「一億白痴化」の元の論評を読む

 かつて「一億総白痴化」という流行語がありました。

一億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。ただし、「総」を付け加えたのは、小説家の松本清張である。

一億総白痴化 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

 「一億総」の響きから、戦前戦中の日本の軍国主義的・集団主義的な事が再度起きるかもしれない懸念などや、言葉のインパクトの強さもあって、今でも何かしらのメディアに対して何か思うときに使う人がいたりするかもしれないような、そういう言葉です。

 でも、「白痴」の言葉の意味があまりに強すぎるのもあってあんまり今の時代言い辛い言葉ではあるんですが、それくらい言いたくようなマスメディアの偏向的なものがあったりもするこのご時世。
今なおもというか、今だからこそ、この言葉の出た論評をよく考えてなければいけないのではないか、と思うわけです。

 適当なあれこれはおいといて、要は自分がその言葉の出た文脈などをちゃんと見てみたいってのがあっただけです。
言葉だけ一人歩きしてる状態でしょうから。


週刊東京 1957年2月2日号


もともとは『週刊東京[注釈 1]』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。

   テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。
   — 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より

この『一億白痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白痴化』である。

一億総白痴化 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

 と、あるように元々の論評は週刊誌からで、
その週刊誌というか『週刊東京』が今では国会図書館のデジタルコレクションにあるので、読もうと思えば国会図書館の端末で読めるんです。

『週刊東京』3(5)(72),東京新聞社,1957-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066
公開範囲 国立国会図書館内限定
https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066/1/12

 目次のデータだとその『言いたい放題』ではなく、この論評自体の題名になってます。

時評・あげて〝お貸下げ〟時代 / 大宅壮一/p23~23

週刊東京 3(5)(72);1957・2・2 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 『言いたい放題』ってのが連載自体のタイトルで、回ごとにタイトルが違う状態で、まあそれ自体はどうでもいいんですが。

それで、この論評の題の意味は何なのかというと、
当時皇太子を中心とした新春座談会があり、それは元々四十分だった内容を宮内庁で二十五分に編集したものが各テレビ局に"お貸下げ"されたというので、それは極度に修正した写真をそのまま掲載しろというのと同じだ、って話から始まってるんです。
 皇室の写真も、富士山の写真も、南極の写真も、どこも同じようで競争も何もないだろう
競争なくしてジャーナリズムはなりたたないのだ』、と。

つまりは、元素材渡されてそこから編集して各社の個性を多少は出すとかでなく、そのまま同じのを渡されて皆同じのを使うようなのはどうなんだというようなこと言ってたんです、大宅壮一は。

 そこから美空ひばりが塩酸かけられた事件の後、頭に包帯巻いてるひばりの写真が出たものの各社同じで、それはひばりの方で特定のカメラマンに取らせたものを"お貸下げ"したものだったそうで、『こうなるとひばりも皇室なみである』という件が入り(だからこの論評、副題に「―ひばり、"お写真"は皇室なみ?―」と書かれている)、

 今日のマス・コミの在り方を見るに、大衆の喜びそうなものには、何にでも食いついていく。そこには価値判断というものはない。量があって質がない。
 この傾向は新聞、雑誌、放送、テレビと、より新しいものに進むにつれてますます激しくなる。

週刊東京  1957年2月2日号 p.23
『週刊東京』3(5)(72),東京新聞社,1957-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066
https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066/1/12

 と、書かれた後に度々引用される「一億白痴化」の件になるわけです。
引用部分だけでも十分意味合いは通じる批判にはなるんでしょうけど、流れとしてはそういう感じでの言葉だったんだと。

 近ごろ毎日ダイヤルをどこにまわしても、三橋美智也、小坂一也、島倉千代子の声が流れて来ないときはない。これも見方によっては、一種の"お貸下げ"である。

週刊東京  1957年2月2日号 p.23
『週刊東京』3(5)(72),東京新聞社,1957-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066
https://dl.ndl.go.jp/pid/3554066/1/12

 そのあとにこんな感じなことも書いているんで、論評が問題としたのは何も考えずに素材もらって垂れ流したり、同じ芸能人ばかり起用するメディア側に重点があったんでしょう。
見る側については特に何も書かれてませんから。
でも、「一億」と「白痴」の言葉の強さで思ってた以上の事になった、というイメージです。


この造語によって大宅は日本の「テレビ時代の初期においてその弊害を看破した」と評されている

一億総白痴化 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

 けど、実際のとこは引用部分だけ語られているというか、
その部分だけ本当に一人歩きしてる感があって、悪い意味での形骸化しちゃってるなあとも思うわけです、自分は。



 これらの言葉は今でも響くんでしょうか。
どうなるんでしょうか。
みたいなかんじ。

どうにもならないじぶんだからかってにおもうだけです。ふげ。



 東京新聞や放送朝日の方も見てみたい気持ちはあるんですけど、めんどくさいのであしぶみ状態。
特に新聞はマイクロで見るののがちょっと怖くてアレ。
いろいろあれ、おれがあれ。


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