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めちゃくちゃヨイショって言う

小さい頃、 何かの所作につけてヨイショヨイショと言ってるおじさんたちを見ては、こうは成るまいなんて思いを固めていたはずなのに、気づいたら全然使っている。
こういうのはこれからどんどん増えていくのだろうか。

たとえばゴルフ。
休みにゴルフばかりしてるようなおじさんを、それしかすることがないのかとなんとなく蔑んで見ている。けれどヨイショの件を考えると、今はそんなことを思っていても20年後フタを開けてみればゴリゴリにゴルフにハマっているかもしれない。

たとえば昔話。
お年寄りは昔話が好きだ。学生時代の武勇伝を聞かされるたびに、この方は人生で同じ話をいったい何回してるのだろうなんて思う。でも、もしかすると年を取れば取るほど、新しく何かを成し遂げるなんてことは難しくなってきたりして、そうなるとやっぱり過去の栄光に縋ることなしには自己肯定感を保てなくなってくるのだろうか、あるいはお年寄りはお年寄りで若者と話を合わせようと、昔の話を一生懸命引っ張り出してくれているのだろうか、そんなことを考えると途端に自分はそうならないと言い切る自信がなくなってくる。

たとえばブランド。
ブランド物にとんと興味がない。車・時計・バッグ・服その他もろもろ、ブランドで全身覆わないと窒息でもするのかというような人に嫌悪感がある。けれどそれも、社会人としての地位が上がっていくにつれて、自然と身に着けるものにも質の高さを求めるようになってしまうものなんだろうか。

たとえばキャバクラ。
若くて可愛い女の子におだてられ、チヤホヤされて鼻の下を伸ばして喜んでいるおじさんを心底気色悪いなと思っている。けれど、そうやって癒しを確保しないとやっていけないようなレベルの辛さが中年になったら訪れるのだろうか。そうして周りがキャバクラに通うおじさんばかりになったら、ぼくはその波に流されずにいられるのか。

思えば、嫌悪感は呪いかもしれない。
好きの反対は無関心なんてありきたりな言葉が示すように、何かに嫌悪感を持っているその時点で否応なくそれを頭の片隅においてしまっているということか。それがじわじわと単純接触効果を生み続け、ある程度の年月が経ると時限爆弾が爆発するかのように突然「好き」へと変貌する、そんな感じなのかもしれない。

それでも、それはそれとして今まで楽しめなかったものが楽しめるようになる訳だからいいのか。

なにしろ、ついヨイショと言ってしまう自分も、いまやそんなに嫌いじゃない。

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ここまで読んでくださった方はありがとうございました。

PLANETS10を買いたいです。