西南戦争とエンフィールド銃
武士が支配する時代が長く続いた日本では、幕末開国によって一挙に西洋
の先端技術が入ってきた。それまで刀剣や弓矢で武装していた武士も一大改革を迫られたのである。
そしていち早く西洋の銃や大砲を導入した薩摩長州佐賀藩などに遅れをとった幕府軍は敗れ去り、歴史の表舞台から消え去ったのである。
だが薩摩長州を中心とした新政府は、それまでの武士の特権を廃止したことによって内部分裂を起こし始めた。
大久保や木戸たちの武士階級を否定する派と西郷隆盛のような武士をこれまで通り、守っていこうとする派の対立である。
西郷と大久保はついに決定的に対立し、西郷は下野して鹿児島に帰ってしまう。西郷自身はのんびりと畑を耕して暮らすことを望んでいたようだが、周りは西郷をほおっておかなかったのだ。
鹿児島に帰った西郷は若者たちの教育のために私学校を設立したが、廃刀令や秩禄処分をきっかけに各地で武士の反乱が連続し、この影響を受けた若者たちの間に政府に対して、物申す雰囲気が高まってきたのである。
大久保はそんな不穏な動きを察して、鹿児島にひそかにスパイを送りこん
で動向を探らせたのである。また同時に鹿児島にあった兵器庫から、武器弾薬を運び込んで、西郷たちの手足を封じようとした。
さらに西郷の暗殺計画が発覚するに及んで若者たちの怒りは爆発、こうなると西郷すらこの動きは止められず西南戦争が勃発した。
西南戦争は日本最後の内戦だったが、非常に激しい戦いとなり、新政府軍は6400人、薩摩軍は6200人が戦死している。
そして勝敗を決したのは政府軍の補給力や通信力などで上回ったことも
あるが、銃の性能の違いも大きかっただろう。
新政府軍が後装式のスナイドル銃を主に装備していたのに対して、薩摩軍
は前装式のエンフィールド銃を装備していた。エンフィールド銃はイギリス
で開発され命中率も高く射程距離も長いが、いかんせん遊底がなく銃口から
弾をこめなくてはならない。
そのためスナイドル銃のような後装式とは、装填スピードがかなり劣るた
め銃撃戦となると不利である。薩摩では自力でスナイドル銃の実包を製造す
る設備があったが新政府軍に奪われたことで、旧式のエンフィールド銃で戦
わざるを得なかったのである。