二人の校長先生

最近のことは全然思い出せないのに、昔印象深かったことは鮮明に記憶に残っていたりしますよね。

私は中高一貫の女子校に通っていました。遠足も修学旅行もどんな時でも毎朝礼拝があるようなミッションスクール。私は無宗教ですが、毎朝ありがたいお話を聞いて、家族や友人のことを想って祈る時間は嫌いではありませんでした。たまに魂は抜けていたと思いますが。

中学校時代の校長先生はクリスチャンで、礼拝や各式典などでお話しをされる際、私たち生徒のことを柔らかい口調で「あなたたち」と呼ぶ方でした。

そういった公の場所だけではなく、学校の廊下ですれ違っても偉ぶる素振りなど一切ない方で、佇まいと言葉にいつも品がありました。

若気の至りでちょっと悪さをして校長室に呼ばれた時も、怒るとか叱るということはなく、人生をマラソンに例えたお話をしてくれたのを覚えています。

中学校の卒業式で私たちに向けてお話ししてくださった言葉も今でもぼんやり覚えています。たいてい、式典での決まりきったような言葉は右から左に抜けていくのですが、なぜでしょうね、あの校長先生のお話はスッと心の中に入ってきて、長い間心の片隅にあるような気がします。

ちょうど私が高校に上がった頃、校長先生が変わりました。それまで公立高校の校長先生をしていらっしゃった方で、クリスチャンだったのかどうかは覚えていませんが、入学式の挨拶で、私たち生徒のことを「諸君」と呼びました。

初めて聞く「諸君」という言葉。
もちろん、その言葉自体は映画や本などで知っていましたが、自分が「諸君」の対象になったのは初めてでした。

「我々」と実際に聞いたのも初めてだったかもしれません。前校長はいつも「私たち」と言っていましたので。

同じことを対象にした言葉でもニュアンスが大きく違うものですね。

私の第一印象は、「偉そう」でした。
まだ若かったですしある意味カルチャーショックみたいなものですね。嫌悪するほとでは全くありませんでしたが、卒業するまでなかなかその校長先生に親しみを覚えることはありませんでした。

言葉にはニュアンスがあります。

ニュアンスとは

「ある語・語句の持つ表面的な意味以外の、情緒的な意味や細かな意味。また、語句や文章の言外に表わされた意味や話し手の意図。」

です。

特に日本語は、同じ言葉でもニュアンスが異なるものが多いような気がします。

2人の校長先生をふと思い出し、言葉のニュアンスについて考え耽る、お盆の夜でした。

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