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春風さん 第一話


 春風さんと彼女は呼ばれていた。僕はまだ会ったことがない彼女のことをよく知っていた。お裁縫がとても得意で赤ちゃんが生まれたと聞けば布オムツやスタイを作ってプレゼントし、美味しい梅干しが漬かったと喜んではご近所に配り歩く。母さんも散々春風さんにはお世話になりっぱなしなのよと笑いながら話していた。だから僕は母さんと電話で話すたび登場する春風さんを歳の割にはテキパキと良く動く世話好きな素敵なおばあちゃんに違いないと思っていた。 

 実家へ帰ることを決めたのは僕にとって不本意だった。酔っ払って自転車に乗ったのは我ながら馬鹿だったと思う。気がついた時僕は病院のベッドにいた。固定され動かない脚を見た時は何の冗談だと思った。記憶が全くなかった。腕から延びた点滴の管を逆行するとマジックで高山志朗様と書かれていた。高山志朗は僕の名前だ。志をいつも朗らかに持つ子になるように。父の願いが込められている。手元に置かれていたナースコールを押すのは簡単だけどなぜか緊張した。生まれて初めてのことだからかもしれない。ボタンに指を載せて力を込めるまで数十秒かかった。伺いますと小さな声がして数秒後に来てくれた看護師の山本さんは母と同じ世代くらいに見えた。山本さんは僕が自転車で自爆したことや複雑骨折した脚のことを教えてくれた。酔っ払って自転車ごと用水路に落ちたなんて恥ずかしさマックスだ。でもこれだけで済んだのは運が良かったじゃないと山本さんに言われ僕もそうかもしれないと思った。でも現実は違っていた。骨折自体は運が良かったかもしれないが、入院したことは不運としか言いようがなかった。世の中そんなに甘くない。どちらかというと現代社会は辛口だ。入院した時点で僕は会社から契約終了を告げられ無職になった。

 僕が大学四年の時だ。ある日突然世界は揺らいだ。未知なるウイルスの出現は世界中から膨大な数の生命を消し去り、日常を喪失させた。よく分からない脅威との闘いは国を世界を疲憊させた。大学は休みになりネットを駆使した就職活動は行えたが企業側に訪れた冬の厳しさは相当なもので潰れていく企業が相次いだ。新入社員の採用を見送るところも日に日に増え、それまで楽観的に、妥当な未来予想図を描いていた僕は奈落の底へと突き落とされた。高条件を求めなければどこかの正社員にはなれるはずだったが、高条件どころか、僕に残された選択はブラック企業に入るか、保障のない契約社員やアルバイト生活をするかしか残されていなかった。

 

 

 

 

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