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兎、波を走る(観劇感想)

野田秀樹の芝居を人生最初に観たのはいつだったか。確か、毬谷友子が夜長姫を演じた「贋作桜の森の満開の下」だったように思う。
幸い、夢の遊眠社は映像を多く出してくれたし、戯曲も出版されていた。
地方在住の身でも、観劇のために東京へ行くだけでなく、映像を観て、戯曲を読み漁り、野田秀樹の芝居に触れる機会は多くあった。そして
「わからな〜い!」
と言いながら、どすんと衝撃的な「印象」を受け取ることに夢中になった。

野田地図になって、自分の人生も忙しくなり昔のように観劇皆勤賞ではなくなった。
それでも
「わからな〜い!」
と言いながらヘビー級の「印象」を喜びとともに受け取った。

「兎、波を走る」は久しぶりに観た野田地図の芝居だった。そして、私は今、この芝居をどのように受け止めてよいのか戸惑っている。
「フェイクスピア」同様、実際に起きた事柄を題材としているのだが、「フェイクスピア」のラストシーンは現実世界の言葉がそのまま再現される。
そして、フィクションの言葉はまことの言の葉には叶わないという、フィクションの作り手としては思い切った戯曲で、その作家の覚悟に圧倒された。
「兎、波を走る」も実際の事件を題材としている。この芝居にもその事件で実際に発せられた言葉や場面が詳細に表現され、実在の事件関係者の実名も出てくる。
夢の遊眠社時代から、質量がないような別世界で繰り広げられる舞台上の世界は、私達の現実世界と仄かに通じているようで、その別世界と現実世界の混じり合う塩梅に今まで私は酔っていたのだ。
「フェイクスピア」ではラスト15分のまことの言の葉で題材が明かされ、そのまま怒涛のように終わる。

では、これは。
上演開始かっきり1時間後に実際の事件が明かされ、もう、それ以降の1時間は私は答え合わせを始めていた。
アリスはもう私にとってアリスではなくなり、アリスの母もアリスの母ではなくなった。実際の事件の人物としか見られなくなってしまったのである。
そして、高橋一生演じる脱兎が、事件の関係者の実名を名乗った時に、答え合わせは終わった。
そして涙ぐみながらカーテンコールに拍手を送った。
その涙は舞台上の世界に酔った涙ではなくて、事件関係者への同情からくる涙であった。
舞台の上の幻想世界と私達の現実世界に両足で立つ芝居というより、現実世界に軸足を置いたそのむき出しの舞台の読後感(本ではないのでこの言葉は適切ではないが、適当な言葉がないので「読」後感」としておく。)は、
「わからな〜い!」
ではなく
「分かる…。」
であった。
重量感のある「印象」ではなく、重量感のある「事実」に打たれる。
そのことに、私は今もこの芝居をどう受け止めてよいのかと戸惑っている。








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