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ジソンシン

この時期になると、あるコンビを思い出す。
「思い出す」という単語を使わなくないといけなくなったのは一昨年からだが、人の誕生日も記念日もどうでもよく、日付と時間なんてチケ発とクレカの切り替え日でしか意識していない人間が、数日前から思い出すのはこのことだけ。
吉本のプロフィールでは確か2/1だった気がするけれど酒井さんのTwitterでは1/25か27で、よく分かんないので公式に則って2/1とさせて頂く。2/1は、ジソンシンというお笑いコンビの結成した記念日である。

2022年の2月以降から謎の休演が続き、理由は語られることなく、酒井さんのTwitterとよしもと漫才劇場のTwitterで発表され、2022/3/27に解散となったジソンシン。そして同年5/1に酒井さんは新しい現在のコンビ「若葉のころ」を結成されるため、この時の三ヶ月間は、怒涛の勢いで進んでいた。ていうかさらさらと日付が出てくるのが気持ち悪い。私は意外と記念日とか誕生日も愛と気合いさえあれば覚えられるのかもしれない。

ジソンシンというコンビを応援していた私は、当時解散の報を受け全てが真っ白になりとりあえずお気持ち長文を書いたのだが、あまりにも見ていられなくて鍵垢でそっと供養し、今もそれを時々見返しては、あの時の荒れ狂った自分を思い胸を押さえる。
だがこのnoteでは一度もジソンシンの話をしたことがない気がしたので、時効と思って、させて頂こうと思う。
今でも瞳を閉じると、瞼の裏に蘇ります────というやつです。あはは



ジソンシンを知ったきっかけを、もう覚えていない。
あの当時のマンゲキにハマっていて、動画や芸人さんのSNSを見て徐々に知っていって、なんかそこに落ち着いたんだと思う。
どんなところが好きだったのかと人に聞かれた時になんと答えていたかも覚えていない。
ネタがとにかく好きだった。でも今思えば、コロナ禍前で配信もない時代に大阪の芸人さんに関東の貧乏学生がハマるのはどんな仕組みだったんだろう。お世辞にも関東現場で見れる芸人さんではなく、テレビなどでお目にかかるタイプでもなかった。
二人の仲良さそうな姿も好きだった。仲の良いコンビは数多くあれど、相方さんの結婚記念日をサプライズで祝うことが出来る人、そして相方の活躍を神社に祈願しに行ける人が組むコンビはそうないだろう。
下村さんの人柄すべてが好きだった。勿論いい意味として、あんな人間は見たことがなかった。真面目で穏やかで優しい雰囲気がありながら、周りの芸人さんから出てくる下村さんのエピソードは怖くなるようなアバンギャルド(酒井さんがそういった表現をされていたので、それに則って)な話が多かった。芸人になるまでの半生もパンチがあった。でもいつも優しい笑顔だった。
酒井さんの作るものがもれなく好きだった。ネタも書かれていたけど、noteも面白かった。芸人さんの中に酒井さんのファンが多かったのも合点がいった。ネタのオチでお客さんが困惑の悲鳴を上げて終わるネタもあれば、超絶インパクトのキャラコントもあった。多彩だといつも思っていた。ワードチョイスが綺麗で品があって素敵だった。

大学受験期に二人を知って、大学入学と同時に大阪に行ってジソンシンを生で見るためのお金を貯め始めた。勝手も分からない中、夜行バスやホテルを取って、大して中身もないくせにキャリーケースを引きながらジソンシンの単独ライブのために大阪に通った。3ヶ月に1回、大阪へのチケットを買う生活。コロナ禍に入ってしまい結局これは3回程しか出来なかったのだが、今もジソンシンがいれば絶対にやっていただろう。
コロナ禍は二度と来て欲しくない時代ではあるが、配信が生まれたことで、いつもは泣く泣く諦めていた単独ライブ以外のライブも見れるようになり、ジソンシンを見れる回数は増えた。いつの間にか、配信で見れることに安堵して胡座をかいていた事実は否めない。

私の最大の失敗は、ジソンシンの最後となってしまった単独ライブの配信を買うのを忘れたことだ。次の単独は買わないとな、なんて思っていた矢先だった。これはタラレバであり、「推しは推せる時に推せ」という、死ぬほどありがた迷惑でかったるい大嫌いな言葉に倣いたくはないのだが、あの時ライブを買っていればという後悔は、今も尚消えることがない。なので今は、とりあえず迷ったらライブを取るようになった。後悔する暇を与えないように。「推せる時に推せって言ったじゃん」というマジレスを浴びないように。誰だよこんな言葉生み出した奴。誰かが解散/引退/活動休止になるニュースの度に湧いてくる言葉。人間には生活のキャパシティっつーもんがあるんだよ。推しの悲しいニュースに「でも推せる時に推してたし大丈夫!」で片付けてたオタクとか見たことあるのか?悲しみにくれる人間に正論で傷口を広げるな。

「解散」と聞いた時の絶望と困惑は今でも鮮明に覚えているが、思い出すだけで手から力が抜けていく。
たまたま(たまたま?)当時のご時世の事情により祖父母の家の一室を借りて2週間ほど引き篭らなくてはいけない時だった。解散発表当日の3~4日前から、扉越しの祖母と一日数言しか会話をしていなかった。
その時にはジソンシンの謎の休演が一ヶ月を超えており、友人たちと「まさかな」と最悪な勘繰りをしてしまうことが度々あった。とはいえ自分の環境がイレギュラーな環境になってしまい、祖父母の家にWiFiやインターネット環境がなかったことから、スマホ自体とも極力切り離されたモヤモヤした日々を過ごしていた。
確か3/27の、18時30分頃だったと思う。鬱鬱しい気持ちの上から、信じられない報が飛び込んだのは。

今まで見たことないくらい、TLが「ジソンシン」という単語と「フォロワー……」という単語で埋め尽くされた。そのフォロワーって私の事なのか、聞いたりはしなかったけど。
身体は固まる中、頭では思考が張り巡った。だが悲しい哉その場に会話できる人間は一人もいなかった。震える手でスマホを手にして、とりあえず思いを書き殴って、それを私のお気持ちとした。ツイートでは足りなかった。解散の報を受けて1時間足らずで書き始め、2時間程かけて書き終えたその文章は、生々しくてグロテスクで、あの日の私しか書けないものだったろう。
そこから数日経ち、許可が出て自宅に戻った。自室のベッドに座って、部屋に飾ってあった二人からのサインが書いてある単独ライブのチケットを見て、ようやく涙が溢れた。「推し」のことで悲しい涙をとめどなく流したのはこれが最後。もうそんな機会要らない。



それからは、思い出に固執する私と進んでいく現実に着いていこうとする私のせめぎ合いだった。最初こそ前者が猛威を振るい、後者は陰になって怯えるだけ。芸人の活動を続けるという酒井さんの情報を得ようともがきながら、ついに本人たちから一度も語られることのなかった解散理由に関すること、周りの芸人さんがどんな反応をしているのか、一度も報告やお姿が見えなかった下村さんに関する話はどこかに挙がっているのかをSNSで調べる、まさにメンヘラオタクの完成だ。結果は一つも出なかった。理由が分からないから何とも言えないが、よしもと漫才劇場に所属している芸人さんの解散にしては気持ち悪いほど、解散に対して意見を発する芸人さんが露骨に少なかった。その時点で、触れてほしくないのだ、周りが言えないような事情があるのだと察してはいるが、せめて下村さんが元気なのか知らせがほしかった。

5/1に新コンビが結成された時、5/4か6に森ノ宮で新コンビの初ライブがあった時、それを配信で見た時、その辺りから段々と後者が台頭する。
もういいんじゃない、解散理由も本人たちに語る気ないのが答えだよ。酒井さんがまたネタを書いて活動してくれてるだけ幸せじゃない。
頭では分かってることを、前者の私は受け入れたくなかった。別に新コンビをなくしてジソンシンを再結成しろとかじゃなくて、何でこんなにずっと悲しいのに、ジソンシンの思い出がどんどん遠いところに行ってしまうのかと頭を抱えていた。この世からどんどん「ジソンシン」という単語が消えていく。多分いつか、Twitterという広いインターネットの中で、私しかジソンシンの話をしなくなる日が来るんじゃないかとまで案じていた。

そしてそんなこんなでガチャガチャグチャグチャ病んでお笑いライブへの足が遠のいていった私だが、2023年頭に新しく好きになった芸人さんが出来て、ライブの楽しさを思い出して、お笑いライブに昔以上に通いつめる生活が始まった。それきっかけで仲良くしてくださっているフォロワーさんが出来たり、知らなかった芸人さんを沢山知れたり、今はすんごく楽しい。楽しいなら、別にもうこの話を思い出さなくても良いはずなのだ。
思い出す頻度は減ったのに、未だに夢に出てくるし上半期はザワザワする。どうしたらいいんだろね。

この記事を書くに至ったのは、2024/1/6にあった某同期寄席の開催が発表された日。
2023年頃から好きになったヤーレンズが吉本の同期寄席に出るんだ!このメンツは豪華だな〜!NSC大阪29期大好きだしネコニスズやジグザグジギーもいて楽しそう!なんて一通り概要を見たあと、「下村さんの話は出るかな」と思ってしまった自分がいた。思った瞬間、その苦しさと痛々しさに我ながら吐き気がした。自分の嫌いなオタクに自分がなっていることが耐えられなかった。
もう時効かな、解散当時は語られなかったけどジソンシンの話はなにか出るかな、ジソンシンの話じゃなくても単語でもいいし、もちろんどちらか個人の話でもいいし、「これってジソンシンのことかな」と思うような何かがあるだけで嬉しいけれど、 なんて考えた自分が気持ち悪くて、そっとスマホを閉じた。
アイドルの配信やブログのコメント欄に湧く「◯◯ちゃんとの話して〜!」「◯◯くんとは最近会ったり話したりしましたか?」という輩が耐えられないほど大嫌い(自分の推しの話を聞きに他のメンバーのコメント欄にまで来るなよ)なので、実際本人たちにそれを要求したわけではないが、そんな思考に至った自分に絶望した。
そんな気持ちで見に行くのは申し訳なかったので、申込むことができなかった。
ジソンシンと親交深いデルマパンゲやヘンダーソンの名前があったから、ここにジソンシンがいる未来もあったのかもしれないと思いながら見るのも嫌だった。
あぁ、まだ全然ジソンシンのこと好きじゃん。2024年になってもこの感情に尽きる。こんなものを書いてる時点でお察しである。

ジソンシンきっかけで仲良くなった友人がいた。ジソンシンがいなくなることで、その友人も一緒に消えてしまう気がしていた。
この解散の前に体験したV6の解散で、いつも仲良くしてくれていたフォロワーがどんどんTwitterを消していくのを生で見ていたから。
幸運にもジソンシンきっかけの友人は未だに仲良くしてくれていて、会う度にジソンシンの単語が出てくる。あの悲鳴上がってた単独のネタのオチさ、結局どういう意味だったんだろ? 分からん……なんて話を未だにする。でもやっぱり、お笑いを追いかけること自体をやめてしまったり、Twitterに現れなくなった友人もいる。みんな達者でな 違う界隈でも元気でいてや みんな良い人で好きだった たまにインスタ見たりするよ 楽しそうでなにより


こんなに未練がましく、本人たちからしたらかえって迷惑であろうジソンシンの思い出とお気持ちの乱文を書くほどに成仏しきれていないのは、多分解散発表の日にジソンシンの公式YouTubeや膨大な量があったRadiotalkが消えてしまったからだと思う。最後の思い出に浸って泣く余裕がなかった。下村さんのnoteも消えた。真意も理由も何も分からないが、ジソンシンという単語がついたTwitterとInstagramだけは下村さんが残していてくれているのが救いで、優しさだと思っている。コンビ仲の良かった下村さんが酒井さんの写真を載せてから何の音沙汰もないSNSを今でも時々眺める。今日も消えてないと思いながら。
全然、今でもジソンシンが夢に出てくることがある。新たな環境で元気に働いてる下村さんとか、ZAZAHOUSEの出演情報にジソンシンの名前が載ってる姿とか、単独ライブ後にロビーに出てファンへの対応をしてくれた酒井さんの姿とか。
ドルオタを卒業したので、何かを買う時に「推しのメンカラにしちゃお」という思考が無くなった。なのにここ数年は茶色のものを買うことが増えた。アイドルユニット「Berry better!!」で下村さんが担当していた色だった。
この前久しぶりによしもと漫才劇場に行って、大阪の友人たちと思い出話をしてきた。ライブ中だったため誰もいないロビーを見つめながら、単独ライブの後にロビーでファン対応をしてくれた二人の姿や、花が置かれていた場所や、時折流れてくる所属芸人の出囃子の中に入っていた「ファンキー・モンキー・ベイベー」や、所属芸人の写真が芸歴順に並んでいる看板を見ながらどの辺にジソンシンがいたかを思い出していた。てか今祇園が上から三番目とかなんだね  オバサン時間の流れが早くてビックリして泣いちまうよ

この選択の理由は本人のみぞ知る話だし、伝えたくない(事情があって伝えられない)(伝えない方が良いと思った)ならそれが全てだし、なにも狡い手を使ってまで理由を知りたいとか教えろ!ムキー!とか他の芸人さんのところまで行って質問してまで知りたいとか言ってんじゃない。質問もコメントもしたことない。他の人が配信とかSNSでコメントしてるのを見たことがあるけど、その人明らかに困ってたんだもん。
けど、たまに「何でもするから教えてほしい」と思う日もある。もうこんなのは、日による。
たまたまそんな日だったので、こんなnoteを書いてしまった。
若葉のころのYouTubeにて、酒井さんと古田さんがそれぞれの今までのコンビ歴を語る大長編の動画でも、下村さんの現在に関する話も解散に至った理由もひとつも語られることはなかったので、そういうことなのだと、今度こそしっかり諦めがついている。
けど、マジで今の今も時々「些細すぎることでもいいから教えてほしい」と思う日がある。生きていればいいから、なんの仕事をしてるのかとか、何で芸人を辞めようと思ったのかとか、そんな話はしたくないならしなくていいから。
下村さんの文字と言葉で発されることがなかったことで、諦めきれもしないのに解決策もない、成仏しきれなかった地縛霊のような時間が続いている。どう考えても何かあったとしか考えられないケースだったから、あらぬことばかり考えてしまう。下村さんは芸人を辞める最後、「楽しかった」とか「芸人やってよかった」などと思って終えられたのだろうか。なんかもう、それだけ知れたら私も成仏するつもりである。彼らを応援していた人間の一人として、もっと行けるライブや伝えられた応援の言葉があったのかな。でも本当は逆にそれが要らなくてそれでこちら側が傷つけてしまったことがあったらどうしよう。自分たちにも何か責任があるのかもしれない、と嫌な邪推までしていた時期がある。

マンゲキYouTube◯周年動画のネタが消えてないこと、これだけが唯一の救いで、二人が楽しそうにネタをする動画はもうここにしかない。録画してある2021年の水曜日のダウンタウン、30-1グランプリは松本人志やくっきーさんを唸らせるという何とも誇らしく今でも最高な思い出だが、なにしろ30-1。30秒しかないもので、あんな面白いネタのド頭しか見れないのがちょっと寂しい。30-1グランプリで披露したネタが、ジソンシンを愛する者が集うであろう単独ライブでオチに恐怖の意味合いの悲鳴を上げさせて終えた伝説的なネタだったわけ。あれはオチまで見てほしいし、オチの謎を教えてほしい。後もうすぐParaviでの配信期限が多分終わる。また一つ、なくなる。


でも、今の人生を私は割と気に入っている。
こんなことを言える日が来るとは、当時全く思っていなかった。いつまでそんな気持ちが続くのか、こんな生活を続けられるのかは分かんないけど、今の人生はそこそこ楽しいなと思っている。
ジソンシンが解散するちょうど一年前くらいに、数年応援していたV6の解散発表があった。あの日から少しずつ人生がつまらなくなって、いわゆる「推し活」に嫌な影がつきまとって、ジソンシンのことでさらにそれが顕著になって、約2年ほどは推しを応援するという行為に変な義務感と疲労感があった。
今も懐かしむように言うことがあるけれど、「2018~9年に戻りたい」と毎日言っていた。自分がお笑いに本腰入れてハマるタイミング。誰の解散も生身で体験していない頃。「解散」とは、歴史の中の話であった頃。
ちょっと今の人生が楽しくなったから、その時に戻りたいと思う日がかなり減った。
好きな芸人さんがめっちゃめちゃに増えて、「今日同じ時間に三つも行きたいライブがある!身体分裂しねえかな!」とかほざきながら、芸歴も事務所もバラバラな芸人さん方を応援して、仕事をぶん投げて定時にライブへダッシュしたり、通勤時間にラジオを垂れ流して、フォロワーとお笑いの話をして、Twitter廃人になって(ごめん、これは2019年以前からの話でした……)間違いなく楽しい。推し活に変な義務感を抱いていた頃からすれば信じられないくらい強くなった。どんなに好きな推しのことであっても見たくない媒体は見ないし興味無いものは買わないし合わねえ人とは話を合わせようと思わないし。今の推しに強くしてもらえている。
だけど、どこか今の生き方の根本には「後悔する暇を与えないように」「なにか辛いことを考える暇もないように」という思想がある気がする。じゃないと説明つかないスケジュールで生きている日が度々ある。なんていうか、一度走るのを辞めたら二度と走れない気がするから。1ヶ月ライブ行くの辞めたら翌月帰れねえかも。ライブの空気はいつも優しいけど、自分のフィジカル的に。

それこそジソンシン解散したては「大丈夫ですか?」「死なないでください」と優しい(優しいという話ではない)お言葉を掛けてもらえることがあったので、それに比べれば今はそんなこと聞かれない平和な生活。だからといって解散に耐性がついた訳ではなく。寧ろ拒否反応しかないのだが、あの頃の私が想像もできない生活をしている今。何があるか分かんねえな、人生。


思い出と感情しか詰まっていない、何も生まないnoteになってしまったが、ちょっと熱量の高い日記程度に思って貰って。ここまで読んで頂いたのは申し訳がないね。そういないだろそんな人。
意外と解散って、何年経ってもこの熱量で思いを抱えてるオタクはいるんだよ〜ってやつ 他のコンビでも、もっと前に解散されてるコンビでも、そうなんじゃないかね こんなにキモいnoteを書いているか書いてないかはまた別の話だよ
広いインターネットの海の中で、また誰かとジソンシンの話が出来たらいいな

(売れたらブログを消すと公言されていたヤーレンズを好きになるにあたり、消される前にコソッとブログを漁り、一番古いものから見ていた。楢原さんと出井さんがコンビを組む前の貴重な時代の話、大阪時代の話、色んな記事がある中、出井さんの過去のブログに下村さんの姿があった。出井さんもブログを消すことがあったら、またジソンシンという単語が消えてしまうのかなと思うと、何重の意味でさみしい まあ本人のブログだし口出せないんだけど、さ でも今の今は見れるから ありがとう )



こういうnoteは最後にする予定なので、思い出を載せさせて


初めてジソンシンを生で見た日 初めて大阪に来た日 初めて芸人さんの単独ライブに来た日 初めてのマンゲキ



どこかの単独での限定ガチャポン  独特かつ非常にユニークなタッチで商品化に伴い著作権的に問題がなかったと大人からお達しがあった下村さんのイラスト



18の風船の写真なかった
風船の差し入れしてみたかった人生



単独後にロビーでお客さん対応をしてくれるジソンシンと撮った写真
下村さんはこの日、私が関東から来て、ジソンシン単独で仲良くなった関西のお友達と一緒に来た話をしたらすごい笑顔で「素敵なご縁ですねえ〜!」と言ってくれた  私も今でもそう思ってます



ジソンシン単独の幕間Vで、北加賀屋で写真を撮り合いいいね数を競うバトルをしていた時の映像を見て、行った
私は大阪、未だに難波と梅田、北加賀屋しか行ったことありません 梅田もなんかジソンシンの営業見に行った気がするな  じゃんけん大会したよね ジソンシン


酒井さんと撮らせて頂いた時の
緊張して出したカメラアプリで広告が出て焦って「すいません別のカメラにします」って言ったら「二番手のカメラですか」と言われた  そうです  当時現役バリバリ女子大生だった私はUlikeを使いたかったけどSODAにしたのです 時代!


ずっと楽しかったし今でも楽しい思い出しか出てこない


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