死体

玄関先にゴキブリが仰向けになって死んでいた。家の周りに設置したコンバットが見事に機能している証拠である。
俺はゴキブリを始めとする虫全般が苦手。幸運にもそれは脇に寄せられていたので、そのまま放置している。驚くことに、遺体発見から1週間経った今も、当時と変わらぬ形でそこに眠っていた。

なんとなく、死体は勝手になくなっているものだと思っていたのだけれども。甲州街道沿いで車にはねられた三毛猫や、総武線快速に飛び込む男の人も、知らぬ間に綺麗さっぱり消えていたのは、最終的に誰かが“片付け”をしていたから、ということに今更気づいてしまった。

南北戦争では、戦線に転がる死体に遺体防腐処理をして遺族に引き渡すビジネスが流行するほど、大量の死者が出た。その様子はまさに地獄絵図で、カトリックをベースとした信仰宗教が勃興するほどに人々の心を蝕んでいった(らしい)。

この世界には「見えないもの」がたくさんある。それは「見たくない」人が「見えない」ように処理することで、「見えないもの」として存在している。一方で、その「見えないもの」を「見えるもの」に戻す「見たい」人やメディアも存在する。
僕は「見たくない」のに「見たい」人だ。というか大抵の人はそうだ。なんて卑しい存在なんだ!と、活字に起こすと目眩がしてしまうけれど、実際そうなんだから、しょうがない。
たまに「見たくない」のに「見えてしまう」ことがあるが、そういう時は思いっきり「見る」ようにしている。いつもは目を逸らしてばかりの俺なんだから、たまにはしっかりと向き合ってみようじゃないかと、そんな具合。
でも、やっぱりいつか綺麗さっぱり忘れた方がいい時が来る。いつまでも未練がましく思い出や苦しみに耐える必要はない。僕たちは今を生きる生存者としての、力強い一歩を踏み出さなきゃいけないんだよ。

明日になったら掃除しよう

No thank you.