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朝比奈まふゆへの『好き』を紐解く会【プロセカ】

数多くのキャラクターが存在する『プロジェクトセカイ』だが、中でも特に気になっている人物、それが朝比奈まふゆだ。
推しといえば推しなのだが、真っ直ぐに「好き!」と訴えられるようなストレートな愛でもない。気がついたら彼女を目で追うようになっていた。基本自分は、ストーリーや外見でどのキャラクターが好きか決まるので、まふゆのように少しずつ好意が増していったケースは自分の中では珍しい経験だ。

そういった感情の理由を確かめる為、自分の持ち得る限りの力で彼女への好きを語っていきたい。これはそういう会です。

※この記事には『プロジェクトセカイ』およびゲーム『Caligula2』へのネタバレが含まれます。ネタバレを食いたくない方はブラウザバックをお願いします。

明るくユーモアもあり、誰からも頼られる優等生。サークルメンバーの中で、唯一学校にも普通に通っている。サークル活動の中でも、作詞を担当しながら様々な気遣いを見せる。一見、完璧な優等生に見えるが……?
公式HPより
公式HPより。
立ち絵や台詞など、随所に不穏さを漂わせている。

黒セーターやタイツといった装いからも大人びた色気や優等生らしい落ち着きを感じる。えっちだ。ポニーテールというのは快活な印象を与えるものだと自分は思っているが、まふゆの場合は清潔でフォーマルな印象を与えるものとして機能しているように思う。
毛束が肩に掛かっているのもえっちだ。控えめな後れ毛や、ひょこっと丸まっている前髪の癖っ毛には優等生なまふゆとのギャップを感じる。髪を耳にかける仕草が最高に似合う。自分は髪を耳にかける仕草が似合う人間が好きだ。
前髪を下ろすと一転して幼い印象を与えるところもイイ。好きになればなる程、ビジュアル面での好きも増していく。

何故朝比奈まふゆが好きなのか

先程の物言いでわかる通り、朝比奈まふゆへの愛情は、最初は漠然としたものだった。
しかし、過去のストーリーを改めて辿るうちに、一つ納得のいく結論に到達した。
朝比奈まふゆを見ていると「しんどい」のだ。
自分は、朝比奈まふゆの抱える苦しい感情に惹かれたのだと思う。

『Caligula2』というゲームに登場するキャラクターの中に、駒村二胡という人物がいる。彼女は当ゲームの中で自分が二番目に好きなキャラクターだ。
そしてこの駒村二胡、本名を駒村一織という。
彼女は訳あって、死んだ実の妹・二胡に成り代わって生きている人物なのだ。
一織のことを思うと胸が苦しい。まふゆに感じた苦しさと同じ類の感情を抱いた。
まふゆと一織、二人の共通点は、本当はちっとも平気じゃないのに、自分を押し殺して生きているところだ。
ポイントは「ちっとも平気じゃない」点だと自分は思う。見せかけの自分という鎧を纏っておきながら、彼女達は自分を諦めきれないのだ。
どこかで、もういっぱいいっぱいだ、誰かに気づいて欲しいという渇望を秘めている。
その矛盾した感情が、自分にはとても愛おしく、もどかしく、苦しみを抱えた存在として映った。彼女達のような人間は、自分にとってとても印象深く残るのだ。

プロセカにおける朝比奈まふゆとは

誰かを喜ばせたい。そんな感情から他人に支配され自分を見失い、いつしか消えたいとまで願うようになってしまった少女、それが朝比奈まふゆだ。
彼女の葛藤はとても孤独なものだ。現在はニーゴという存在によって大分支えられているが、結局のところ、自分を変えるのは自分なのだ。
まふゆが対峙することなるのもまた、まふゆという人間だ。母親に歯向かうのであれば、まふゆはまず自分と向き合う必要が出てくる。
ニーゴはあくまで、その手伝いをしている存在とでも言えようか。まふゆにとって心の安寧を見出す避難所でもあり、補助輪のような役割を担っている。

それに加えて、ニーゴと出会う前のまふゆには行き場がなかった。自分が愛する家族や友人によって、苦しめられていったのだから。だからこそまふゆはセカイを作り上げたのではないかと自分は思っている。
奏達にもそれぞれが抱える事情はあるが、それでも曲や絵という依存先があったり、楽しいを追求しようとする気持ちがあったりした。そんな面々とまふゆが違ったのは、優等生の自分しか持っていなかった事だと感じた。
それがかえって、セカイを作り出すという特別さの理由になっているのではないかと思う。業深くない?

それでも母や友人を目にすれば、すぐさまいつも通りの「優等生」に戻らなくてはいけなくなる。その閉塞感の塊のような苦しみに「なんでそんなことしちゃうんだ…」という気持ちになる。まふゆの表裏の差が自分にそう思わせる。こういう側面が、自分に「しんどい」を与える所以だ。
にも関わらず、まふゆは彼女らに気付かれない場所でもがき続けている。絶望してもまた足掻く。けれどその先に光はなく、とうとうまふゆは消えたいという願望に手を伸ばすことになってしまった。致命的な欠落を抱えているからこそ、人間らしさに束縛されているのだ。

個人的に好きなセリフ。田辺氏の演技が最高にイイ。聞いていてヒリヒリして仕方がない

純粋さ故のあどけなさ、あどけなさ故の苦しみ

朝比奈まふゆという人間の奥底にある人格は、とてもあどけないものだと自分は思う。幼稚と例えると、それともまた違う。けれど確かに幼く、純粋な存在だ。
だからこそ、セカイで奏達と対峙した際に自ら本心を曝け出したのだと思うし、奏の差し出した救いに、素直に手を伸ばせたのではないかと思う。まふゆを幼いと感じた動機は他にもある。多くのプレイヤーが気づいていることだと思うが、彼女はまだまだ、自分の本心を自覚していないのだ。目先にある苦しさへの自覚はあるものの、それの根本にはまだまだ気づけていない。絵名の家に訪れ、食卓を囲んだ際やニーゴで遊園地に出かけた時に、まふゆが抱いた違和感がまさしくそれだと言えるだろう。そしてそれが、彼女従来の純粋さへと繋がってくるのだ。

奏達と母親との間に差異を覚えるまふゆ。
「冷たい」「あたたかい」という単調な表現からも、彼女の中にある幼さを感じる。

まふゆは母親や友人を愛していると信じて疑わない。謂わば、人を憎むことを知らずに育ったのではないかと自分は思っている。母親や友人が与えてきたものを疑わず、素直に享受してきた。それは素直で純粋な子供のようなものではないか。まふゆの奥底に秘めた穢れなさも好きな点の一つだ。穢れないからこそ、根本の苦しさに気付けない。そして「いい子」なだけが必ずしも円満な幸せをもたらす訳ではないというメッセージを含んだニーゴのシナリオも堪らなく好きだ。

傷つくことを恐れた人間くささ

先程も述べたが、朝比奈まふゆというのは非常に人間くさい人物だ。
自分の感情が分からない、何も感じられないという一見人間離れした欠落を抱えるまふゆだが、だからこそ人間くさいのだ。
自分は人間くさい人間を好む傾向がある。そんな自分が特に胸打たれた、所謂刺さった部分の幾つかを貼っておこうと思う。

この時の朝比奈まふゆというのは、まだ一人で自分の感情を取り戻そうとしていた頃のまふゆだ。
一人で探そうと踠いていたのにも理由がある。それが「何かに手を伸ばして、救われた気になる。しかしそれは一瞬のことで、また絶望を繰り返す」その循環を恐れたからだ。この生々しさに自分は震えた。人間とは決して、一度の解決だけでは根本的な解決には至らない。そして「やっぱり無駄だった」という失敗経験により、解決への難易度は上がり、恐れる気持ちも肥大していく。その感情をまふゆが知っていることに、生身の人間じみたものを感じた。無謀にも一人で挑む姿は、酷く不器用なものだ。

朝比奈まふゆの成長

彼女が苦しみに踠いたままの少女かといえば、決してシナリオがそうはさせないだろう。朝比奈まふゆを観測する上での楽しみ方の一つとして、「成長する姿」がある。
ニーゴや周囲の面々と関わることで、自分か落として行った感情を拾うかのようにして変化していっているのだ。
それが顕著に現れているのはこの辺りのシーンだろうか。

神代類に指摘され、自分にやりたいことがあるのではと気づくまふゆ
奏の力になれると「あたたかくなる」まふゆ

まふゆを取り巻く人々の言葉や行動によって、成長してゆくまふゆを見守ることが出来るのも、まふゆが登場するシナリオの見所だ。まふゆがどんな感情を見つけ、揺り動かされていくのか、これからも観測していきたいと思う。

以上が、自分が朝比奈まふゆを好きになった理由だ。自分の感情の言語化に慣れていないこともあって、まだまだ書ききれていない要素が多くあるようにも思うが、ひとまずここで締めくくろうと思う。これからもプロジェクトセカイと朝比奈まふゆを楽しく味わっていきたいところだ。

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