然変化がおきた身体に対する怒りというか憎しみに近い感情がゴチャ混ぜで全く整理がつきませんでした。

そして人間の防衛本能とは強烈なもので自分がずっとリレーのアンカーであったという記憶も最近まで思い出せませんでしたし、このトラウマを期に大好きだった運動会や陸上競技系のイベントを真面目に参加するのはダサいと考えるようになり、小6の運動会以降は見るからにやる気がない態度でダルそうに適当に走るようになったことを記憶しています。

要は本気を出して結果が出ない、カッコ悪い姿を見られるのが怖かったのだと思います。


中学時代(13〜15歳)

色気付きが加速しクールぶった態度でモテようとしはじめます。
小学校までは比較的明るい冗談を言うのが好きな子でしたが、斜に構えたブラックジョークを好むようになり当時ダウンタウンの松本人志さんが爆発的な人気だったのですが、彼のようにふてぶてしく落ち着いた雰囲気でオモロイことを言うのがカッコいいみたいな感覚でいたと思います。

小学校までは誰彼構わず仲良くする感じでしたが徐々に趣向性が近い人間との付き合いが深くなっていきました。

中2を境に私はざっくりいうとヤンチャっぽい子達と仲が深まっていくようになります。

繁華街の大型ゲームセンター、カラオケ、ファーストフード店、コンビニ、大きな公園あたりでいつもヤンチャな仲間と下品な会話をして爆笑する感じで、無目的に暴れまわるタイプのヤンチャというよりは法律違反やルールを破るスリルを楽しんだり、彼女を作ったり女の子と仲良くする事の優先度が高い感じの小悪党でした。

ヤンチャの仲間内でも相変わらず仕切り屋のお節介焼き感がありましたが、この頃は思春期特有の強烈な気分の上下動がありテンションの乱高下に周囲を付き合わせるめんどくさい奴だったと思います。

一方で相談事はかなり舞い込んでくるタイプで、恋愛相談から人間関係のこじれや親や学校との向き合いや進路についてなど色々相談を受けましたが頼られると徹底的に向き合い、時に相談相手の方が先に音をあげるほどの熱量で一緒に解決に向けて伴走しました。

なお、この頃になると父も私に細かい所作を求めることは完全に諦めて会社を継ぐ気さえあるなら良いという感じで放置気味でした。

酒に酔い過ぎたり機嫌が悪い日は怒鳴られ殴られという事もありましたが、私も体が一定大きくなり小学生の頃ほどされるがままではなかったですし、自然と虐待の強度は下がっていきました。


中2で唐突にヤンチャになったキッカケがあります。
11歳頃から歌手になりたいという夢を持ったことは先程触れましたが、中学1年時の正月に父の実家の熊本に帰省した際に親戚一同から壮絶なドリームキルを喰らったことがキッカケです。

父には私に自分の会社を継がせるという強い思惑があることと、古い人なのでそもそも「芸能の世界=チャラチャラした人間がやること」という感覚が強く何度も何度もくだらない夢を見るのはやめろと止められていました。
そして父に限らず熊本の親戚一同も次世代の長男が恥ずかしい夢を見ているとはけしからんと感じていたようでした。

ドリームキルの方法は正月の親戚一同が集まる宴会の席に熊本では知る人ぞ知る有名な歌手を呼んだという事で、どうしても歌手になりたいと言い張るならこの人の前でカラオケを歌って実力を認められろという内容でした。

唐突に親族一同とそのプロ歌手の前で歌わされたのですが、プロ歌手を名乗るの方含めその場にいた親族全員からは下記のような酷評の嵐を受け、完全に自信を喪失してしまいました。
 ・断言するがプロになるのは無理。素質がないので早く諦めなさい。
 ・こんな汚い声の歌手はいない、ふざけるな。
 ・少しも良いとは思わない。なぜ歌手になりたいと思ったのか?
 ・ふざけてないで真っ当に生きろ

楽しみと自信と夢を一気に失いやさぐれました。
希望を持つことがバカらしいという価値観になりました。
投げやりに深く考えることなく不貞腐れた感じです。

この日以降の中学時代は何事に対しても斜に構えるようになり、否定的な姿勢で物事を見ることがデフォルトな人格でした。
タイミング的に思春期と丁度被った事も燃料になり強度の高いこじらせが発生していたと思います。

後日談ですが高校を卒業する頃に酔っ払った親戚からネタばらしをされまして、このドリームキルは親族一同で私に夢を諦めさせるための口裏合わせだったそうです。

プロ歌手も偽者で近所のやや見た目が派手なオバさんをプロ歌手と見立てて敢えて酷評したのだという事実を知らされ、親族に対して嫌悪感というか人間不信に近い感情が生まれました。

以降、真剣に歌を歌う事が怖くなりカラオケに行くときは未だに下手だと評価される恐怖心からフザケて歌うことしか出来ないです。


高校時代(16〜18歳)

※イメージ図※
高校時代はこんな雰囲気でした。

思春期のこじらせはやや緩和されましたが素行は良くなかったです。
ムダにクールぶった態度を取るのはやめ、元通りとまでは言いませんが基本的には明るいキャラクターに戻っていきました。

父からは工業高校に行き卒業したらすぐにウチの会社に入れと言われましたが、校内に女子がいない環境が嫌過ぎたので偏差値46くらいの中途半端に頭の悪い普通科高校に進学しました。

父には大学に行かず会社は継ぐから普通科に行かせてくれと伝え、数日抵抗されましたが最終的には仕方ないとなり工業高校行きは逃れました。


高校時代の自分を一言で表すとバカパリピヤンキーで東京の枠を超えて近隣3県(神奈川、埼玉、千葉)にまで友人がおり、いつもウェイウェイして過ごしてました。

例えば夏休みは海の家に10日ほど住み込みでバイトし、その後高校生ながら一人暮らししている友人の家に入り浸り、年上彼女の家に連泊し、(踊る方の)クラブに入り浸ったりでとにかくほぼ家に居ることなく毎日遊び回っていました。

学校にはざっくり6割ほどしか行っておらずほぼ勉強もしていなかったですが、雑というか基準があまい高校でいなくても出席扱いにしてもらえる等の温情措置でギリギリ卒業は出来ました

バカパリピヤンキーになったキッカケは中学3年から地元の高校生の先輩と遊ぶようになり、その人達に連れられて渋谷や新宿を中心に都内の様々なエリアに遠征し私と同様に各地元から遊びに出てきている派手で元気な子達と繋がっていき指数関数的に知り合いが増えて、気がづけば1都3県各地に派手で元気な友人達が点在するようになりました。

イメージで言うとDragon AshのGrateful Daysの一節の「東京生まれHipHop育ち、悪そうなやつはだいたい友達♫」がリアルに当てはまる感じです。

派手っぽい子であれば初対面でも知り合いの名前を出していけば何となく誰かしらが繋がるようなかなり広い交友関係がありました。

敢えてここには書きませんが、この時期はやや度が過ぎた悪さもスルッと出来てしまう生き方をしていましたし価値観が一般常識と最も遠い距離にあった時期で良識のある人達には目すら合わせて頂けない人種でした。

この時期の人間関係は中学生の時よりも本格的な不良っぽい上限関係が働く環境で遊び場には常に目上の先輩もおり幼少期のようにいつも自分が仕切るという感じではなかったですが、先輩に対しても比較的自分の言いたいことを我慢せずに言うタイプの割には可愛がられていたと思います。

同年代や年下の子達の中では変わらず兄貴的なタイプだったと思いますが、相性の良い悪いはかなりハッキリしており時に大揉めする事も少なくなかったです。

人を笑わせて場を盛り上げようとする性質も変わりなく、この頃からは知り合いが相当に多かったこともあり人と人を繋げる機会が増えましたし、身内の和が広がる感覚が嬉しくて人繋ぎを積極的に楽しんでいたと思います。

相変わらず相談事は舞い込みやすいタイプでありお節介焼きなのも相変わらずで他人事をジブンゴトのように熱量高く向き合い、引き受ける必要のないトラブルにまで一緒に巻き込まれて大事になり少し後悔しながらも一緒に各所に頭下げに行き筋を通して人間関係の修復をして解決し、後悔したはずなのにまた同じことを繰り返すみたいな感じでとにかく仲間内の人物相関図の中心の渦にいるタイプだったと思います。

この高校3年間ではキラキラした思い出もド派手なトラブルも数多く経験し、しんどいことも多かったですが比較的充実していた時期だと思います。

そしていつまでもフラフラしているわけにも行かずケジメを付けるべき時が来ました。


父の会社に就職そして父が家族を捨てるまで(19〜22歳)

約束通り父の会社へ入社

高校卒業して直ぐに約束通り父の会社に入社しました。
特に最初の2年ほどは覚えることが多く目まぐるしかったので高校時代の自由極まりない生活からは一変しました。

というか嫌いな父の会社に何故勤めたかを疑問に思われるかもしれません。

理由は高校時代のバカパリピヤンキーな私を見て父も私に長男としての品格を求めるとかそういった事は完全に諦めきったと思われ、この頃には会社を継ぐなら何でも良いという感じになり顔を合わせるのも月に数回程度と良い距離感が出来たので以前より険悪感が薄れていたことが1つです。

もう1つが数回父の仕事の出張にインターンとして同行したのですが、1泊2日で6万円も貰えるので高校生としては目が$マークになる感覚でした。
こんなEasyに6万円も稼げるならこの仕事最高じゃんという感覚が芽生えたのが大きかったです。

これは私を釣るための方法で過剰に出していたと思います。

話を戻すと生活が一変したことで自由に遊べるのは土日のみになり、会える友人に偏りが出たため高校時代に爆発的に広がった各地の友人ネットワークは一気に薄れました。

生活サイクルとしては平日はざっくり8:00〜21:00位で働くので翌朝を考えると遊びに行きづらく、平日夜間はジムで1時間ほど筋トレをし、土日のいずれかは男友達と遊び、もう1日は彼女と過ごすというような高校時代からすると信じられないほどに安定したルーティン生活でした。

生活の激変に耐えられたのは高校3年の夏休み以降はやや遊び疲れたというか遊び飽きた感があった事と父の会社に入れば楽して稼げて4〜5年したら社長になれるっぽいという覚悟0のしょーもない安定志向に走った事が上手く作用しました。

父からは1年半ほど下積みで技術の基礎を学んだらその後は副社長として営業周りの業務を任せたいとキャリアを示されており、恐らく父が苦手としていた人付き合い面を私に任せたいと考えたのだろうと思います。

会社の規模はとても小さく父と私を含んでも10人未満の零細企業でした。
収益性は悪くなく社員1名あたりの月のグロスが3,500万円ほどで営業利益率も5〜6%を推移しており決して悪くはありませんでした。

突然父と仲良く出来るわけもなくほぼ直接の会話をしませんでした。
必要な情報共有は社員の方を通じてバケツリレーのような形で行ってましたが研修や育成は社員の方に担当頂け、既存顧客の業務を回すだけで一応に食っていける経営状況であったので特に大きな問題も起こらず成人間もない若造ながら入社2年後には副社長兼営業責任者としてのレールに何とか乗れていました。

ただし順調な時は長く続きませんでした。

父が鬱病になり家庭崩壊

父の同郷で唯一の友人である大口取引先の社長が急病でお亡くなりになり、それまで既得権益的に仕事を下さっていた企業から取引の停止を申し伝えられたのです。

内部留保もあり即会社が潰れるような状況にはありませんでしたが、売上の15%を占める会社との取引が切れたことで父の言動が極端に荒れ始めます。

売上もそうですが、恐らく本当に唯一と言える同郷の友人がお亡くなりになったこともメンタルに影響を与えたように思います。

私に対しては勿論、社員の方に対しても人間としてどうなのか?という発言が増えていき歯止めが効かないと大量退職が起きかねない印象でした。

売上が落ちた事を気に病んでいるならば私の分の人件費が削れれば少なからず余裕が出るだろうという理屈をこじつけて退職を父に申し伝えました。

理屈をこじつけてという表現でわかる通り高卒から3年半ほど勤めた結果として私は正直父の会社の事業にまっったく面白みを感じられず、しかも相変わらず自分の気分1つで非人道的な言葉を他人に浴びせかける父の姿を見てるのも嫌で堪らなく、同年代が新卒になるタイミングに合わせて自分も新しい世界を観てみたいという気持ちが芽生えていました。

退職の意思を伝えてからの父はマインドが完全崩壊しました。
あまりにも様子がおかしいので心療内科を受診させたところ鬱病と診断されました。

以降父は会社に顔を出さず現場の人達に仕事は完全にお任せ状態になり毎日家で酒を飲んで大声で暴言を吐き、かと思えば突然数日間一言も発しなくなったり、毎日酒に酔って気絶するように眠る日々が半月ほど続きました。

そしてある日家に何らかのオイルを大量に撒き始めて、これは家に火を点けようとしているのでは?と感じられる行動を取り始めました。

さすがに危ないということで私が父を押さえつけ母が警察に通報し、家に警察が到着しましたが驚くことに父は警察の眼の前で母に「ポリ公にチクりやがったこの豚が」と言い母を殴りつけ、現行犯で父は警察に連行されていきました。

翌日父は釈放され家に帰ってきましたが、帰ってくるなり突然身支度を初めました。

恐る恐るおかえりなさいと言った母に対して「お前らにはもうウンザリで、お前らがいると俺は不幸になる、もう年を取っただけのババアのお前には利用価値もないし今日で解散だ」と吐き捨てるように言い、それを聞いた母は取り乱すでもなく静かに泣いていました。

そして「俺は出ていくからお前達で後は勝手にしろ」と私と弟に言い、そのまま車に乗って立ち去り以降家に帰ってくることはありませんでした。

いま思うと、セルフコントロールが効かない自分に父自身が困惑していたのかも知れません。家に火を点けて一家心中しようと頭に過ぎった自分が生活圏にいたら誰も幸せにならないと考えたのかなと思います。

数ヶ月ほどして父方の爺さんから母に電話が入り「(父から)短期間で何度も何度も金の無心をされるので追い返したが、いまは別の女性の家にヒモのような形で住んでいる様子だ」と父の状況を伝えられたとのことでした。

アイツ(父)はもうどうしようもないから長男の権限を剥奪し兄弟内の別の人間に熊本の家は継がせるから、アイツの家族であるお前らとはこれで縁を切るとも一方的に申し伝えられたようです。

自分息子が高1の子供(弟)の養育を放棄して家族を捨てて離婚のステップを踏むこと無く別の女と暮らすという不義理をしているにも関わらず、謝罪や心配すらせず一方的に縁を切ると突き放せてしまうところに熊本の家系とは決定的に価値観が合わないと感じました。

極めて理不尽な状況でしたが母は「全て自分のせいだ」と泣きながら私達に謝りました。
涙を拭きながら父の家系と縁が切れてスッキリしたと引き攣った笑顔で言い、気丈に振る舞おうとする母の姿が忘れられません。

私が父と父方の家系も含めて二度と関わりを持たないと決意したのはこの一連の出来事からでした。


23〜30歳まで

父の失踪により私が会社を継ぐのかという話になりましたが、会社を継ぐという行為を私自身が許容できる精神状況になく会社は社員の方に継承しました(その後5年くらいして潰れました)

姉は既に他家に嫁いでいたので母と高1の弟のことは私がなんとかしなければならないという使命感に駆られ、一定の給与が保証され更には結果出した分だけ給与に反映されると評判だった某不動産会社とリクルートの面接を受け、結果的に3年満期の契約社員制度でリクルートに入社しました。

より安定して稼ぎやすい不動産よりも不安定な雇用形態のリクルートを敢えて選んだ理由としては、捨てる神あらば拾う神ありで母方の実家が一定の生活費や母のメンタルケアを含めて面倒を見てくれる事になり取り敢えずは自分の事に集中すればOKな状況が整ったため、それであれば中期的に見て実力が付きそうなリクルートを選択したという感じです。

リクルートHRマーケティングというフロムAとかリクナビNEXTを中心とした求人広告の掲載を取ってくる新規開拓法人営業として入社であり、一切引き継ぎ顧客無しの顧客0状態からのスタートでした。
なので初期業務はとにかく行動量だけを頼りに「飛び込み営業&テレアポ」で探客をしまくるというミッションです。

1日飛び込み営業をしまくって名刺を最低50枚貰ってこいというのが初期のミッションで一日中転げ回るように飛び込み営業をしてそれでも18時時点で30枚位しか取れずオフィスに戻ると灰皿や携帯を投げつけられ、50枚になるまで帰ってくんなと追い出され本当に50枚になるまで帰れません

当時のフロムAは水商売のキャバクラのお姉さんやボーイさんの募集も出来たので夜間も営業している水商売のお店を回って何とか50枚に到達するような状況でした。
一番苦戦した日で23時を少し回ったと思いますが、それでもマネージャーがオフィスで帰りを待ってくれているという本当に熱血な社風でした。

当然早々に辞める人が多発し、20人ほどいた契約社員の同期が3ヶ月後には半分以下になりました。

とてつもない数をこなせばバカでも質が磨かれるを体感し効率的な時間の使い方やどの業態に何を言えば刺さるかという現場特有の商売感覚が磨かれる頃には名刺が山盛り状態で、その頃には飛び込みやテレアポに割く時間が取りにくくなるほどに受注が決まりまくるようになります。

私は高校時代の人付き合いがヤンチャ系ばかりだったので、ヤンチャな決裁者が多いキャバクラ系のクライアントを捕まえるのが抜群に上手かったこともあり同期の中で頭2〜3個抜けるほど成績を残し、結果として1年半後に正社員登用して頂けました。

正社員化してすぐに若手3人を教育することになりその1年後には7人、10人と少しずつ見るメンバーが増えていき、小規模ながらチーム方針を立てて適用し、改善を高速で繰り返しまくるサイクルを数字を右肩上がりで成長させながら実現するという手段に拘らず目的に拘る感覚圧倒的当事者意識が失くしては実現し得ない経験が出来たことは後の人生においても貴重でした。

そして入社から4年ほど経った頃に転職します。
東京電力がオール電化という家中の全てを電気で生活可能にするサービスを開発しそれを市場に知らせていく1→10フェーズで如何に引き合いを増やすかというマーケティング職での入社でした。

が、、入社した際に何か状況が変わってしまったようで、東京電力のコールセンター部門をスピンアウトして出来た子会社への出向を命じられました。

そこではコールセンター運営を委託したい企業から運営受託したり、新規にコールセンターを立ち上げたい企業向けにコンセプト設計〜業務設計〜床調達〜ファシリティ選定〜採用〜運用(実行、集計、報告、改善)、等まるっと引き取るコンサルティング&受託事業をする部門に配属されました。

感情も取り扱うコミュニケーションが好きなので用件だけクリアにする事務的なコールセンターには1ミリも興味無かったですが、結果的にフルカスタマイズが必要な無形商材を売る経験を持てたことはスキル形成の意味ではポジティブでした。

結果的にこの会社ではそこそこ出世し入社2年目で課長になり3年目から部門長としてPL責任を持つ立場になり、結果として7年ほど勤めました。

事業内容には全く興味なかったですが出向先で裁量高く部門運営をさせて頂けたので子供の頃から得意としていた方針作り(仕切り)中間管理職に1on1でしっかり向き合い目線を一致させたいメッセージを送り、それが各メンバーに波及していく流れを作るリーダーシップを発揮出来ていた時期だと思います。


31歳〜ここ数年の話

33歳まで東京電力の子会社に所属しましたが時代がWEB&ITの方向に進んでいくにも関わらず全くその知見がないことに恐怖感を覚えWeb&IT系のベンチャー企業に転職しました。

営業マネージャー職として内定が出ましたがWeb周りの知識を付ける意味で1からプレーヤーとしてスタートしたいと志願し、久々に純粋なプレーヤーとして稼働しました。

そして半年ほどで充分な成果が出るようになり概ねの知識も付いたということで突然事業責任者へと抜擢されます。

プレーヤーからの一気に事業責任者なので4階級特進くらいの実に雑なITベンチャーらしい抜擢でした。

抜擢理由はPL責任を持った業務経験がある人間が不足しているので、そこらの経験を積ませる手間が省けるからということでしたが、私としては昇給も伴うありがたい話だったのでお受けしました。

それから2年ほど経った頃に、たまたま知り合ったIT企業の社長から現年収に30%乗せて出すからウチきてよというお誘いを頂きあっさり乗り、そこで当時世に騒がれ始めたSaasプロダクトの新規事業責任者に就任しました。

このサービスは怖いくらいにあっさり軌道に乗り、運営し始めてから1年半ほどで外資企業からその時の営業利益額から考えるとだいぶ条件の良いM&Aを持ちかけられ社長の即決で売却決定しました。

人生初のデューデリに社長と共に同席したのですが売却が既定路線なこともあり話の進みが早く、デューデリって結構雑にやるんだなーと不思議な気持ちになったのを覚えています。

そして私の担当事業が売却されたので一旦はお疲れ様ということで2週間予定の長期休暇を頂けたのですが、私の次の置き場がすぐに見つからない様子で追加で1ヶ月半ほど暇をさせられたので退職しました。

次はIT&Webに特化した人材系ビジネスを強みとする企業に転職しました。
派遣や紹介事業に売上比率が偏りすぎており、Web制作等の受託事業のリソースが少なからずあるにも関わらずほぼ機能しないということで受託事業の比率を高めるMissionを請負ビジネスの経験がある私に任されたという感じです。


この会社と私の相性が極めて悪く、今までの比較的順調だったキャリアから一気に地の底まで落ちました。

会社は悪くなくただ私と社風の相性が悪かった事が原因です。
大前提として入社時の受託ビジネスを成長させるというMissionは最初の1ヶ月で突然立ち消えになり人材派遣や人材紹介の新規開拓営業を任されることになりました。

個人的に人材派遣というビジネスモデルがあまり好きになれず即退職することも一瞬過ぎりましたが、食わず嫌いは良くないと考え一旦はチャレンジすることにしました。

東証プライム企業で組織の統率はキレイに取れており相性が良い人にとっては居心地が良い環境だったと思いますが、私の所属部門はマイクロマネジメント傾向がやや強く「上の指示は絶対で言われた通りにミスなく業務を遂行する事」を是とする空気がありました。

つまり現場で機転を利かせて自己判断をすることが憚れました。
要は上から言われた通りに仕事をこなせばOKってだけなんですが、加点法というよりは減点法に近く故に私のこれまでのキャリアが主体的に行動してミスから学んで成長軌道を描く動き方だったので、私のスタイルが超絶悪目立ちしてしまう感じがありました。

そういった雰囲気なので同調圧力が強く自分がいかに多数派に回れるかを常に周りの顔色を見ながら周囲と歩みのリズムが狂わないように目配せをして進んでいく空気感というか、そういった部分の合わず息苦しさを感じました。

いま思うとさっさと辞めればよかっただけなのですが、大きい成果を出さずに出ていくことは逃走行為だという強迫観念がありMVP的な表彰をされる位の成果を出すまでは辞めないと意固地になったのが誤りでした。

自分が中心になり人を巻き込んで仕事を推進するエネルギーや、スピード感、失敗を材料と捉えて修正する事で道筋を整えていく修正力といった武器が一切発揮できない環境で、信じられないほどに自分の気持ちが冷え切っていき気持ちの温度を高めようとしても思ったように上がらない恐怖感に徐々に精神的に追い込まれていきました。

平均以上の成果は常に出ており年収も悪くなく土日祝は仕事のことを全く考えずに好きなことをして過ごせるという世間一般には悪くない環境でした。

更に結婚間もなかったことで奥さんに時間を割ける状況もあり徐々にこの生き方も悪くないと考えるようになりましたが、この会社に所属していた5年間は言葉にし難いモヤモヤや違和感を常に感じていました。

入社して1年経つ頃には「リスクを伴うチャレンジをする奴はバカだ」と勇敢な他人を揶揄する情けない人間に変わった自分に気づきました。

何事もなく上から言われた通りに着地させる仕事の仕方が当然になっていき、誰がやっても変わらないような仕事ぶりで相当額が銀行口座に給料として振り込まれる。

去年の自分と今の自分で何が成長したのか?と自分に問うても何も答えられない状態が数年間続きました。

そんな自分の生き方に疑問を抱えながらも一般平均からすると充分に恵まれた生活環境にあるのも事実で、明らかな問題がないので自分の中のモヤモヤを深堀りする理由もない状態が続きます。

病院に行った訳ではありませんが、モヤモヤした自分を見て見ぬふりをする期間が5年経過した頃には自己症状として軽い鬱なのではないかと思うようになりました。

そう思った理由は鏡に写った自分の顔が鬱で大暴走していた頃の父に少し似ているように感じたんです。

父の顔がフラッシュバックした時にこのままではいけないと思い立ち、この環境にいては自分は立ち上がれないと転職を決意しました。

そしてこの決意を全うするにはセルフコントロールだけでは不十分と考え、Youtubeで目にしたコーチングを受けることで自分を奮い立たせようと考えました。

そこで出会ったのがMindsetCoachingSchool4期の卒業生であるサカモトヒロキさんです。

ヒロキさんのコーチングを受けることになり、いま思えば最初の2〜3カ月ほどは私自身がコーチング対象に相応しくない精神状態であったため先ずはカウンセリングで自己受容に時間を割いて頂いたように思います。

その後コーチングに耐えうる状態になってからは本格的にスタートし自分自身の本来の性質や強みを掘り起こして頂くアプローチをして頂きました。

私が仕事と呼んでいる行為はオーセンティックなコーチングの定義ではファイナンスになり、いまあなたは仕事と定義されることをなさっていません。とバシッと衝撃的な提言をいただきました。

「ファイナンスとは自分の生き方に必要な収入と支出を管理すること」
「仕事とは自分の本能的な生き甲斐で社会の役に立つこと」
「趣味とは自分の本能的な生き甲斐で社会の役に立つ必要がないこと」

私は会社で自分の生きがいとは関係ない業務に従事し収入を得て、その収入が生活コスト(支出)を超えないよう管理する事に生命時間を費やしていると気づき、とてつもなくムダな5年間を過ごした事実に愕然としました。

もっと言うと駄目な時間を過ごす自分に何となく気づきながらも、5年間も変化行動に移せなかった自分の性質にヒヤッとした事を覚えています。

その事実に気づいてからの1ヶ月間は生命時間を無駄にした後悔の念とそれに気づいても一朝一夕に本来の熱量を即座に取り戻せない、惰性的な生き方がコンフォートゾーンになっている自分に絶望しました。

毎朝アファメーションを行い決意を新たにしても昼頃には早々にホメオスタシスのFBに引き戻され、自分の気持の浮き沈みを上手くコントロール出来ない無念さと凹んでいても何も前進しないのだから続けるだけという自分の戦う意志とのせめぎ合いが続きました。

この時期には本当に自分のぶったるんだ心地良い環境を抜け出すことの難しさを痛感しました。

取り戻したい姿と現状のGapが見えているのにGapを埋める自分の行動に力が入り切らず、無意識的に「まぁいいか」と自分を甘やかす事に抗いきれない自分に何度も絶望的な気分になりました。

明確にこの瞬間ということはないのですが上手くいかないなりにもアファメーションを継続し2ヶ月目あたりから徐々に意図した形に言葉と思考と行動が一致し始める感覚を掴み、そこからからは一気に勢いづいてイキイキとした自分を日々取り戻していく感覚が持てるようになりました。

そして無事に相性の悪い会社からも転職成功しました。
転職先では機械学習(AI)の需要予測モデルを活用した外食産業向けDXプロダクトの事業責任者として裁量を持たせて頂けたので自分の特徴を活かした仕事の進め方が出来ることの気持ち良さを体感しながら業務に取り組みました。

本事業の前任者から引き継ぐ前のARR(年間売上)が1000万円強だった状態から1年で1億1000万円(約11倍成長)する事に成功しました。

事業規模が小さかったので大きく伸長させやすいタイミングであったことや、時代の流れが追い風になった面も多分にありましたが社内社外問わず仕事の進め方と結果の双方について相当にリスペクトを集める状況にあったと思います。

以降も急角度で事業を伸ばしていき、その実績を買われた結果として次の4月から某ITメガベンチャー企業でIS&FSの統括部門長になる予定です。


以上、今日までに至る人生の振り返りでした。

自分の幼少期を中心とした人生の振り返りということで、
文中に幼少期の特徴と思われる内容を箇条書きで5点を挙げましたが、成長過程の自分や社会人以降の自分からも近い特徴が見られると感じました。

・新鮮な環境を求める
・誰かが作ったルールよりもマイルール優先
・仕切りたがりの親分肌で責任感が強い
・目立ちたがりで人を楽しませるのが好き
・人の顔色をよく観察し面倒見がいい

今後も深く内省を継続し自分の素直な感情や特徴を人生に適用していきたいと思います。


最後に

長文にお付き合い下さりありがとうございました。


既にクライアントを持ちプロコーチとして活動を開始していますが、
私の師匠であるサカモトヒロキさんも学ばれ、更にはヒロキさんからご推薦頂いたMindsetCoachingSchoolで学ぶ8ヶ月間では自分自身が最高の挑戦者と言える生き様を体現します。

その生き様の体現で得た学びを基にクライアントの最高の未来の発見とその未来を誰よりも私が強く信じ、クライアントのエフィカシーを高める事で最高の未来へ引っ張り上げる事が出来るエネルギーに溢れた人間になります。


そう考えるようになったキッカケは私のコーチとしての師匠であるサカモトヒロキさんから認知科学コーチングを8ヶ月間受けたことです。

私自身の人生が大きく動くことを実感しましたし、多くの気付きやコーチングの持つパワーを体感しました。

その中で大切な気づきを1文で表すのであれば、
自分を深く理解し、在りたい姿に向けて素直になり、自己責任で人生に適用していくことの大切さ」

だと思います。

コーチング期間では現状の自分では届かない理想を手にすることにチャレンジしまして、それは決してキラキラした事ばかりではなく苦労や絶望感が伴うものでした。

私自身がコーチングを受ける前に1つ大きく勘違いしていたことがあり、
「コーチが自分の悩みを上手く引き出し、解決の方向に向かわせてくれて、何とかしてくれる」という要はコーチになんとかしてもらおうという寄りかかりの姿勢を初期段階では持っていたことです。

コーチはクライアントの現状の外にある心から在りたい姿に向けて突き進む行為の支援者です。

「現状を変えないと届く訳がない在りたい姿」に突き進むことが快適なはずがありません。

当たり前ですが進むプロセスはしんどいです。
わかり易い例で言えば「侍JAPAN入りして活躍し、金メダルを取りたい!」と夢見る甲子園に出場した高校球児がいるとして、この球児が夢を叶えるには本当に血の滲むような努力を自分に課す事が最低限必要になります。

単純な努力の一言では足りるようなことではなく、超一流になるための知識習得や最高の練習環境や最高レベルの選手達が集まる環境の確保等、すべきことが当然に多岐にわたりますし、当然にその全ては簡単に手に入るようなものではなく、その上食事や睡眠等の生活習慣やプライベートの過ごし方についても自由度は低くなり、相当な天武の才を持って生まれない限りは決して快適な生き方にはなり得ません。

その中でプロ野球選手になり1軍で大活躍し侍JAPAN入りするだけの実績を挙げる必要があり、そしてさらにはベンチメンバー入りの競争に勝ち抜き、更にはスタメン争いにも勝ち抜く必要があります。

そんな死ぬほどの努力が伴う世界観で出場選手としての席を勝ち取ったとしても、金メダルを取れるのは1大会につき世界でたった1チームだけです。

侍JAPAN入りして活躍し金メダルを取る!という夢はキラキラしていますが、それを現実にするプロセスは楽しいことばかりでは当然ありません。

この例は競争率が爆裂に高いこともありますが苦労も絶望も半端じゃないはずです。

それでもそれが自分の魂がどうしても欲しいと求める欲求なのであれば、折角この世に生を授かったわけでチャレンジしないのは勿体ないですよね。

寿命が途切れる瞬間まで自分の心の底からの欲求がわからないような人生や、欲求から逃げ出した自分が走馬灯に浮かんでしまうような人生を私は歩みたくありません。

それを同様に考えるクライアントがもし私を頼りにしてくれるならば、私はその人の事を全力で信じて、クライアント自身が自分のゴール達成に対して信じられるマインドを何としても生み出せる人間になりたいと思います。


これほど素晴らしいことはないと思っています。
めっちゃ頑張りますので応援して下さい。

長文読んで頂きありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?