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「チャーター機」に頼った田中角栄はなぜ敗北したのか 岸田自民党の総裁遊説に見た「苦戦のジンクス」

令和初の衆議院議員総選挙が行われている。国政政党の党首たちは12日間にわたった選挙戦の期間中、全国各地をくまなく行脚し、それぞれが目指す「国のかたち」を国民に直接訴えた。

大手新聞各社の情勢調査によれば、政権与党の議席減が予想されている(※10/31朝時点)。原油価格の高騰に伴う生活不安や出口の見えない経済不況、「金権政治」に対する批判、そして「一強」のおごり……。空前絶後の人気を誇った田中角栄も首相時代の47年前、これらの課題に悩まされ、1974年(昭和49年)の夏に行われた参院選をきっかけに退陣に追い込まれた。

「選挙の神様」として語り継がれる宰相は、なぜ派手に転んでしまったのか――。

当時、角栄は政権与党が持つあらゆる資源を総動員させて反転攻勢を仕掛けたが、ことごとく裏目に出てしまった。満身創痍で挑んだその全国行脚の足跡を40年後に丹念にたどった選挙ルポーーというものを私は書いたことがある。月刊「文藝春秋」2014年8月号に掲載された「『選挙の神様』角栄が挑んだ史上最大の作戦」が、それだ。

公示前から「苦戦」がささやかれる中、田中角栄はヘリコプターをチャーターし、無理に無理を重ねて全国各地の激戦区を行脚した。移動時間を短縮するには公共交通機関では頼りにならないというわけだ。焦りのあまり「奥の手」に出る姿は、2009年衆院選の麻生太郎、2010年参院選の菅直人、そして、今回の岸田文雄の3人の総理にも当てはまる。麻生、菅の2人は、大きな敗北を喫した。(参考:毎日新聞10/28「岸田首相に焦り? 「奥の手」チャーター機で衆院選接戦区を遊説」

これからご紹介する作品では、筆者である常井健一が1974年にタイムスリップして至近距離で見たかの如く、関係者たちの記憶の中に残る田中角栄の背中を追いかけ、知られざる素顔に迫っている。大注目の衆院選が終わった今、異色の「密着ルポ」をアンコール配信する。(文中敬称略、約1万字)

※この記事は、月刊誌「文藝春秋」2014年8月号に掲載されたレポートに加筆を施しました。証言者の年齢や肩書き、政治的立場、組織名などは、特に記載がない限り、「14年7月時点」のものです。なお、写真の無断転載はご遠慮ください

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◆「選挙の神様」は、なぜ総力戦で敗れたのか

 今からちょうど40年前の1974年初夏、田中角栄は総理就任から2年の節目を前に、参院選(6月14日公示、7月7日投開票)に臨んでいた。

「来るなと言われても私は行く!」

 そう叫びながら全国を回り、2年前に後退した衆院選時よりも4倍多い、150万人の聴衆を集めたという。

 自民党は参院過半数維持のため、改選議席130のうち63が必要だった。ところが、投票率は史上最高の73%、結果は62に終わり、与野党逆転が現実味を帯びた。党内では三木武夫や福田赳夫は閣外に出て角栄批判を大展開。田中内閣の命脈は尽きた。

「選挙の神様」と呼ばれ、空前絶後の人気を誇った角栄が、なぜ総理のクビを賭けた総力戦で敗れたのか。

 これは、いまだに答えが出ていない戦後屈指のミステリーなのである。

 角栄の評伝は枚挙に暇がないが、大半が「五当三落(5億円集めた候補は当選、3億円では落選)」という言葉を用いて異常な金権選挙と記すのみだ。

 あれほど角栄の表と裏が露わになった出来事はないと、あの蒸し暑い梅雨の選挙戦を知る党関係者は口を揃えるが、手掛りとなる資料は手元に残していない。

「田中さんは特異なキャラクターであったが故に誤解が複雑に被せられていて、未だに実体が伝わっていません」

 衆院議員の中村喜四郎(65)は言う。

 76年、衆院旧茨城三区から27歳で初当選した中村は、田中派のプリンスとして頭角を現し、宇野宗佑内閣で戦後生まれ初の入閣を果たした。

 ところが、94年、ゼネコン汚職事件に絡む斡旋収賄罪で逮捕。上告棄却後、2003年に失職・収監。だが、服役中を除けば、初当選から今まで実に12戦無敗なのである。

 その類まれなるしぶとさは、ロッキード事件で逮捕後もトップの得票で5戦全勝した角栄を髣髴とさせる。

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◆〝無敗の男〟が初めて語った

 事件発覚から20年も報道機関の取材を避けてきた中村が、今回(※2014年6月)初めてメディアの単独インタビューに応じた。「無敗の男」の異名を取る角栄最後の弟子が、話を続ける。

「現在進行形の政治家である間は過去を語りたくなかった。罠にかかった、ああされた、こうされた、と言い訳ばかりを聞かされてはみんなうんざりするでしょう。田中さんも同じで、一切弁解しなかった。だから有権者は最後まで応援したし、亡くなって20年経った今でも根強い人気がある」

 中村は大学卒業後、田中事務所の門を叩く。そして40年前の敗北劇を傍で見ながら、ある鉄則を学び取った。

「『選挙の神様』だとリアルに感じたことはありませんが、とにかく『基本』を訴える人でした。あまりに単純なこと、学ぶまでもないことを気が遠くなるほど丁寧に続ける。それを聞き流した人は政治的に恵まれぬまま終わり、盗み取ろうとした人は選挙に勝ち抜いて、表舞台に生き残りましたよ」

◆「選挙はタイミングだ」

 74年6月6日朝、党本部の一室。角栄は全候補者に総計6億5000万円の公認料を手渡す前、訓示を垂れた。

「選挙がスタートする時には票読みを教えます。私は25年もやってきた選挙の商売人だ。誤差は2%しかない」

 この決起大会に集められた95人中、現在も永田町に生き残るのはただ一人、参院議員の山東昭子(72)だ。

 選挙の1年前、衆院二回生の渡部恒三(82)は、一度だけ食事したことのある山東に声をかけた。幹事長の橋本登美三郎からこう迫られたからだ。

「総理が今回の全国区は『女』だと言うんだ。女を探すなら、渡部君しかいない。そう、みんなが言っている」

 人気投票に似た全国区では、前回、キャスターの田英夫(社会)が1位、歌手の安西愛子(自民)が2位だった。組織力で革新勢力の後塵を拝する自民党は、浮動票の受け皿を求め、今回も有名人を担ごうとした。渡部は、その目玉候補として若き知性派女優の山東に照準を定めたというわけだ。

 数日後、山東は角栄と向き合った。

「どうだ、政治をやってみないか?」

「政治学すら学んだことありません」

「どの道だって最初からプロはいないよ。しかし、選挙はタイミングだ」

 山東は出馬を決断したが、「選挙の商売人」の角栄は知名度だけで勝てるほど選挙は甘くないと知悉していた。

 だが、山東は芸能活動を続けた。

 NHKアナウンサーの宮田輝や女優の山口淑子も出馬すると聞いていたが、かたや紅白歌合戦の司会を射止め、こなた「3時のあなた」の司会を続けているではないか――。

 後日、山東は角栄に呼び出された。

「君の演説は女優が喋っているようにしか聞こえないぞ。早く引退して候補者として、国民に語りかけなさい」

 その話を信じ、山東は引退した。

 中村の言う通り、角栄は自らの流儀に従う人間には支援を惜しまない。陣営に副幹事長の竹下登や渡部を指南役として送り込み、角栄の署名入りで彼女を宣伝する葉書の束も用意した。

 さらに、彼女のお披露目も設けた。

◆経済界の人と金を注いだ

 パタパタパタパタ……。

 選挙戦序盤、茨城県日立市に2機のヘリコプターが轟音と共に現れた。

 野球場の客席を埋める5000人が一斉に見上げると、アナウンスが響く。

「ただいま総理が到着しましたー」

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 角栄は街宣車の上で山東を隣に立たせ、あのダミ声でがなり立てた。

「戦時中、働き口がなく、海外へも飛び出した。しかし、戦後30年、働きたい者は職にありつけ、月給も上がったじゃないですか!」「社会、共産は公害などを出す工場を潰せと言うが、働く所がなくなったらどうする!」

 白い手袋で握り拳を作り、激しい手振りと同時に足を勢いよく踏む。街宣車は縦に揺れ、聴衆は圧倒される。

 1時間以上の独演会が終了すると同時に万歳三唱が巻き起こる。その中を角栄は得意満面で退場していく。

 しかし、舞台裏の角栄は恐ろしく冷静に票読みを周囲に説くのだった。

「集まった人の3分の1は我が党の支持、あとの3分の1は浮動票、残りは、まあ、反対票でしょうな」

 実は、聴衆の大半は電機大手・日立製作所の社員であった。なぜなら、社を上げて山東を応援していたからだ。

 当時、狂乱物価の影響などで内閣支持率は低迷。そこで角栄は奇策に打って出た。幹事長名で2000社に支援を要請し、角栄のコネで就職した企業人で作る「誠心会」もフル回転させた。そして、組織が脆弱な候補者に、経済界の人と金を注ぐ戦略を実行していく。

 前出の宮田にはトヨタ、元全日本女子バレー監督の大松博文には東芝や出光など、山東には日立の他、コカ・コーラ、ヤクルトが全面支援した。

 一方、公示直前まで芸能活動を続けた山口には大企業を付けなかった。

「やっぱり足りない。日程表出せ!」

 二十数年後に「参院の天皇」と呼ばれることになる村上正邦(81)も、角栄の忠告に背いた一人だ。

「キミ、1万5000票足りないよ!」

 全国区の新人候補だった村上は山東と並んで座り、そう説教を受けた。それでも、宗教団体・生長の家の票をもう一人の候補者と折半し、当選ラインとされた55万票は取れると高を括っていた。一方の角栄は「投票率が上がるから当選できない」と踏んでいた。

「やっぱり足りない。日程表出せ!」

 公示後も、角栄は各地遊説中の村上を探し当て、電話をかけ続けた。

「ところで、福岡にはいつ入る?」

 それは、福岡出身の村上に九州電力の支援をつけようという意味だった。

 だが、自民党内で田中派と対立する福田派に属していた村上は派閥の体面を気にし、折角の申し出を断った。

 最終的に山東は120万票を獲得し、全国区(改選議席54)の5位で当選、山口はギリギリの46位。村上は2万票ほど足りず、落選した。

 全て、角栄の言った通りとなった。

 精度の高い情報こそが「選挙の神様」の力の源泉だったが、それはインテリジェンスの賜物でもあった。

 かつて、党本部7階には畳の間があった。選挙が近くなると、そこで他言無用の謀議が繰り広げられたという。

「各候補にABCでランクを付ける作業を少人数でこっそりと行うのです」

 その頃、幹事長室に詰めていた元党職員の奥島貞雄(78)はそう明かす。

 あるベテラン党職員が全国を歩き、候補者の人脈や組織、評判を調べ上げ、当落予想を弾き出す。その極秘資料は幹部向けに数部だけ複製された。

 その党職員は、兼田喜夫という。兼田は歴代総裁の中でも角栄には特に入れ込んだ。戦時中、満州で「田中二等兵」の素質を見込んだ中隊長が、彼だったのだ。戦後、2人の立場は逆転したが、無礼講で酒を飲む関係は続く。

 40年前から党の専属カメラマンを務め、当時の密着写真をまとめた著書『保守の肖像』(小学館)がある岡崎勝久(70)は証言する。

「兼田さんはあの参院選中も遊説先にひょっこりと現れて、角さんの袖を無造作に掴んで、聴衆に混じる戦友の元まで連れて行く姿を何度も見ました。中隊長と二等兵の関係、そのまんまでしたよ」

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◆新兵器はヘリコプター

 角栄は「上官」の後方支援を受ける一方、自ら編み出したスタイルで結党20年来の慣習を壊した。

 当時の発表によると、公示前の5月11日から7月6日までの約2か月、4万キロを移動し、46都道府県、147か所で演説した。昨夏の参院選で安倍晋三が回ったのが2万キロ、36都道府県だから、いかに並外れた作戦だったか想像が付くだろう。

 新幹線は東京~岡山のみ、高速道路は東名と名神しか開通しておらず、北海道と四国は本州とつながっていない時代である。飛行機の場合は、特別機をチャーターしていた。空港から会場までは交通規制を敷かねばならない。

 そのため、佐藤栄作時代までの総裁遊説は1日1か所1回が限界だった。

 その壁を打ち破った「新兵器」は、山東の応援にも登場したヘリである。

 計画を立てたら、警官の動員も少なくて済み、2年前の衆院選よりも4倍も多くの演説がこなせるではないか。

「それと、ヘリを使ってまで勝たせたい候補なんだというメッセージにもなる。リーダーの必死な姿を見せれば、候補者も支援者も自分の能力をギリギリまで引っ張り出そうとする。そういう田中イズムを全国展開して流れを作ろうとしたのです」(前出の中村)

 さらに、角栄たちが選んだのは、並みのヘリではない。一度に大人数を運べる大型の双発機「バートル」だった。民生用の同型機は日本に3機しかない中でなんとか2機所有する岐阜の業者を探し当てたのだ。

 党本部から打診を受けた、業者側の担当者である長久栄夫(72)は語る。

「当時は発電所の建設ラッシュで、送電鉄塔用の巨大な資材を運ぶのに大忙しでしたので、急に2機欲しいと言われて困ったなあという印象でしたね」

 前代未聞の試みが始まった。殺風景なキャビンに絨毯を敷き、航空機用の座席を取り付けた。25人乗りの豪華サルーンに化けた2機は、総理用と番記者用に分けて飛ばすことにした。

 1日の利用で会社員の平均年収を超えるため、野党は槍玉に上げた。

「それでも総理が行くと決めたら、当時は誰も逆らえませんよ」

 と、党に作られた総裁遊説班の副班長だった森英二(73)は述懐する。

「田中さんは、飛行中は常に下を眺めていました」

◆最高権力を監視するはずの新聞記者たちも……

 最新鋭のヘリを単なる移動手段で終わらせないのが、「選挙の商売人」たる所以だ。

 前方5列目の総理席にある窓だけが半球状になっていた。そこに首を突っ込めば、大パノラマが望める。窓に釘付けになった角栄は指を差し、「ここはアイツの選挙区だ」と呟く。河川、道路、鉄道、用水路、工場、学校などを上から眺めれば「データ」が浮かび、現地の実情が一目瞭然になるのだ。

 そして、演説会場に着くと、

「空から見るとこの町が一番良い!」

 と唱え、聴衆の愛郷心に寄り添う。

 世代を超えた娯楽にもなった。ヘリには少年たちが物珍しげに群がった。

 鳥取の遊説中には、地元の女子高生が「会いたい」と申し出てきた。

 おかっぱ頭の15歳はお小遣いの大半を費やし、角栄の写真が載った新聞や雑誌を買い集め、自慢のスクラップブックを作っていた。

「これだけの資料は官邸にもないね」

 気を良くした角栄は、突然言った。

「お姉ちゃん、ヘリに乗るか?」

 鳥取から松江まで45分間、女の子は晴れて総理の傍で景色を楽しんだ。

 一方、角栄を追う番記者用のヘリでもお祭り騒ぎが繰り広げられていた。

 記者たちが演説会場からヘリに戻ると、機内の所々からダミ声が上がる。

「ソ~ウデショ、ミナサン」

「いいや、こうだよ。ン、ソウデショ」

 角栄のモノマネ大会である。最高権力を監視するはずのウォッチドッグたちも仕事を忘れてすっかり魅了され、角栄の戦略に欠かせない従順な情報源として取り込まれていく。

 こうして握手や対話を通じた「接近戦術」を採り入れる一方、その舞台を整えたのが党職員の精鋭部隊である。

 今でも自民党では国政選挙が近づくと、部署の壁を越える形で若い党職員による総裁遊説班が立ち上がる。角栄のヘリにも男女6~7人が送り込まれ、第一秘書の田中利男や官邸から来た秘書官と特命チームを形成した。

 それは、ゲリラ戦の最前線を髣髴とさせるものだ。河川敷にヘリが着陸するなり、一人は総理を会場まで先導する。一人は全力疾走で公衆電話を探し回り、党本部の司令塔に連絡する。

 その間、メンバーはトランシーバーでやり取りし、懸案事項が生じたら随行している総理秘書官を経由して「最高司令官」に判断を仰ぐ。すると角栄は細かい指示を出すのだ。

「おい、水出せ」「リポビタンD出せ」「おしぼり!」「手袋!」……。

 角栄が言い出せば、黒革のトランクから取り出す人員も一人必要になる。

「水は、瓶入りのミネラルウォーターです。それを冷やしておくために、トランクには小型のジャーが入るよう板で仕切りを付けました。銀座のカバン屋で特注したものだったと思います」(遊説班の一員だった佐野邦雄・67)

 地方の宿に着けば、遊説班は翌日の日程を党本部と詰める。ヘリが飛ばなければ、別ルートを練る。そこに、角栄が秘書官を通じて晩酌に誘ってくる。その際に嗜むお気に入りの銘酒も、事前に仕込まなければならない。

 遊説班には特製の白いブレザーが配給されたが、日が進むにつれて黒ずんでいく。それが彼らの勲章だった。

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◆顔面麻痺と下痢症

「最後まで負ける気がしなかった」

 全国で角栄フィーバーを体感した遊説班の老兵たちはそう口を揃える。

 ところが、147回分の遊説経路を丹念に調べ上げると、順風満帆ではなかったことが明らかになった。舞台裏の目撃証言からは、超人然とした宰相とは別の顔が浮かび上がってくる。

 角栄は公示日、新宿での第一声を終え、本土復帰3年目の那覇から鹿児島に回り、2日目に川内、本渡、3日目に熊本、福岡、北九州で演説した。

 その帰り際、ヘリが待機する人気の少ない広場で撮られた貴重なオフショットには、背中を丸め、オーラを感じさせない「56歳」が写っている。

 40年前、聴衆の一人としてその一枚をカメラに収めた、北九州在住の西村忠(54)は説く。

「向かって右側の目が腫れぼったく、頬が少し垂れていますよね。数年後に倒れたというニュースを見て、あの時から弱っていたのかなと思いました」

 当時、すでに顔面麻痺に悩まされていたようだ。だが、聴衆の前では「角栄」を演じ続けた。「野党が批判ばかりするから、口がひん曲がってきたよ」と笑いに替えてしまうのだ。

 角栄の秘書だった朝賀昭(71)に訊ねると、当時の体調をこう明かした。

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