泉谷閑示「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を読んで何故働いて生きるか考えた。

泉谷 閑示の 「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を読んで

「自分と向きあう」って何だろうと問いに対する解が得られました。

この本が第としている「どうして人は働かなきゃいけないのか」、「生きる意味とは何か」という問いのアンサーを出しています。

「何で生きなきゃいけないの?」「「何故働かなきゃいけないの?」と悩んでいる方にとってこの本は良書です。

先ず本の紹介文にめちゃめちゃ魅かれた

「働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。しかも近年「生きる意味が感じられない」と悩む人が増えている。結局、仕事で幸せになれる人は少数なのだ。では、私たちはどう生きればよいのか。ヒントは、心のおもむくままに日常を遊ぶことにあった――。」

いやこれ中央線で毎朝ぎゅう詰めになっているサラリーマン全員読むんじゃないかなって。

それくらい「仕事=人生」みたいに価値観が固定されている。

最初にこの本では「自分と向き合う」事の大切さを訴えています。

消費社会が生み出す「受動型人間」

「消費社会が私たちの急きょ差に受け言って生み出す「受動」の形態には、さまざまなものがあります。

 何か物足りないので、空腹でもないのに食べ物を詰め込む。

 休日を『有意義に過ごした』と思いたいので、出来合いのレジャーや娯楽に時間を使う。スケジュールに空白ができるのがイヤなので、用事を隙間なく詰め込む。

 (中略)独りぼっちの感覚に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつながっていようとする。

 家にいる間は、観ていなくても、とにかくずっとテレビをつけておく。暇を潰すためにゲームやネットサーフォンをダラダラとしてしまう、等々。」

はい、全部当てはまったことがある人! (・ω・)ノシ

「社交的にいろんな人と交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機などとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

 このように「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合うことが、いつの間にかすっかり苦手になってしまいました。」

手厳しいな、じゃあどうせえっっちゅうねん。

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自分と向き合う=人生に意味を求める

「『生きる意味」とは、何かを得たり達成したりすることによって感じられるものではなく、人生に「意味を問う」ベクトルを向け続けることによって感じられるものである。」

「『意味』は決してどこかで見つけて貰うことをじっとまっているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるものなのです。」

ほー、自身が意味を求めれば『生きる意味』が出てくるんだね。

「人が生きる『意味』を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではなく、『心=身体』が様々なことを『味わい』、喜ぶことによって実現されるのです。」

たしかにそうかも!

私天ぷら揚げている時とか感じるwじゅわ~ってしてるの見てると。

「料理をすると自分の存在を掘り下げやすい。きちんとつくるべきようにつくるには、まずものの本質と向き合わなければならないからです。」とも書いてますし。

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では本題の「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」に入りますが、

先ず何故こんなにも働かなくてはいけなくなったのか説明してます。

なぜ「労働」が賛美されるようになったのか

「労働が最も下げずまれた最低の地位から、人間のすべての活動力の中で最も評価されるものとしれ最高の地位に突然見事に上昇したのは、ロックが、労働はすべての財産の源泉であるということを発見したときに端を発している。

 その後、アダム・スミスが労働は全ての源泉であると主張したときにも、労働評価の上昇は続き、マルクスの「労働のシステム」において頂点に達した。

 ここでは、労働はすべての生産性の源泉となり、人間のほかならぬ人間性そのものの表現となったのである。」

くそう、ジョン・ロック、アダム・スミス、マルクスお前らのせいだな。

後で校庭10周な。

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怠ける権利

マルクスの娘婿のポール・ラファルグが「マルクスのおじさん、何言うてはんの」と言って(推測)『怠ける権利』という書を書きました。

「資本主義文明が支配する国々の労働者階級は、いまや一種奇妙な狂気にとりつかれている。その狂気のもたらす個人的、社会的悲惨が、ここ二世紀来、あわれな人類を苦しめつづけてきた。

 その狂気とは、労働への愛、すなわち各人およびその子孫の活力を枯渇に追い込む労働に対する命がけの情熱である。」

よく言った、ポール・ラファルグ!ありがとう!

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「働くこと」への違和感の正体

「労働」から完全に離れてしまうことは、人間から活力と声明を奪いさってしまうことになる。これも生き物として一つの真実です。

 しかし、だからと言って、「労働」によってほとんどが占められるような生活もまた決して人間的な生活とは呼べないでしょう。」

そのとおり!ではどうしたらええの?

生活を「遊ぶ」ための工夫

「生活を遊ぶには「即興」という概念を積極的に用いてみる事がとても有効だ。

(中略)

例えば、ある休日にどこかにでかけたくなったとしましょう。ところが、格別どこかに行きたいというアイディアも浮かばない。そんな時には、すべてを「即興」に委ねて行動してみるわけです。

 スーパーに食材を買いに行く時にも、同じく「即興」的にやってみると、料理が格段に面白くなってきます。献立など何も決めずに、まずは店内を巡回してみるのです。

 書店に行く時も同じです。特に何を買うのかを決めずに、ウロウロと店内を巡回してみます。

 しかし、いわゆる「積ん読」になったとしても一向に構わない、まずは自分のその本があるだけでも、十分に意味が合うのです。

 それは5年後か10年後かもしれませんが、ある日ふと、偶然その本を手に取るタイミングが訪れる。

 人がある本と関わる因縁は、そのようないくつもの偶然によってもたらされる、あいまいで不思議なものなのです、

 (中略)

『心』の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。気が向かなければやらない。「継続」などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇つぶしとして遊ぶ」のです。」

そうだよね、人生って壮大な暇つぶしだし。

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この「心の向くまま」のあたりはphaさんの書いている事に似てると思った

「あんまりお金がなくても、毎日好きなだけ眠ってのんびりと目を覚まして、天気のいい昼間に外をぶらぶら散歩したりしていれば十分幸せな気がする。」

『持たない幸福論――働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない』 幻冬舎、2015年

仕事は生活を楽しませる為にあるのであって、仕事の為にあるわけではない。

phaさんの著書「しないことリスト」の「イヤなことをしない」で、

「『仕事というのは、イヤなつらいことを歯をくいしばって、ひたすら耐えて頑張ってこそ成果を遺せるのだ!」みたいなことを言う人がたまにいるけど、そんな変な話はないだろうと思う。人生はそんなマゾゲーじゃない」と書いてある。

さらに「自分の好きなことをひたすら続けていれば、そのうちそれはどこかに繋がってくるものだ」と書いてある。

母は今日「『そんなに働いて大丈夫?』ってよく聞かれるけど、働いている感覚がないのよ~」と言っていた。 

「労働」によってほとんどが占められるような生活から脱却するのも大事だけど、

「労働」が楽しいものであればそれはそれで良いなと思った。

ただphaさんはツイッターで常に誰かとつながってるし、ネットサーフィンをずっとやっているのは今回紹介した本との相違点だな。

おわり!