介護職の「イルツラ」から「ただ、いる、だけ」へ

臨床心理士である東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ』からのコラムより。

「博士号がなんの役に立たないって現実ですよね」
「ここでもハカセの労働は誰からもあてにされていない」
「僕はそういう意味では本当に役立たずで、足を引っ張ってたので、イルツラでしたね」

誰しもそうだけど、役割がなかったり、役に立っている実感がない時間というのはツライ。
職場の新人さんがツライのはまさにこれで、何をやっていいのかわからないし、役に立ってる気がしない。便所掃除でもさせられた方がマシな気持ちに、誰でもなったことがあると思う。

ましてやハカセである。それは、ツラかろう。

『簡単に整理をしておくと、彼が志したセラピーというのは何かを「する」ことで、心が病んだ目の前の患者を回復させるという行為だ。これはとてもわかりやすい。「回復する」というのは成果であり、成果があることで人は経済的な報酬を気持ちよく受け取ることができる』

これを介護職に当てはめる。

介護職もその多くの人はなにかを「する」ことが仕事だと思っている。オムツ交換、食事介助等々。

では、介護の成果とはなんなのだろう。

介護保険法的には自立支援というのは一つのそれになる。
では自立支援とはなんなのかというと、これまた深い議論になると思うけど便宜上「本人が望む暮らしの実現を目標として主体的に取り組めるようサポートすること」とする。

多くの介護職は、知らぬうちに、そして気づかぬままに、ここで大変難しい問題に直面する。

「オムツ交換をすれば、食事介助をすれば、本人が望む暮らしに主体的に向かうサポートをしていることになるのか」

まあ、なると思えないよね。私たちがトイレでおしっこしたり、お昼ごはんを普通に食べるだけで「これが実現したかった生活への道だ」と思わないのと同じ。
もちろん「普通の生活」ほど大切なものはない。
でも、仕事の成果としては、日々行うオムツ交換では「実現したい暮らしへの取り組み」を提供したと思えないから。

知識を得て技術を身につけ、人員不足に喘ぎ、5分程度の時間を無理やり削り出しながらオムツを替えて、食事介助をする。
やりながらも、事故がないように目を動かし、新人を教え、頭をフル回転する。

「私は頑張って働いている」

もちろんそう思うだろうし、働いていると思う。
東畑さんと違ってやることだらけで、イルツラになるわけがない。ならないはず。

そのはずなのに、介護職の多くはツラさを口にする。やってられない。もう辞めよう。

仕事が大変だからか。それもあるかもしれない。
でも根本は違うのではないかと思う。


『「回復する」というのは成果であり、成果があることで人は経済的な報酬を気持ちよく受け取ることができる』

もう一度書く。介護職の「成果」とはなんなのだろう。
フル回転で仕事をし、タスクをこなしているはず。それで得られている成果はなんなのか。

それが実感できないからこそ、フル回転しながら、実は成果につながることをしていないという「裏の実感」が自分に積み重なり、イルツラになるのではないだろうか。

ものすごくたくさん働いて、嫌な思いも我慢して、それでも目の前の利用者の生活が不遇であれば、それはイルツラだ。
「自分はやることはやっている」と思っていればいるほど、裏の実感との差でイルツラだろう。
これは介護職員の、ひとつの重い現実だ。


では「イルツラ」になっていない人は、なぜならないのか。

イルツラになっていない介護職だって、同じように利用者に対して介護をし、同じ利用者の生活を見ている。
その中で、ツラくならない理由は。
既にイルツラの人が、ツラくならないようになる手立てはあるのか。


私は、あると思う。

まず、そういった状況をより良くしたいという動機付けが、外的内的問わず付与し続けられている人、というのがいる。
きっかけは人それぞれだろうが、この状態の人は基本的に目の前の結果がどうであれ、常にその先を良くしようという気持ちを「裏の実感」にできるので、イルツラになりにくい。
ちなみに私はこのタイプで、いまも介護の仕事は全くツラくない。
もちろん、朝眠いから行きたくないだの今日上司に言われたことでちょっとイラっとしただのその程度のことは普通にあるが、介護がツライとは全く思っていない。

でも誰もがそんなにポジティブに動機付けができるわけでもない。

そういうときに、イルツラにならずに過ごせるひとつのモデルを、東畑さんが提示してくれていると思う。

東畑さんが語るセラピーに対するケアの考え方。

『ケアというのは「場」が主体になるものだと思うんです。居場所という言葉がありますけど、「居る」ことが可能な場所。それは一対一というよりも、色々な人がいる場所です』
『いろんな人がいて、場が出来ることによって、人はなんとなく日常が可能になっていく。そうやって、普通に生きることが支えられていく』

そうはいっても自分一人がいてもいなくても場は成立するんじゃないか。
そう思うかもしれない。
でも違う。
ひとりひとりが居てこその「色んな人がいる場」なのだから。

介護職の人が、自分もその「居る人」のひとりだと思えれば。
「ただ、いる、こと」を大切な役割だと思えれば、それはイルツラから自分を救う一筋の道にならないか。


『東畑は最終的に、ケアについてこんな定義を試みる。
「ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える」
居場所がないことは場によるケアが失われた状態である。「ただ、いる、こと」はケアだったのだ』

介護職が、利用者たちと共に過ごすその場に「居る」ということは、それだけでもケアになるのだ。

仕事として決まっているタスクをこなすことは大事だ。それで報酬を得ている。
でも、自分がそこに「ただ居る」ことの価値を、もう少し認めてあげてもいいのかもしれない。
それは自分をイルツラから救うきっかけになるかもしれない。

私は自分が居る意味を感じやすい人だ。
それは仕事の能力等とはあまり関係のないことで、自分がそこに居る善意を信じているから。
もちろんダメなところもズルいところも多々あるわけで、誰にとっても自分が居れば良いに決まってる!なんてことは思わない。
でも、単純に、自分の「善意の部分」というのは、認めている。
だから、いま居る場にとって、自分の価値を見出せる。
そして、誰にでも「善意の部分」はあると、心から信じている。


多くの介護職員が、イルツラに苦しんでいる。

そのうちのひとりでも、自分がいま居る場に、ただ、いる、だけで、ケアなんだと感じてほしい。
「居る善意」を感じてほしい。
そこから新しく見えるものも、きっとあるから。

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