見出し画像

公立の教育を考える

我が子が小学生になってから考えていること。

0歳児クラスから保育園で育った我が子の小1の壁を心配して、年中、年長と幼児教室(ドラえもんのやつ)に通わせていた。
通っていた認可保育園は園庭が広くてのびのび、外遊びや食育に力を入れていて先生たちの雰囲気もよくとてもよかったけど、保育園なので勉強系(読み書きなど)はなし、さらには給食もおなかがすいた子から外遊びを止めて中に入ってランチルームで食べる(一斉いただきますではない)スタイルだったので、小学校に入ってからみんな一斉に椅子に座って机に向かうスタイルになじめるのか?万が一授業中にうろうろするような子になったらどうしよう?という不安があった。
そこで、週に一回の集団教育お試し体験、と思っての幼児教室だった。

幼児教室では、1クラス10人で1回60分ほど、2年間でひらがな、カタカナ、数字、たし算、ひき算をマスターし、音読や人前での発表も上手にできるようになった。
集団教育で先生の話を聞いたり言うことをきいたりするのが問題なくできる子だとわかって一安心だった。

そして迎えた小学校生活。
我が家は学童っ子、帰宅は19時を過ぎるので家で勉強をみてあげる時間はあまりとれなかったけど、年長までの貯金と本人のがんばりもあって無事に乗り越えた小1の壁。

小学校に入るまで、我が子が学校に慣れるか、授業についていけるかばかり気にしていたけど、無事に1年生を終えて感じるのは、小学校ってこういうところだったな…いろんな子がいるんだよな…という懐かしさだった。

月に1回の土曜登校日は親や地域の人が自由に出入りできて授業風景を見られるようになっているんだけど、本当にいろんな子がいた。
1学期、我が子の前の席だった男子。授業中椅子の上に膝立ちするのがクセで、立ってウロウロすることも。
3学期、我が子の隣の席になった女子。3学期になってもひらがなが書けず、隣の席の我が子や後ろの席の子が連絡帳書くのを手伝ってあげた。
この2人含め、5人が2学期から通級になったと知り、手厚い指導体制にビックリした。
早くから個々に合った教育をして遅れないようにする、公立の教育全体の底上げがしっかりしていて驚いた。
2年生からは、算数が習熟度別クラスになり、3クラスを4クラスに分け、1クラスは通級、2クラスは通常、1クラスは応用にするとのお知らせもあり、応用クラスまで展開されることにもすごく驚いた。ありがたい。

でも、ここで感じる違和感はなんだろう?

おそらく、算数が得意な我が子が2年生からは算数の苦手な子の実態を知ることなく過ごすことに対する違和感。

わたしは田舎育ちなので、小学校も中学校も、勉強が苦手な子と一緒に過ごしてきた。勉強が苦手な子には得意な子が教えてあげる、それが当然だと思っていた。
でも、東京という場所のせいなのか時代のせいなのか、我が子はそう育つわけではないことになる。
まだ2年生なのに、算数がちょっと得意な子だけのクラスで勉強をすることになる。つまづかずにいけば、この先もずっとそうなのかもしれない。
勉強が苦手な子のフォローを勉強が得意な子がするのは負担なのかもしれない。先生の仕事なのかもしれない。
苦手な子は少人数でじっくり教えてもらえるし、得意な子は応用問題に取り組めるし、Win-Winなのかもしれない。

でも、それが本当によいことなんだろうか、公立の教育として。
勉強が苦手な子がいて、苦手な子もできるようになるためにがんばっていることが我が子の視界に入らなくなるのは、長い目で見てよいことなんだろうか。

世の中にはいろんな人がいてみんながんばっているけどできる人とできない人がいる、という理解に辿り着いてほしいけど、今の公立の教育はそういう風にはできていないんだろうか…

以上、コロナ禍の中で考えたことでした。