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南平台の記憶17・社宅の電話ボックスと呼出し電話のこと

南平台の三菱化成アパートに住んでいる最中の昭和46(1971)年に、渋谷区立大和田小学校に入学した。
当時の住所録を思い出すに、クラスの半分以上の家庭には、すでに個人電話がついていたのではないかと思うが、社宅住まいの我が家の電話番号には(呼)というマークがついていた。
我が家、ではなくて、アパート全体の番号が、481−8303(呼)だった。

呼び出し電話と言うと、大家さんのうちに電話がついていて、近所の貸家に住んでいる人に電話があると、「〇〇さーん、電話ですよー」と呼ばれ、その人は大家さんの家まで走ってきて電話を取る、というようなドラマのシーンが昔はあったように思うが、社宅での呼び出し電話のようすは、ずいぶん違っていた。

社宅全体に一台の電話機があり、その月の電話当番になった家に順繰りに回されていくのだが、呼び出しをするときは「おーい」と声をかけるのではなく、各戸の室内の壁に設置された「電話呼び出し板」の、その家のボタンを押して知らせるという方式だった。
ブザーが鳴った家の人は、社宅の敷地内にある電話ボックスまで走っていって(歩いてもよいが・・・)、そこに設置されている電話を取ると、かけてきた人と通話ができるというしくみだった。

自分のほうから誰かに電話をかけたい時には、電話当番の家にある電話にかけに行くのではなく、やはりその外の電話ボックスに行ってかけていたのだと思う。「と思う」というのは、じっさいにそこから大人が電話をかけているのを見たことがなかったからだけれども、電話をかけることができることは知っていた。

というのは、子供たちは大人から「電話ボックスで遊んではいけません」と言われていたので、中に入るのは悪いことだとわかっていたのだが、一回誰かが「リカちゃん電話」に電話してみよう、と言い出して、電話をかけたことがあったからだ。

電話ボックス内の電話は、たしか昔の公衆電話のようにコインを入れるタイプで、10円玉で3分間話せたのではないだろうか。電話機の色は忘れてしまった。赤ではなくて黒かったような気がする。

そのころの親分格だった小学校高学年くらいのお姉さんが10円玉を入れて恐る恐るダイヤルを回すと、ほんもののリカちゃんの声が聞こえてきたので、なんだかとてもドキドキしながら4、5人で回し聞きした。残念ながら内容はすっかり忘れしまった。が、親には言えない大切な記憶のひとつになった。

調べてみると、当時のリカちゃんの声を担当していたのは杉山佳寿子だという。のちにアルプスの少女ハイジの声で一世を風靡した声優さんだ! リカちゃん電話は1968(昭和43)年に音声メッセージが始まったというから、わたしはまさしくその始まりに近い頃にリカちゃんの声を聞いたひとりだったようだ。


左手の木のキャビンが、社宅にあった電話ボックス。写真が残っていてうれしい。右手の建物の近くにあるように見えるが、実際には電話ボックスと建物の間にスロープがあり、かなり離れていた。昭和45年ごろ。この頃にリカちゃん電話をかけたのではないだろうか。 







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